御所市中西遺跡要説の二回目として、2015年の発掘成果である、古墳時代前期の様子を以下紹介する。
上の写真は、葛城山を望む中西遺跡水田が洪水による土石流で覆われた状態で出土した様子。
長年にわたり当地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったと思われるが、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれない。
単に水田を造る、米を収穫できる、というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたと考えられる。即ちどの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられる。
先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれない。
更には、驚異的な人口集中を生み出したと考えられる。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。人口急増が、国の中心となった源ではなかったかと再認識したと云える。
最新の発掘調査では、葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかも。
そして2015年8月10日、御所市の秋津遺跡に隣接した中西遺跡で、古墳時代前期のものと思われる、竪穴住居26棟や井戸、溝などの跡が見つかったと、県立橿原考古学研究所が発表した。
今回の発掘現場は、以前発掘調査が進められた、弥生時代を通じての水田跡のすぐ脇で、今回発掘調査された古墳時代遺跡の下層にも、弥生時代の水田跡が洪水跡とともに確認されている。
上の写真は、今回の中西遺跡発掘調査地帯全体の上空写真と当遺跡が工事に伴い、見つかった京阪奈道路の遠景。
真上の写真は、平成27年8月23日に行われた、中西遺跡の現地説明会光景と今後共発掘調査が継続される、ブルーシートを被った遺跡現場から望む金剛山遠景。
古墳時代前期の遺構として中西遺跡からは、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・井戸・溝などが見つかっている。
中西遺跡の現地説明会には、全国各地から多くの考古ファンが押し寄せた。
今回の当遺跡発掘調査では、26棟の竪穴建物は、調査区の中央やや北寄りの位置で検出した溝によって、北側群と南側群に区画されている。
北側群に属する竪穴建物の床面からは土器が放置された状態で出土しており、生活の一端を垣間見ることが出来る。
上の写真は、葛城山を望む中西遺跡水田が洪水による土石流で覆われた状態で出土した様子。
長年にわたり当地で行われた工夫や改良は、当然、大和盆地一帯に素早く広がったと思われるが、他で成功されたことが持ち込まれた結果の改良なのかもしれない。
単に水田を造る、米を収穫できる、というのではなく、この地では間違いなく生産性が追求されるとともに、収穫量を増やすための工夫がされ続けたと考えられる。即ちどの地域よりも大穀倉地帯として発達したのではないかとも考えられる。
先進の文化や技術の窓口であり、鉄という宝を支配できた北九州に対し、どこよりも大きな穀倉地帯を持つ大和という図式だったのかもしれない。
更には、驚異的な人口集中を生み出したと考えられる。魏志倭人伝に言うところの、奴国2万戸に対し、邪馬台国7万戸。人口急増が、国の中心となった源ではなかったかと再認識したと云える。
最新の発掘調査では、葛城氏という一族が、巨大な力を持ったのも、武力ではなく食料生産の力だったのかも。
そして2015年8月10日、御所市の秋津遺跡に隣接した中西遺跡で、古墳時代前期のものと思われる、竪穴住居26棟や井戸、溝などの跡が見つかったと、県立橿原考古学研究所が発表した。
今回の発掘現場は、以前発掘調査が進められた、弥生時代を通じての水田跡のすぐ脇で、今回発掘調査された古墳時代遺跡の下層にも、弥生時代の水田跡が洪水跡とともに確認されている。
上の写真は、今回の中西遺跡発掘調査地帯全体の上空写真と当遺跡が工事に伴い、見つかった京阪奈道路の遠景。
真上の写真は、平成27年8月23日に行われた、中西遺跡の現地説明会光景と今後共発掘調査が継続される、ブルーシートを被った遺跡現場から望む金剛山遠景。
古墳時代前期の遺構として中西遺跡からは、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・井戸・溝などが見つかっている。
中西遺跡の現地説明会には、全国各地から多くの考古ファンが押し寄せた。
今回の当遺跡発掘調査では、26棟の竪穴建物は、調査区の中央やや北寄りの位置で検出した溝によって、北側群と南側群に区画されている。
北側群に属する竪穴建物の床面からは土器が放置された状態で出土しており、生活の一端を垣間見ることが出来る。
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