ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 第2回 越谷宿から粕壁宿へ

2012年10月17日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年10月17日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第2回目のこの日は、越谷宿(東武スカイツリー線越谷駅)から粕壁宿(東武野田線春日部駅)までの約13Kmを歩いた。

9時3分、この日の出発地東武スカイツリー線越谷駅に到着。
前回、ゴールした駅である。


この日の参加者は11名。
早速駅前でストレッチで身体をほぐす。


9時過ぎで人通りも少ない。


9時14分、粕壁宿(春日部駅)目指して出発!


前回歩いた道よりもやや狭いなとは思ったが、続きを歩いているのだと思い込み、
道路沿いにある江戸時代の面影を残す塗師屋を探すが見つからない。


出発して30分ほど歩いたところで、国道新4号線に行き当った。
『んんんっ???』
国道新4号線は、地図を見ると東武線を挟んで全く逆にあるではないか。
近くで農作業をしていた人に訊ねたところ、『そのまま進むと東京方面だよっ』 『え~っ!』
越谷駅で降りる方向(東・西)を間違ってしまったのだぁ。
既に越谷駅から3Km近く歩いていたが、そのまま進む訳にはいかない。どこかで戻らなければならない。
この先神明町交差点を右折すれば北越谷駅に戻れることを教えて貰った。
ということで、逆方向(春日部方面)へ歩いているところなのである。


国道新4号線をひたすら神明町交差点を目指して進む。


秋田犬売買の店があった。
見るからに賢そうな表情である。


日本橋から29Kmの表示。
農作業の人に言われたように、このまま進むのが正しいことを確認。


10時3分、越谷駅を出発して50分を経過。
車の排ガスが気になるが、ここで一休みしよう。


神明町交差点だ。
これを右折すれば、北越谷駅である。


前方は神明橋


神明橋を渡る。
交通量が多いため、車道・歩道分離となっているので、安全だ。


現在の元荒川は、江戸時代以前に荒川として下流で利根川へ流れていたが、江戸時代以降の河川改修により、
入間川へ切り離され、東京湾へ流れ込む様に川筋を人工的に変えてきた。
そのため名前だけが荒川として残っている。


10時27分、北越谷駅が見えてきた。


北越谷駅
越谷駅を出発して1時間15分以上経過していた。
大幅なタイムロスである。


とんかつが美味しそう。


東武線の高架に沿って進む。


この時期、金木犀の花が良い香りを漂わせる。
金木犀の木は各家に1本は植わっているのではないか。それほど多いということだ。


宮内庁埼玉鴨場に到着した。あいにく門は固く閉じられていた。
宮内庁が管理している鴨場としては、ここ埼玉鴨場と、千葉県市川市にある新浜鴨場の2ヶ所がある。
明治四十一年(1908)、皇族・政府高官らが賓客を招いて鴨猟を催すために整備された。
総面積12haにも及ぶ広大な敷地には、1万羽を越える野鳥が飛来する、そうである。
一般の立入は禁止されている。


『これあけびじゃなぁい? すっご~い』


立派なアケビが鈴なりである。
アケビとよく似たムベの生垣は見たことはあるが、アケビは初めてである。
盗んでいく人はいないのだろうか? 
アケビの美味しい食べ方を知らない人が多いからなのだろうと勝手に推測した。


東武線の踏み切り
電車が通り過ぎるのを待つ。
しかし、この踏切は実に頻繁に電車が通る。
踏切を通り過ぎたばかりだというのに直ぐまた別の電車が。
5分ほどの間に3回も踏切が開閉したのにはびっくりだ。


この辺りの道は歩道がなく危ない。


国道新4号線の高架


高架を抜けると、春日部は左側に曲っている。
旧国道4号線である。


春日部まで6Kmの表示。


道路沿いにファミレスが次々と現れる。
ファミレスが気になりだしたということは、お腹が空いてきた証拠である。


新方川(にいがたがわ)を渡る。
新方川は利根川水系の中川支流で、千間堀と呼ばれている。


千間堀に沿って進む。


道路の左側(向い側)に歓喜院(武里観音)があった。
五穀豊穣の神として崇められている「大枝香取神社」の鳥居が見える。
「大枝香取神社」は、明治期の神仏分離政策で、境内が分けられ、その後近隣の神社を合祀し、
付近(旧大枝村)一帯の鎮守となった、とのこと。


