近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

芦屋市春日町の金津山古墳とは!

2009年05月02日 | 歴史
金津山古墳は、阪神線・打出駅の北東百メートルほどにあり、“金塚”・“黄金塚”を別称にもつ市内最大の墳丘を残す古墳。

打出の村人を愛した阿保親王が万一の飢餓に備えて財宝をこの塚に埋めたという伝説がある。

最近の発掘調査で、本古墳に二重目の周濠を発見し、外濠の一部で、長さ約8m・最大幅1.5m・深さ30cmほど。濠の中から円筒埴輪が約80点出土した。

周濠部分の調査をくり返した結果、全長約55m・後円部径約40m・前方部長15mほどの前方後円墳であることが判明。

全長約55mの古墳は、阪神間で2番目の大きさで、出土遺物には大量の埴輪と須恵器があり、築造年代が460年代の前後という、古墳時代中期の前方後円墳。

阪神地域では伊丹市の御願塚古墳に続き2例目で、墳丘の周囲には周濠が巡っている前方後円墳。

本古墳は、地方を治めていた首長が埋葬されたと見られる。二重周濠は天皇陵などに多くみられ、「芦屋地方の地域勢力と中央との密接な関係を示す証拠では!」と云われてきた。





写真は、住宅地の狭い間を所狭しと陣取る金津山古墳とその遠景。

写真のように本古墳は、民家に囲まれた小高い塚があり、これまで“金津山古墳”と呼ばれ、大切に守られ、昔の打出の風景を伝えていると云う。

現在前方部は消失しており、後円部を残すのみ。昔この古墳の墳頂に厳島神社の祠が立っていたらしいが、現在はこの古墳近くの打出天神社に祀られている。



写真は、本古墳脇に鎮座する打出天神社。

芦屋地方を治めていた阿保親王は、打出の地に別荘を建てて村人達を愛し、親しみを持って接していたらしいが、村人達も親王さんと大層敬っていたと云う。

阿保親王は、村人達に「もし、自然の災害などで困ったときには、この塚を掘って役立てるように!」と、塚に宝物を埋めたといわれており、次のような歌が伝えられている。

「朝日さす入り日かがやくこの下に金千枚瓦万枚、この塚は金津山・黄金塚・金塚」などと詠まれているが、190年ほど昔の絵図には、街道のすぐ北のたんぼの中に大きい塚があって、その周りに道がつくられ、大きな松が描かれている。

「打出名所は、かずかずあれど、わけて名高い黄金塚」とも詠まれ、又打出の“みこしかき音頭”にも歌われ、街道をいく人々がお参りする名所になっていたと云う。

一方神功皇后が新羅出兵に際して打出の民のために埋めたとの説もあるらしく、“打出”の名前の由来として「神功皇后がここから新羅に打ち出たから、打出という!」説も伝えられている。