年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

上野公園は霊地だ

2012年09月12日 | 福神漬
江戸の本草-薬物学と博物学 矢部一郎著
30年前の本だが日本の本草学の歴史が素人でもよく理解できる本だった。中国から伝わった日本の本草は中国とは違った発展が進み、そこでオランダからの西洋植物学を入れる土台が出来ていたと言う。さらに明治になっても植物学は他の学問と違って文明開化の影響が少なく、上野の博物館に伝わったと思う。
 田中芳男は明治14年に大日本農会を作った人だが尾張の本草家伊藤圭介の弟子だった。さて大日本農会だが初代の総裁はあの上野戦争の当事者であった北白川能久親王(上野戦争時は寛永寺の輪王寺宮)で反西軍の代表となっていた人だった。田中は東京国立博物館、国立科学博物館、東京都恩賜上野動物園の基盤を築いた人として知られている。
 福神漬の顕彰碑の揮毫した人物は明治15年大日本水産会を作った村田保で大日本水産会初代会頭は小松宮彰仁親王(上野動物園の前に銅像がある)で弟が北白川親王でした。田中芳男も福神漬の命名の件で出てくる人物ですべての逸話は上野に収れんされてくることになります。
 この様なことから徳川幕府に於いて上野は鬼門を守る霊地であったが福神漬の命名時の逸話には上野周辺の幕末史が凝縮されていることを感じます。幕末から明治中期までの混乱があの缶詰に入っているのです。
缶詰がナポレオンによる軍隊用食品の長期保存方法の懸賞から始まりました。その缶詰が日本に入って、漬物を入れることによって軍隊用食品となり、日露戦争で軍隊食として普及し、戦後安く軍隊から払い下げられ庶民にも福神漬が食べることができ、一等国の味となりました。
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