走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

土俵が丸い理由(わけ)

2010年07月21日 22時20分27秒 | つぶやき
 今、大相撲が元気をなくしている。
 野球賭博、暴力団との交流などなど、今まで黙視されてきた黒い噂が顕在化したために起こったことである。
中には、自業自得だと思う人もいるかもしれない。
でも、「巨人・大鵬・玉子焼き」世代にとっては、当時の大鵬・柏戸の大横綱の姿は輝いて見えた。
彼らが大人の見本の一人だったような気がする。

 でも、琴光喜が子どもの頃通っていた相撲道場にマスコミのテレビカメラが入り、子どもを大写ししながら、「今回のこと、どう思う?」とマイクを傾けた。
信じられない光景だった。
その子どもにとって、きっと琴光喜は「希望の星」だったにちがいない。
いつかは僕もと、そう思っていたにちがいない。
 そんなにまでして、子どもの夢を打ち砕いてまで正義を貫き通さなければならないのか。
 なんとも味気ない世の中になったものだ。
 ルールはルール、間違ったことはなんでも断罪する思想が中心になっていて、「遊び」の部分がない。

 しかも、断罪した後のことは一切関係ない。
 なんともやるせない世の中になったものだ。

 相撲協会も国技という名の元に甘んじすぎたのではないか。
 楽に食べれると誰しも変化を求めなくなる。
 むしろ、それを守ろうとし、それが最優先されることになる。

 それで本当にいいのだろうか。
みんな相撲というスポーツの凄さを忘れてしまったのではないか。

 相撲は元来、躰全部をぶつけ合う格闘技である。
通常格闘技というと体格を揃えるものである。(ボクシングのように体重である程度揃えるように)
しかし、相撲はちがう。
体格の大きい力士もいれば小さな力士もいる。
これだけでも、アンフェアなスポーツだといってもいいだろう。
しかし、誰もそのことは言わない。

 それは、土俵というリングが丸いからである。
 通常、体格が大きい者の方がパワーがあるので、大きい者と小さい者が闘うと圧倒的に大きい者の方が勝つのが道理である。
 しかし、相撲では土俵を丸くすることで、そのパワーを弱めることになるし、円運動を利用しながら相手のパワーを活用する方法(技)もある。
つまり、パワーにアイデアを加味できる仕組みになっており、それは力のある者と力のない者にフェアなチャンス(機会)を与えることになる。

 日本人が本来有している姿勢は、弱者に対して単に「施す(または同情する)」という視点ではなく、相手に経緯を表しながら弱者のもつ力を最大限引出させるための機会を創出させるところにある。
だから、大きな力士も相手が小さくとも力を抜かず思いっきり当たっていく。
その精神は、「力」と「士(もののふ)」を組み合わせているところからもわかる。

 このことを相撲協会だけでなく、マスコミを含めた日本人全部が今一度思い起こして欲しいものである。