近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー前方後円墳の伝播とその推進力とは!そのⅥ

2011年11月25日 | 歴史
前方後円墳が地方に伝播して言った経緯・ルートを探ります。

京都府与謝野町の与謝野町立古墳公園内にある蛭子山(えびすやま)古墳は、古墳時代前期につくられた大型前方後円墳で、丹後地方の大首長の墓と目されており、国史跡に指定されている。







写真は、与謝野町古墳公園に復元された蛭子山古墳墳丘の様子、同古墳から出土した朝顔形・短甲形埴輪及び蛭子山古墳同型の平面図。

丹後地域に特有の、丸い頭部を持つ丹後型円筒埴輪と呼ばれている埴輪を、墳丘のまわりに配する蛭子山1号墳は、宮津港に近く、全長約145mの日本海側3番目に大きな前方後円墳。

この埴輪は、丹後地域でも中期のある段階になると消滅してしまったと云う。

古墳形態は、写真の通り5区型(前方部が後円部より短い)で、後円部の円弧は完周せず、叉墳丘周辺を盛土により整形しているが、前方部の築段などは完成していない。

元々築造企画自体が、地形に合わせて未完成であったと見られる。

国宝『海部氏系図』に記された人名の一つ一つに「丹後国印」が押印されている。

応神天皇の時、若狭木津高向宮で海部(大和朝廷に漁業をもって仕えた部民)の姓を与えられたと云う。後に、水軍へと発展したらしい。

現在の京都府日本海側に丹後王国があり、その王国は、特別の王国であったというが、その勢力は、ヤマトに入り初期ヤマト政権の基礎を創ったと考えられる。

ということで、水軍系の役割を以って、ヤマト政権とかかわっていたと見られる。

又同公園内には作山古墳群も復元され、5基の中型古墳から成るが、古墳時代前期後半から中期初めにかけてつくられたものらしい。

蛭子山古墳や作山古墳は、丹後型円筒埴輪の出土が多いことが特徴で、丹後型円筒埴輪は、丹後の一時期にだけ盛行した、丹後地方独特の特殊な埴輪。


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