近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

養父市八鹿町の箕谷古墳群とは!そのⅠ

2009年05月15日 | 歴史
養父市の箕谷古墳群は、昭和58年に八鹿町の総合スポーツ施設建設工事に伴い発見された。

箕谷古墳群には5基の古墳があり、この箕谷の正面つきあたりに築かれた2~5号墳までの4基の群集墳と、さらに西に入った1号墳の2群から成っている。







写真は上から、箕谷古墳群全景、2号墳及び3号墳。

2~5号墳は、標高83m~92mのゆるやかな斜面に位置しており、いずれも円墳で無袖式の横穴式石室を埋葬施設としている。

石室はすべて谷の入り口方向である、南に開口するよう規則的に造られ、2・3・4・5号墳と順次標高の低い方から高い方へ築かれている。

時期が新しくなるにつれて墳丘・石室が小規模化しているのが特色で、この時期の古墳の変遷過程をよく示している。

2号墳は東西約12m・南北14mほどのやや南北方向に長い円墳で、横穴式石室は無袖式で、長さ8.6m・幅1.2m・高さ1.7mほどで細長いもの。



写真は、2号墳の石室。土器・鉄鏃・馬具などを復元・配置している。

側壁は基本的に3段、一部を2段に積んでいる。石室の床面には、20cm前後の山石を置いて第1次床面を造り、その上に土を少し入れて第2次床面としていた。

側壁の最も下には奥壁から大きな石材を4石続けて、その上に3段ほど石材を積み、表面の整った長方形の石を横積みした丁寧で安定感のある石室。

“つるぎが丘”公園整備のため行われた箕谷古墳群の発掘調査により、須恵器・金環3点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など103点の遺物が出土した。

出土した須恵器により、6世紀末から7世紀初旬に築造されたと考えられており、出土状況から2回以上の追葬が行われたとみられている。