雫石鉄也の
とつぜんブログ
どんぶらこ池
うしがえるが鳴いている。水面の半分以上はヨシが生えていて、ヨシ以外にもスイレンやホテイアオイが繁茂している。水面が見える面積はかなり狭い。その狭い水面を、アメンボが遠慮がちに滑っている。
この池のほとりに立つのは何年ぶりだろうか。子供のころ、よくこの池に遊びに来た。ザリガニを釣ったり、タイコウチやヤゴといった水棲昆虫を捕って遊んだ。
「どんぶらこ池」その池はこう呼ばれていた。わたしが子供のころはもっと大きな池だった。いまは池の面積は半分になり、半分は公園になっている。
この池の水面に波が立つことはない。しかし、一度だけこの池の水面が激しくゆれたことがあった。
きょうも給食のパンを残した。一度ランドセルの底にパンが入っているのを見つけられて、おばさんにこっぴどく叱られた。サチコはおかずだけで、おなかがいっぱいになってしまう。パンまでとても食べられない。パンを残していると夕食を食べさせてくれない。
池のほとりに座ってパンをちぎって池に投げ入れた。数匹のコイがやって来てパンを食べる。その中でもひときわ大きなコイが、いつもサチコのすぐ近くまで寄ってくる。水面に顔を出して口をパクパクさせて、次のパンをねだる。友だちの少ないサチコにとって、そのコイは友だちだ。
その池はわたしの下校ルートだった。5年生の時サチコは転校してきて、わたしと同じクラスになった。席も隣になった。暗い女の子であった。なんでも両親を台風で亡くし、親戚の家に預けられているとか。
そのサチコが毎日、池の端で座っている。暗い子だから、おしゃべりしても楽しくない。だからわたしは、声をかけずにその横を通り過ぎるだけだった。声はかけないが何をしているのか興味があった。
ある日、思い切って声をかけた。
「なにしてんの」
「パンやってんの」
「それ、給食のパンやんか。食べへんのか」
「おかずだけでおなかいっぱい」
「そんなもったいない。オレが食べてやる」
「いいの。コイタロウが食べてくれるから」
大きなコイがパンくずをくわえて池の中に泳いでいった。
それから、わたしは、池の端に座ってコイにパンをやっているサチコとときどきお話をするようになった。サチコは、ほんとうは頭が良くて、思ったほど暗い子じゃないことがわかった。学校でも会話をするようになった。わたしはサチコの友だちになったようだ。
「あのね。わたし、こんど転校するの」
「え、神戸に来て4ヶ月しかたってないやんか」
「いまのおばさん、4ヶ月だけという約束でわたしをみてるの」
「次はどこに行くの」
「北海道」
「そこも4ヶ月か」
「うん」
「おちつかなくて大変だね」
「うん。でも、わたし、ここがいい。神戸がいい。ここにいたい。ここがいいの。コウちゃんもいるし、コイタロウもいる。大人になったら神戸に帰ってくる」
サチコは北海道に引っ越した。何度か手紙のやりとりをしたが、そのうち、疎遠になった。
わたしは商社に就職し、それを知ったのはロンドンにいたときだった。
1995年1月17日。阪神大震災。神戸は壊滅的な被害にあった。さいわい、わたしの家も家族も全員無事だった。安否確認の時、どんぶらこ池が半分になったと聞いた。池の北側にある石垣が崩れ、しかも激しいゆれで水門が壊れて、水が半分以上流れ出したのだ。
神戸はすっかり復興した。見た目は。しかし、街を歩くと、震災後の神戸は震災前とは違う街になっている。このどんぶらこ池も半分になった。
さて、そろそろ帰ろう。小学校の時の同級生サチコのことを想い出していた。チャプン。池の水面に波紋が行った。大きな魚が水面に現れた。こちらに泳いでくる。大きなコイだ。
「コイタロウか」
コイは水面に顔を出して口をパクパクさせた。持っていた食パンをちぎってやった。コイはタフで長生きの魚だ。ひょっとして生きていたらと思ってパンを用意していた。
横の公園に慰霊碑がある。阪神大震災の犠牲者はこの地域で95人。慰霊碑には95人の名前が刻んである。その中にサチコの名前もあった。彼女は独身だったから判った。念願どうり大人になって神戸に住んでいたのだ。そして神戸で死んだ。
「サチコ、コイタロウは元気だよ。ぼく光一も戻ってきたよ。神戸はあいかわらずきれいな街だよ」
この池のほとりに立つのは何年ぶりだろうか。子供のころ、よくこの池に遊びに来た。ザリガニを釣ったり、タイコウチやヤゴといった水棲昆虫を捕って遊んだ。
「どんぶらこ池」その池はこう呼ばれていた。わたしが子供のころはもっと大きな池だった。いまは池の面積は半分になり、半分は公園になっている。
この池の水面に波が立つことはない。しかし、一度だけこの池の水面が激しくゆれたことがあった。
きょうも給食のパンを残した。一度ランドセルの底にパンが入っているのを見つけられて、おばさんにこっぴどく叱られた。サチコはおかずだけで、おなかがいっぱいになってしまう。パンまでとても食べられない。パンを残していると夕食を食べさせてくれない。
池のほとりに座ってパンをちぎって池に投げ入れた。数匹のコイがやって来てパンを食べる。その中でもひときわ大きなコイが、いつもサチコのすぐ近くまで寄ってくる。水面に顔を出して口をパクパクさせて、次のパンをねだる。友だちの少ないサチコにとって、そのコイは友だちだ。
その池はわたしの下校ルートだった。5年生の時サチコは転校してきて、わたしと同じクラスになった。席も隣になった。暗い女の子であった。なんでも両親を台風で亡くし、親戚の家に預けられているとか。
そのサチコが毎日、池の端で座っている。暗い子だから、おしゃべりしても楽しくない。だからわたしは、声をかけずにその横を通り過ぎるだけだった。声はかけないが何をしているのか興味があった。
ある日、思い切って声をかけた。
「なにしてんの」
「パンやってんの」
「それ、給食のパンやんか。食べへんのか」
「おかずだけでおなかいっぱい」
「そんなもったいない。オレが食べてやる」
「いいの。コイタロウが食べてくれるから」
大きなコイがパンくずをくわえて池の中に泳いでいった。
それから、わたしは、池の端に座ってコイにパンをやっているサチコとときどきお話をするようになった。サチコは、ほんとうは頭が良くて、思ったほど暗い子じゃないことがわかった。学校でも会話をするようになった。わたしはサチコの友だちになったようだ。
「あのね。わたし、こんど転校するの」
「え、神戸に来て4ヶ月しかたってないやんか」
「いまのおばさん、4ヶ月だけという約束でわたしをみてるの」
「次はどこに行くの」
「北海道」
「そこも4ヶ月か」
「うん」
「おちつかなくて大変だね」
「うん。でも、わたし、ここがいい。神戸がいい。ここにいたい。ここがいいの。コウちゃんもいるし、コイタロウもいる。大人になったら神戸に帰ってくる」
サチコは北海道に引っ越した。何度か手紙のやりとりをしたが、そのうち、疎遠になった。
わたしは商社に就職し、それを知ったのはロンドンにいたときだった。
1995年1月17日。阪神大震災。神戸は壊滅的な被害にあった。さいわい、わたしの家も家族も全員無事だった。安否確認の時、どんぶらこ池が半分になったと聞いた。池の北側にある石垣が崩れ、しかも激しいゆれで水門が壊れて、水が半分以上流れ出したのだ。
神戸はすっかり復興した。見た目は。しかし、街を歩くと、震災後の神戸は震災前とは違う街になっている。このどんぶらこ池も半分になった。
さて、そろそろ帰ろう。小学校の時の同級生サチコのことを想い出していた。チャプン。池の水面に波紋が行った。大きな魚が水面に現れた。こちらに泳いでくる。大きなコイだ。
「コイタロウか」
コイは水面に顔を出して口をパクパクさせた。持っていた食パンをちぎってやった。コイはタフで長生きの魚だ。ひょっとして生きていたらと思ってパンを用意していた。
横の公園に慰霊碑がある。阪神大震災の犠牲者はこの地域で95人。慰霊碑には95人の名前が刻んである。その中にサチコの名前もあった。彼女は独身だったから判った。念願どうり大人になって神戸に住んでいたのだ。そして神戸で死んだ。
「サチコ、コイタロウは元気だよ。ぼく光一も戻ってきたよ。神戸はあいかわらずきれいな街だよ」
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メッセンジャーの力投で初物外国人先発の中日に勝つ
今の阪神がいっちゃんやったらあかんこと。それは下位球団との試合を取りこぼすこと。で、ちゅうこっちゃから最下位中日に負け越すなんて許されへん。3タテくらわさなあかん。
で、その中日の今日の先発。初対戦のネイラー。初もんの外国人ピッチャー。こりゃちょっと不気味やな。ほんでもって、メッセンジャーとの54番どうしの投げ合い。7回までO行進の投手戦。8回鳥谷と福留のタイムリーで2点先制。ネイラーをKO。9回にも相手のミスでもう1点。メッセンジャー、呉昇桓に直結。呉昇桓なんなく3者凡退におさえて勝った。
で、その中日の今日の先発。初対戦のネイラー。初もんの外国人ピッチャー。こりゃちょっと不気味やな。ほんでもって、メッセンジャーとの54番どうしの投げ合い。7回までO行進の投手戦。8回鳥谷と福留のタイムリーで2点先制。ネイラーをKO。9回にも相手のミスでもう1点。メッセンジャー、呉昇桓に直結。呉昇桓なんなく3者凡退におさえて勝った。
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