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鹿野道彦が、15年間訴え続けてきた政権交代って、な~んだ?

2009-09-08 06:59:41 | Weblog
9.4朝日新聞、山形一区で当選した鹿野道彦は、「15年間訴え続けてきた政権交代が、いよいよ到来した」と喜びを語る。
閣僚経験もあり、中央での活躍が期待されているが、との問いに、「仲間の議員からも、早く東京に来て政権を担った時の経験を話してくれ、と言われている」。
1993.7の第40回総選挙(政治改革解散)は、新生党・日本新党・さきがけに馳せた自民離党組もあって、自民党は過半数割れとなり、細川連立政権発足により野党に転落した。
野党自民党の復活には世代交代、政治改革推進(?選挙制度改正)の党内の声を受けて、総裁選挙も宮沢派の河野洋平が選出された。
派閥領袖以外による党執行部待望論などもあり、竹下派から橋本龍太郎、三塚派から鹿野道彦、渡辺派から野田毅などと派中堅幹部の名が挙がってきていた。
結果は、党三役に森喜朗幹事長(三塚派)、木部佳昭総務会長(渡辺派)、橋本龍太郎政調会長(竹下派)の布陣となった。
ここから小沢一郎による自民党切り崩し工作が始まるのだが。
話は一旦、2年前にさかのぼる。
1991.5.15、安倍派領袖の安倍晋太郎元外相は、宰相の座を前にして死去する。
健康問題さえなければ、すぐにでも首相にと待望されながらの痛ましい最期だった。
派(清和会)の後継争いは、安倍派四天王と呼ばれた、塩川・加藤・三塚・森のなかから選ばれることだろうとほぼ一致するものであったが、分裂含みの多数派工作が激しさを増すなか、「第五の人物で派の分裂を収められないものか」、などのいろいろな思惑が交錯していた。
その最中の5.26、山形新聞(共同通信)の二面に、“ニュープリンス待望「ポスト安倍」”の記事が、石原慎太郎・小泉純一郎・鹿野道彦3人の似顔絵入りで掲載された。
その後、石原は東京都知事となり、小泉は首相となる。
この二人は個性が全面にでた理念政治家として捉えられて、その政治姿勢が直接その後のポスト獲得に繋がっていく。
鹿野はまったく逆に、私心を示さず先輩には忠実に仕える忠勤姿勢が、議員仲間に評価されていた。
役人にも聞きわけの良い悪癖のない、役所にとっては御し易い議員。
ところが、河野総裁のもと人事調整に走る麻生太郎(副幹事長)を通じて、同窓の気安さから、自らの国対委員長ポストを望んだことから忠義な政治家は一転して勇み足の猟官逆徒となってしまう。
以後、三塚派内の非難に孤立を深める日々を送ることになる。
そこに、小沢が放った離党工作員(中西啓介)の魔の手が忍び寄る。
「自民党はもう終りだ。仲間を引き連れ(連立)与党にくれば処遇する。」
渡辺派の野田毅にも同様に、二階俊博が引抜き工作を担当した。
94.4.8の細川首相退陣表明で、細川後継政局は一気に動く。
4.14、鹿野に(小沢から首相に担ぐからと工作打診された)渡辺美智雄が派の同志40人ほどを引連れ、離党を決意したとの情報が齎される。
いまが天の時とばかりに(高く売れる時、渡辺より先んじて離党会見を)と、翌4.15ドタバタの「新党みらい」結成会見となった。
その直後に、渡辺一派は河野総裁との会談で離党を回避したことが伝えられた。
結成5人組のなかには、党内議員に借金踏み倒しで「新党未払い」などと揶揄されたものもいた。
4.26、羽田内閣発足(4.28)を前に、連立参加の政党・会派(「新党みらい」含む)が、首相官邸で連立の政策協議に入った。
その間に社会党が小沢主導の強引な国会運営を批判して、連立離脱を決める。
「社会党離脱、自社連携」の一報を、某記者が官邸内で鹿野に伝えると、見る見る血の気が引く(そんなはずは・・・!)呆然とした表情を見せたと聞く。
いまさら元(自民党)には戻れない、前に進むしかない。
野党自民党を離れ政権与党の一員になる行動判断は、2ヵ月間での羽田政権総辞職、“自社さ”村山内閣発足であっけなく潰えた。
無所属当選の遠藤利明が座った山形一区の自民党枠は、以後今日まで続いて来ている。
これが、「15年間訴え続けてきた政権交代」の真相、与党議員になることが目的で、理念や政策などは後付けの感がする。
政治改革のためって、国民に向けた政治家の都合良い“結果オーライ”の方便である。


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