走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

まとめて言うていきんさい

2012年05月06日 22時43分33秒 | 家族の出来事
 母が亡くなって2週間という時が流れた。
 「時」というのは、ときに残酷で、ときに寛容である。

 振り返ったとき、ああすればよかった、こうすればよかったと悔恨の情ばかりが残るということでは残酷である。
 しかし一方で、そういった悔やみも含めて故人の思い出をゆっくりと消し去っていくということでは寛容である。

 私も、そろそろ立ち上がらなければならない。
 特に、この四ヶ月間、ある意味苦しかった。
 あるときは、何もできない自分に対して不甲斐なさを飛び越して、母の問いかけに対しただ黙るしかなかった己を責めた。

 葬儀の時、次のようなエピソードを紹介させていただいた。

 私が大学に行く前夜の出来事です。
 父が仕事中の不慮の事故で死んで一年しかたっていなかったため、母のことが心配で後ろ髪を引かれる思いでした。
 そんな私の思いを母は察知していたようです。
 真面目な顔をして、「ここに座って、私に『さようなら』を言うていきんさい(母は、怒ったり、真面目な話をするときに、出身の広島弁が出た)」という。

 あまりの真面目な顔に、母の前に正座をしました。
 母はこう切り出しました。
 「明日、お前は私の元から旅立つ。その時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  そして、四年後、お前は就職でこの地に帰らんかもしれんよねぇ。その時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  次に、お前が嫁さんをもろうた時、私はお前に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  そして、年の順でいったら私が先に父ちゃんのところに行くんじゃけん、やっぱりその時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  面倒くさいけん、まとめて『さようなら』を言うていきんさい」
 そういう母の真面目な顔に、私は「じゃあ、さようなら」といって深々と頭を下げた。

 畳に涙がいっぱい落ちた。

 母の思いが嬉しかった。
 顔を挙げると、不思議と肩の力が抜けたような感じがした。
 あの時から、私たち親子は特別な関係になったと思う。

 私は、あの時、あなたに「さようなら」を言ったので、今日はもう言いません。
 38年ぶりに会いたがっていた父に会ってください。

 負けず嫌いの母は、妙に気位が高く、自尊心の塊のような人だった。
 自分にはとても厳しく、小さい時から家事一切をさせられた。
 だから、一人暮らしをはじめても何も困らなかった。
 洗濯どころか、シャツのアイロンがけまでできた。

 生ゴミを出すのは私の当番だったので、大学時代の4年間、週2回の下宿のおばさんのゴミ出しを手伝った。
 そのおかげで、そのおばさんにえらく感謝された。
 「下宿生だからといってえらそうにしてはいかんのよ。自分の親だと思って手伝えることは手伝ってあげんさい。」
 普通のことを普通どおりする。
 それだけを教えてくれた母親だった。

 今回の母の死に際しては、たくさんの方々からご厚情をいただいた。
 人の優しさをしっかりと受け止めるようにと、母に教えられたような気がする。

 そのお返しに、
 今の自分にできること。
 人のためにできること。
 そのことを見つめなおすいいタイミングかもしれない。

 次のステージに向けて、幕が開いたような気がする。