山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

阿信県行旅、大正5年7月、おしんは長井線(経由奥羽線)で上京、浅草での髪結奉公に向かった。

2013-10-21 16:09:19 | Weblog
              開業100周年を迎えた長井線、おしん上京時は蒸気機関車

10月19日、フラワー長井線は開業100周年の記念式典を行った。
(1913)大正2年10月26日に赤湯-梨郷間が開業、荒砥までの全線開通にはさらに10年かかった(1923.4赤湯-荒砥間全線開通)。
(1916)大正5年6月、おしんは酒田の米問屋・加賀屋での8年に亘る奉公から暇をいただき、(原作モデル地)鮎貝村栃窪に戻る。
まもなく最上製糸工場から肺結核で帰された、長姉はるの死去を看取り、遺言(髪結奉公修行)を胸に出奔上京を決意する。
この時点で、長井線は長井(駅)までしか開通していない。
大正5年7月、16歳のおしんは栃窪から長井駅まで(約18K)歩いて、長井線に乗車(蒸気機関車)、赤湯駅で奥羽本線乗換の夜汽車で上野駅着。
上野から浅草寺裏の猿若町「髪結 長谷川たか」を、歩いて探し訪ねて行く。
現在に準えれば、猿若町の髪結奉公先から隅田川を挟んだ目の前(1K超)に、東京スカイツリーが見えることになる。
(1922)大正11年12月、母ふじが初孫雄の出産の世話に上京する。
この12月11日(月曜)に、長井線は長井~鮎貝間が開通(鮎貝駅開業)する。
ふじは、鮎貝までの開通を待ち望み、喜び勇んで乗り込んだものだろう。
翌年、1月14日、おしんは長男雄を出産(三高・京都帝大文科と進み、1944.9学徒出征、1945.4.18フィリピン・ルソン島で戦死)。
おしんは、原作上で幾度か帰郷している。フラワー長井線は、世界に誇れる「おしんライン」と言えよう。
大正5年7月、おしんは長井線(経由奥羽本線)で上京、浅草での髪結奉公に向かった。
(以降、おしん「青春・東京編」)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 橋田壽賀子の朝ドラ「おしん... | トップ | 単純一郎の直情軽薄な脱原発論 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事