山形の森 保守醒論

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おしんの里(旧栃窪集落)での歴史研究会に参加。  「おしんの家」の跡地位置を確認できた。

2013-11-05 18:49:15 | Weblog

   中央付近にロケ時の吊り橋(大平橋)、上部中央の山間に旧栃窪集落「おしんの里」


      下部の杉林に覆われた部分が、旧栃窪集落の中心域

去る31日、古老Sさんから「明日(11.1)、歴史研究会の方々が栃窪を訪れるので、よかったら来て見たら。」との連絡をいただいた。
早速、「なにか、新しいことが聞けるかも・・・」と伺った。 (おしんを訪ねて)今年、6度目の栃窪通いとなる。
廃村となって40年余経過しており、集落の面影は旧い写真と付き合せても、門外漢のブログ子には想像の域を脱し出来ないできた。
それが、会長さんが栃窪出身とあって、草木に覆われた集落跡地を個別に詳しく説明していただいた。
昭和46年に集落集団移転(38戸)を行ったものだが、Tさん夫妻は毎年、夏季期間だけは、栃窪の旧家屋に戻って暮らしていた。
NHK「おしん」が放送されたのは、集団移転(廃村)から10年余後の昭和58年4月~59年3月。
原作の(おしん生誕)モデル地と模されたことで、(たった一軒居住の)Tさん旧宅にマスコミ取材が殺到した。
雑誌・週刊誌に紹介されたことで全国(関東・大阪など)から、おしんに魅せられた観光客(?)が押寄せ、Tさん夫妻はそれぞれ持て成し、泊って滞在していく者も多数いたと言う。
そんなこともあり、Tさんは旧宅を「おしんの家だ。」と語りながら、晩年まで過ごしてきたと言われる。
いまは亡くなり、(Sさんの土蔵以外の)集落全ての家屋は等しく自然倒壊された模様だ。
屋敷跡の基礎コン、ブロック、石垣などが往時の面影を感じさせている。
NHK「おしん」第3回(1983.4.6放送)、83歳のおしん(乙羽信子)が、最上川に架かる白鷹町の吊り橋(大平橋)から上流を眺めながら、翌日に故郷の生家を訪ねるシーンがある。
ロケが行われた昭和58年ころには、正面の山間に旧栃窪集落はしっかりと見えていたものだが。
いまでは植林した杉林に覆われて、集落の全景は見えなくなっている。
歴史研究会一行は深山郷に降りて、「のどか村」でのそば会食を終えてお開きとなった。
「おしんの家」(Tさん旧宅)の跡地位置を確認できた、実り多き(飛び入りの)研究会参加であった。


      おしんが行けなかった(?)、栃窪尋常小学校跡地(明治25年開校)



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