反対側、つまり歩いている側に”人生は六十から”の碑があった。
この碑にあるように、迎えが来ても『頃を見てこちらからボツボツ行く』と云ってみたいものである。


昼食場所を求めて越谷市立平方公園へ向かう。浅間神社が近くにあるらしい。
地元の人らしき人に場所を訊ね、直ぐ近くと言われ歩いたのだが・・・
国道4号を逸れて既に2Kmは歩いただろうか。
目印となる浅間神社らしきこんもりとした林が見えてきた。


浅間神社だ。小さな神社である。
これでは知る人ぞ知るである。


浅間神社の裏手に目指す越谷市立平方公園があった。


時計は12時20分になろうとしていた。
越谷駅を出発して歩きっ放しである。お腹も大分空いていた。
公園の東屋で仲良く昼食だ。


昼食後にもストレッチで身体を労る。


『これをやっておけば疲れは残りませんからねっ』


13時ちょうどに平方公園を出発し、国道4号へ向う。


”♪粋な黒塀 見越の松に♪” 昔懐かしい「お富さん」の一節を想いだす。
それにしても立派な松である。


林西寺りんさいじ
浄土宗の寺院で、「子育て呑龍様」の名で親しまれている呑龍上人の供養墓地がある。


平方公園から20分足らずで国道4号に戻った。


お地蔵さんが2つ並んでポツンと佇んでいた。


史跡備後一里塚跡の碑
日本橋から8番目の一里塚である。


善巧寺ぜんぎょうじ


浄土真宗を開いた親鸞聖人の像を熱心に撮る外人。
宗教に興味があるのだろうか?


東武野田線を通り過ぎ、日本橋方面を望む。


八坂神社
天王様の通称で親しまれ、六斎市が立ったところから市神様として信仰された。
真新しい社殿である。


境内に筆子塚が建てられていた。
筆子塚は、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、
師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、費用を出し合って建てた墓である塚または供養塔のこと。


東陽寺
曹洞宗の寺で、創建は文明年間(1469~)と伝えられている。
開基は寛永年間に僧熊巌(ゆうがん)が中興開山したと伝えられている。


江戸期には新西国三十三ヶ所30番で、参詣は引きもきらぬ勢いだったそうだが、寛永元年(1624)一切を焼失。
39年後に現在の地に旧名を復活して小庵が建立された。
その後も焼失と再建を繰り返し、現在に至っている。
これまでの無事安全を感謝してお参りした。
お参りを終えたところで、突然、小雨がパラついてきた。


東陽寺は、「奥の細道」で有名な芭蕉と曽良の第1日目の宿泊地と伝えられている。
本殿前には曽良の随行日記中の「廿七日夜 カスカヘニ泊ル 江戸ヨリ九里余」を刻む碑が建てられている。
今では一日で九里(約36Km)を歩くのは結構大変であるが、当時は普通の距離だったのだろう。


東陽寺の四脚門の山門を抜けると・・・


春日部の市街地が現れた。
本降りにならないうちにと春日部駅へ足を速めた。


電柱がないので、スッキリしている。


田村家の蔵
家の前のポストの反対側に「西南 いハつき」と刻まれた道標が立っている。
写真を撮っていると、地元の人が寄って来て『1,700町歩もの大地主ですよ』と聞かされた。


それにしても大きな屋敷である。
付近一帯は田村の表札がいっぱいである。


春日部駅前の道路の入口にあった可愛らしい像。


春日部駅前のロータリー、時計は14時25分になろうとしていた。
雨はいつの間にか止んでいた。


14時26分、東武野田線春日部駅に到着。本日のゴールである。
最後は雨に降られる前にと急ぎ足だったため、疲れが出て少々喉も渇いた。


駅隣のビル1階にVie De Franceがあったのでお茶タイムに。
めいめい好みの飲み物を注文
『お疲れさまでしたぁ~』


柏駅に向かう東武野田線の車内
『雨に降られなくて良かったわぁ』


この日は出だしから方角を間違って、逆方向に歩くなどハプニングがあったが、
無事ゴールの春日部駅に到着できて、ホッと一安心である。
当初約13Kmの歩行距離と見込んでいたのが、16Km以上は歩いたと思われる。
仲間の皆さんには、余分に歩かせることになって、申し訳なく思っていたが、
『ウォーキングにはつきものよっ』と慰めの言葉を貰ったのが、嬉しかった。
次回以降はちゃんと歩きたい。


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コメント
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