近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

光秀物語 サイドストーリー編そのⅥ

2006年09月21日 | 歴史
ここでは、光秀三女の玉子・細川ガラシャにスポットを当ててみよう。
ガラシャ生涯の悲劇的側面を取上げてみる。
1、細川ガラシャは、明智光秀の三女で、俗名は「玉子」、ガラシャは美しく、聡明な女性であったと云う。
細川ガラシャの後半生を大筋振りかって見ると、叛将・明智光秀を父に持ち、その負い目を受けたがゆえに、輝かしい栄光の日々に、背を向けた後半生を生きたと云える。
細川藤孝の嫡男忠興と結婚し、幸せな結婚生活の中、1582年、本能寺の変が起った。
 明智家は滅亡し、当然玉子も自害を覚悟していたが、忠興の寵愛で玉子を丹後・味土野の山奥へ幽閉することになった。
 寂しい幽閉時代を2年間過ごした。そこでお供の佳代よりキリストの教えを学ぶこととなる。
父光秀は討ち死にし、母は自決するという悲劇が彼女を襲ったが、そういう中で救いとなったのがキリスト教だったと思われる。
その後、秀吉の命で丹後より帰郷を許されることになる。
幽閉時代、夫忠興だけを頼りに生きてきただけに、留守中にできた異変、忠興の側室の存在が玉子を苦しめた。
しかしながら忠興の玉子に対する寵愛は依然激しく、外出さえも許されなかった。そんな苦悩の中、キリストの教えを深めていった。




写真は、聖マリア大聖堂とその入口に立てられたガラシャ肖像。
1587年、ついに密かに教会を訪れ受洗した。キリスト教を学び、洗礼を受けたのは、大阪城南の元細川屋敷。その元敷地に立つ教会が、玉造教会・聖マリア大聖堂で、入口に立つのがガラシャ肖像。
悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想だったというガラシャは、明るく柔和で、辛抱強く愛らしく「別人のようになった」と修道士の書簡は伝える。
「困難に出会って人の徳は最もよく磨かれ、美しい光彩を放つようになる」との教えの通り、ガラシャは輝きを取り戻し始めた。
しかしその直後、秀吉のキリシタン弾圧が始まった。
1598年、秀吉が病死し、石田光成と徳川家康と天下が二つに割れ、細川家は徳川方につくことになる。
関ヶ原合戦の前夜、ガラシャは忠興の愛を確かめ、西軍の人質にならないことを硬く決意する。
ガラシャは忠興との約束を忠実に守り、一歩も屋敷から出ることはなかった。
人質の要請に従わないとして三成軍が屋敷を襲い、ガラシャの一生を奪い取った。
37歳の短い、壮絶な人生であった。
戦国時代から織田・豊臣時代、関ヶ原の合戦にかけての戦乱による悲劇の女性のひとりが、明智光秀の三女・細川ガラシャと云える。

2、JR長岡京駅東口から南へ500メートルほど歩くと、堀と石垣に囲まれた勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の歴史は古く、南北朝時代の1339年、足利尊氏率いる北朝側の細川頼春が築いたという。



写真は、勝龍寺城跡の記念公園。
細川ガラシャにとっては、忠興に嫁いだ、勝龍寺城を本拠にした父・光秀が戦に破れ、この城から敗走していったことが悲劇の始まり。
戦国の悲劇とロマンが秘められた城と言える。



写真は、勝龍寺城公園内の忠興とガラシャ銅像。
勝龍寺城のある長岡京市では毎年秋に「長岡京ガラシャ祭」があり、悲劇の戦国女性・ガラシャを追悼しているが、ガラシャの悲劇から約400年、勝龍寺城は公園に姿を変え、現在は市民に親しまれている。

3、ガラシャの悲劇はまだ続く。関ヶ原の合戦で東軍の徳川家康に味方しようとした細川忠興に対し、豊臣方の石田三成は忠興の妻・ガラシャ夫人を人質として大坂城への入城を強要した。
この要求を拒否したため、三成の軍勢に屋敷を囲まれたガラシャは、自殺を禁じられたキリスト信徒であったが、あえて屋敷に火を放ち、家老に長刀で胸を突かせて自決、自己の信念を貫き37歳の生涯を閉じた。




写真は、宗禅寺本堂と宗禅寺に祀られたガラシャの墓。
大阪市東淀川区の曹洞宗の寺・崇禅寺にガラシャの五輪塔があり、かたわらに「秀林院細川玉子之墓」と刻まれた石碑が立っている。




4、写真は、越中井戸と石碑、それと井戸周辺に広がる、細川家屋敷跡の遠景。
ガラシャが忠興とともに住み、命を絶った屋敷があった大阪市森の宮・玉造には 「越中井」と呼ばれる井戸が残っている。
この屋敷跡がガラシャの終焉の地となった。そばには、ガラシャの「辞世の歌」の石碑も建っている。
 「散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と謳われた。



5、写真はガラシャ病院の肖像画。
蛇足になるが、箕面市拙宅の近所にガラシア病院がある。
ガラシャは戦国時代、大阪の地で、貧しい人や病める人々にキリストの深い愛の心で奉仕した人物であったと伝えられている。
ガラシア病院は、この細川ガラシアの洗礼名に因んで名づけられたと云う。



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