goo

8月20日(月) 同族経営、その罪万死に値す

 賞味期限をごまかしていた北海道土産「白い恋人」の石屋製菓の石水社長が辞任する。この石屋製菓は大変なワンマン&同族会社で、経営にかかわる大切なことはすべて社長の母親と社長で決めていた。他の役員もほとんどが石水家の親族。石水社長自身も創業者の2代目。
 石屋製菓の従業員の方々にはお気の毒としかいいようがない。このような不祥事をおこした会社の従業員は共犯者との見方をするムキもあるが、小生はそうは思わない。むしろ彼らは被害者だと思う。
 このたびの賞味期限のごまかしにしても、決定して実行したのは工場長クラスの管理職だろう。製造現場で働く従業員は管理職の指示に従っただけである。会社という組織において、それがどのような指示であろうとも、指示に従わないということは職を失うことである。
 それにしても同族経営ほど罪深いものはない。不二家、ミートホープ、パロマなどなど、問題をおこした企業はほとんどが同族経営。同族ということは社長は先代社長の子供が、役員は社長の親族がなる。会社の決定事項は創業者一族だけで決めてしまう。ここに他人が口をはさむことはできない。アホが何人か集まって決めてもアホなことしか決まらない。まわりの人間が「そんなアホなことしたらあきまへん」といってもアホの集団は聞く耳を持たない。だから同族経営の会社にアホなことする会社が後を絶たないのだ。
 自分が作った会社を赤の他人にやるのはいや。かわいい血を分けた息子に跡を継がせたい。これ、親の個人的感情で親子の情に溺れているだけ。創業者といっしょに苦労に苦労を重ね、現場からたたき上げた、真に社長にふさわしい人がすぐ横にいるのに、ただ社長の息子だというだけで、どんなバカでもアホでも社長になってしまう。で、結局アホして会社を傾けてしまう。これでは苦労して現場で働いてきた従業員はたまらない。
 会社は創立した瞬間、「公」の性質を帯びる。だから、いくら創業者といえども個人的感情で会社をどうこうできないはず。それが嫌なら株式を上場してはいけない。また、株式会社にしなくとも、一人でも他人を雇えば、会社の経営者は従業員の生活に対して責任を負うべき。だから、その時点で会社は創業者の個人的な所有物ではなくなる。
 それが嫌で、どうしても自分の会社の跡を自分の子供に継がせたいなら、もちろん株式会社にしてはいけない。また従業員は一人も他人を雇わず、全員、パート、アルバイトも含めて子供、妻、親、兄弟、親戚だけでやるべきだ。
 会社を個人的な感情に溺れて左右することは万死に値する犯罪だといえよう。
もしこれをご覧になっている世襲の2代目3代目の経営者は直ちに辞任して、真にトップにふさわしい人に社長の座を譲るべきだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

カポーティ


監督 ベネット・ミラー
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン キャサリン・キーナー クリス・クーパー クリフトン・コリンズJr 

 1959年11月15日。カンザス州ホルカムで一家4人惨殺という凄惨な事件が発生した。この事件を知った作家トルーマン・カポーティは小説にしようと現地に取材に訪れる。第一発見者、担当刑事などを取材していくうちに二人の容疑者が逮捕される。カポーティはそのうちの一人ペリーと留置場で面談。その後彼をたびたび面会して取材を進める。
 裁判が始まり一審は有罪死刑。ペリーをもっと取材したいカポーティは有能な弁護士を紹介して、裁判を最高裁にまで持ち込み死刑執行の延期に成功する。おかげで取材は進み、新作「冷血」の執筆は進む。
 しかし最高裁から控訴棄却が下され死刑が確定。執行日も決定した。このころにはペリーの死刑回避に情熱を燃やしたカポーティの心境に大きな変化が。そして死刑執行の日が来た。
 ペリーはカポーティに心をゆるし素直に面会に応じカポーティの執筆の大きな助けとなる。最後まで口を閉ざしていた犯行当時の具体的な証言までカポーティにする。ところがカポーティはペリーに何度聞かれても新作のタイトル「冷血」を、題名はまだ決まっていないとウソをいっていわない。
 この映画は「冷血」とは犯人のことか作家カポーティのことか、どちらを指すかが大きなポイント。カポーティ自身はペリーにタイトルをいわなかった所を見ると犯人を指してつけたタイトルだろう。ところが映画を観ている観客は「冷血」とはカポーティ自身のことかも知れないと思えてくる。
 カポーティはある程度ペリーに感情移入して取材している。こんなセリフがある。「私と彼は同じ家で生まれた。彼は裏口から家を出て、私は表玄関から出た」自分の境遇と殺人犯ペリーの境遇を重ね合わせている。また、死刑執行直前には涙まで流している。
 しかし、作家が取材対象に過度の感情移入をすればロクな作品はできない。「冷血」はカポーティの最高傑作でありノンフィクション小説という新たなジャンルを創設した作品とされている。従ってカポーティがペリーを取材対象として作家の冷徹な目で見ている事もこの映画は描いている。ペリーの死刑の時期を自分の執筆の都合で延ばしたり早めたりしている。人間一人の生死を左右してまで作品を仕上げようとしたのだ。また、カポーティは被害者の遺体を見たときは涙を流さなかったがペリーが死刑になるときは流した。
 はたして「冷血」とはどちらのことだろう。ちなみにカポーティは「冷血」以後完成した小説は書いていない。そして酒に溺れて酒で死ぬ。
だれが「冷血」だ。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )