goo

とつぜんコラム №159 なぜ政治に金がかかるのか?

 政治にはとかく金が要るらしい。だから有力な政治家≒金集めのうまい政治家となる。=ではなくて≒を使ったのは、そうでない政治家もきっといるに違いないという小生の願望である。現実は=なのだろう。
 政治に金が要る。これは端的にいえば、選挙で当選するには金が要るということだろう。なにもしなくても顔と名前を覚えられているタレント候補なら、政見放送と公報だけで、一銭も使わずに当選可能かも知れない。しかし、有能な政治家になれる資質は充分にあるが、無名ならば当選は難しい。
 そこでどうしても当選したい候補者は、有権者が喜ぶことをして、見返りに自分に投票してもらうわけだ。人は何をもらえば一番喜ぶか。ま、たいていの人は金をもらえば喜ぶ。で、金をやって投票してもらう。買収である。かようなシンプルな買収はさすがに少ないと思うが、それでも選挙後の報道に接するにけっこう有る。
 直接、金をやれば選挙違反となるから、ものすごく安い会費で行楽に連れて行ったり、観劇にいったり、国会報告会と称する事前運動に来てくれた人にお土産をもたせたりするわけ。なにごとを行うにしてもタダではできない。金がいるのだ。当選するには金が要る。=政治に金が要る。と、いうことになるわけ。
 現実問題として、今の政治家は、政治を行うことが目的ではなく、当選することが目的といっていいだろう。良き政治を行い、日本の国益に多大な利益をもたらした政治家は、当選してしかるべきだろう。そういう政治家ならば、彼が政治を行っているだけでこの国にとって良いことだから、ただたんに当選することだけが目的の活動は行う必要はない。ところが、今の日本にそんな理想的は政治家がいるだろうか。
 凡百の政治家は、政治活動よりも当選活動が、日々の活動の主目的となる。後援会を接待する、夏祭りに団扇を配るといった、有権者に直接利益をもたらす行為は、一線を越えると法律違反となる。ところが、いわゆる地元への利益誘導型の政治を行う者は、後援会の観劇会や夏祭りの団扇とは違い、さして問題にはされないが、根本は観劇や団扇と同じではないだろうか。予算をいかにぶんどって来て、地元に利益をもたらすか。地方議員ならこれでもいい。しかし国会議員ともなると、自分の地元にだけ利益をもたらす政治家は政治家として落第だ。自分の地元にとっては利益でも、他の地にとっては不利益かも知れない。選挙になると「中央との太いパイプ」を自慢する候補者がいるが、小生はそんな候補者には絶対に投票しない。
 政治活動には金が要る=選挙に金が要る。こういう公式が成り立つのは、どうやらわれわれ国民有権者の自分さえよければ。という欲望が根本にあるのではないか。自分さえ良ければいい。地元さえ良ければいい。
 もちろん、自分の幸せを追い求める権利はだれでもある。望んで不幸を欲しがる人はいない。しかし、自分の幸せは極力自分でつかむ努力をするべきだと思う。
 なんでもお上のいうとおり。親方日の丸だからだいじょうぶ。このような日本の土壌が、金のかかる政治=当選することだけが目的の政治を育んできたのではないだろうか。お上がやってくれる、ではなく、われわれがお上にやらせているとの認識が大切だ。
 それに「お上」という言葉もやめよう。為政者が「上」で国民が「下」という感覚がいけない。この国の主権者は国民である。だから国民が「上」で為政者が「下」なのだ。これから「お上」ではなく「お下」といおう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )