近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

和歌山県の古墳巡り!はじめに

2009年05月27日 | 歴史
ここから暫くは、和歌山県内の古墳を巡って観たい。

先ず和歌山と云えば、黒潮あらう雄大な海岸線と緑滴る深い山々に包まれた紀伊国を思い起こすが、紀伊国は瀬戸内に接し、内陸への通路になっている紀ノ川平野及び海に向かって開けた沖積平野をもった地形を成している。



写真は、紀ノ川を挟んで広がる紀伊平野の光景。

稲作技術の進展による豪族の富の蓄積と畿内政権の影響力を背景にして、古墳が築造されるようになった。

県下では、3世紀末~4世紀初頭にすでに弥生時代の墳丘墓の系譜を継いだ古墳が誕生している。

約1750年前に登場した前方後円墳は、形や埋葬施設に地域を越えた共通性がある。古墳の形は、前方後円墳のほかに、前方後方墳、円墳、方墳などもある。

古墳の形と規模の差は階層性のあらわれで、その頂点にあるのが前方後円墳。
和歌山県で最初の前方後円墳は、紀ノ川下流の微高地上に造られた4世紀の和歌山市内の秋月1号墳。

この古墳に近い音浦遺跡で弥生時代末の大規模な用水路(現在の宮井用水の前身)が発見されている。

紀伊国の“一の宮”(諸国において由緒の深い神社・信仰の篤い神社)とされる日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の由緒は、古墳時代にさかのぼると云われるが、天照大御神の御鏡・前霊(さきみたま)を日前・國懸両神宮の御神体として、又後に鋳造された御鏡を伊勢神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されていると云う。



写真は、今も現役の宮井用水路。

日前・国懸神宮が、和歌山平野一帯を潤す宮井用水を奉るものであったと云われているが、宮井用水は今も現役の水路で、昭和の発掘調査では古墳時代の初期のものとされる大溝が発見された。

この水路は幅7~8m・深さ3~5mという巨大なもので、当時、すでに全国のどこにも引けを取らない、大規模な水田開発がなされていたことが証明された。

この時期は、開墾道具や農具の鉄器化が進み、大規模な水田開発が行われていた。秋月1号墳に葬られた人物は、大規模水田開発の指導者であったと見られている。

この地の豪族とは、国名の由来ともなった紀氏。紀氏一族の勢力は、現在の「紀伊風土記の丘」にある岩橋千塚古墳群により、その威厳ぶりを偲ぶことができる。

後述するが、この古墳群は5世紀はじめのものとされ、ひとつの丘の上に約700基の古墳が並ぶという大規模なもの。したがって、古代の紀氏は、他の地域のように飛び抜けた力を持つ首長がいたのではなく、多くの部族の首長が紀氏という一群をなしていたと考えられている。

5世紀末から6世紀に入ると特徴のある横穴式石室が生まれ、同時に各地に群集墳が営まれた。他方、田辺湾周辺では古墳よりも、むしろ墓として使われた岩陰遺跡の存在が顕著である。

県内の遺跡分布は、和歌山市・御坊市・田辺市を中心に各々河川に沿って広がっている。





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