山形の森 保守醒論

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塩見孝也・元赤軍派議長の「生前葬」

2010-05-19 21:10:26 | Weblog
1960年の安保反対闘争から70年代までの左翼学生運動の指導的立場として、全学連~全共闘世代の極左革命戦闘集団「赤軍派」を結成、率いた塩見孝也元議長(69)が、4月24日に東京御茶ノ水の総評会館で「生前葬」を行った。
その(武装革命運動の)終焉を告げる「生前葬」に至る関係者に送ったとされる遺言状の要旨で、「僕(塩見)は赤軍派議長として、実行した軍事至上主義の武装闘争路線を清算する事を改めて宣言します」と事実上、自らの極左武装活動に反省の弁を述べている。
遅かりしとは言えど評価すべきことではあるが、果たして極左思想に駆り立てた要因は何処にあり、その思想形成はどのように積み重ねられたのかを問いたいものだ。
その情報要因として、日教組教育、岩波の「世界」、朝日新聞・朝日ジャーナル等の左傾メディア、進歩派のアカデミア諸氏(ML派○○教授ゼミ)の影響などは、どのように関連付けられるものだろうか。
そのことの総括・解明が為されなければ、欺瞞に満ちた戦後回想に終止符を打つことはできない。
「彼(塩見孝也元議長)は、70年安保前夜の大衆闘争に焦燥感を募らせ、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って武装革命を実現しようと計画する。
ところが、計画実行直前に治安当局に察知され、東京・駒込のアジトを出たところで逮捕され、残る“赤軍派同志”9人が2週間後(1971.3.31)、日航機「よど号」をハイジャック、北朝鮮に入国した」。
いまでは虚偽とも言える北朝鮮に魅せられた北鮮情報は、どういったルートで誰から得たのであろう。
塩見孝也赤軍派元議長の裏の師は?、あるいはコントロールしていた(国際)謀略組織は誰だったのか。
塩見は「『武装闘争は間違いだった』と認めているが、いわゆる連合赤軍事件は、塩見が獄中にいる間の発生案件として、『連合赤軍は赤軍派ではありません。僕が仮に外にあって、指揮を執っていたとすれば、断じて同志殺しはやらなかった(反対派12人を“粛清”するリンチ殺人事件に関係ない)』と否定している。
武装闘争路線の根源は共産主義思想(日本共産党)にあるわけであるから、言行伴う思想転向がなされなければ、一連の連合赤軍事件についての責任回避に信頼性は感じられない。
塩見は今でも「革命家」を自称して「沖縄支援・憲法9条改正反対」をスローガンとする運動等を展開していることから、終生に亘り極左革命思想家のレッテルが外れることはない。
革命思想崩れの消えないDNAは、いまも左翼政治家・労組活動家に憑いている。
鳩山民主党政権が引きずる社会主義思想がマニフェストには色濃く出ている。
そこに気付かない愚鈍な自民党政治家にも、もはや保守思想の真性レッテルは潰えている。

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