福神漬の命名者だった梅亭金鵞は明治マンが雑誌團團珍聞の編集者であった。彼の経歴から日本のマンガの歴史を調べると平安時代の『鳥獣人物戯画』からいきなり明治マンガに行ってしまう日本マンガ史が多い。この間のマンガに関する文献は中々見つからない。
團團珍聞の團とは○○ということを表わしていて伏字であることを示していた。読者は伏字の意味を推量して楽しんでいた。この○○と言う伏字は江戸時代の好色本の禁止から工夫されたものである。江戸時代の子供向けの本の価格は今の物価に換算して100円強の値段だった。(山東京伝の黄表紙を読む. 棚橋正博著)
寛政の洒落本筆禍かから武士出身の作者は消え、町人出身の山東京伝が作風を変え、教訓黄表紙に作家としての活路を求めた。と同時に人口が急増していた江戸の娯楽として黄表紙が受け入られることとなった。子供用の絵本から発展した黄表紙は次第にマンガ(絵付き草双紙)として発展してゆくようになっていった。黄表紙文学の興隆と町人経済の発展による人口の増大が出版文化の興隆をもたらしたと棚橋氏は書いている。子供向けの本から始まった黄表紙は子供の成長と共に読者層の要求に応えるように黄表紙も大人向けの絵付き草双紙となってゆくのは必然である。これは戦後の小年マンガが次第に大人も読み応えのあるストーリーマンガに変化したと似ている。(197頁)
棚橋先生の本は読めば読むほど文学から見た江戸時代政治経済の解説本と感じる。