山形の森 保守醒論

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政治家も官僚も危機に対し、無策な「観念的理想派」が大多数

2007-10-28 17:41:45 | Weblog
危機管理のエキスパート佐々淳行氏の著書の中で、湾岸戦争時の海部政権が狼狽する様子の記述があり、思い起したことがある。
佐々は、(湾岸戦争)戦前の外務省の情勢判断は、二つに分かれていたと述べている。
“戦争はない。 あってはならない。”とする「観念的理想派」と、“戦争になる可能性大”と見る「現実派」であったと。
当時、無役の後藤田正晴から佐々(無役の民間人)は、「ゴッド・フォン」で呼び出され、「戦争になるのか、ならんのか。 アメリカ(政府関係者から)の情報を取って来い。」と言われ、私費で渡米したと言う。 
隠された「二元外交断行の指示」である。
後藤田ならではの強引さで罷り通ったことではあるが、海部首相自身が、サダム・フセインのクウェート侵攻の第一報に接し、「驚いた。 こんなことがあっていいものか。」とありうべき情況想定が、まったく無かった。
国家のリーダーが、“平和ボケ・ニッポン”そのものだったのだ。
結果は湾岸戦争に発展し、何も出来ない日本は、言われるがままに戦費負担として135億ドルの“金を出すだけ”で、世界の仲間外れを経験することになった。
いわゆる「湾岸戦争のトラウマ」である。 それから十余年経過したが、いまだ“世界エントリー”には程遠く、世界経済のなかで、当事者欠如の「貢献」なる言葉から脱皮出来ないでいる。
政治家も官僚も危機に対し、現実想定から乖離した「観念的理想派」が大多数なのだ。
当時のカマキリ栗山外務次官は、その後、駐米大使に転任するが、ボケから覚醒することなく「観念的理想派」のまま優雅な外交官生活を送るだけだった。
ブログ子は、翌3年1月17日、米がイラク攻撃(湾岸戦争開戦)のニュースを耳にした時、通勤で目黒通りを都心(永田町)に向う車の中で、目黒消防署付近だったことを記憶している。
平成2年8月2日から、私の安全保障観は変わった。

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