<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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週刊文春は週刊新潮とならぶ私の愛読週刊誌なのであった。
エッチ記事も1〜2ページあるにはあるが、それぞれ週刊誌としては硬派で保守派で一本筋の通ったところが他誌とは違う魅力だった。

ところがその文春が知らない間にかなり堕落していたのだ。

私は小室哲哉のファンでもないし、彼の音楽がお気に入りでもない。
だいたいどれが彼の楽曲なのか、正直のところ聴いてもわからない。
彼が活躍した1990年代は、私の最も忙しかった年代でもありテレビやラジオを聞くことも見ることも少なく、いわゆるヒット曲の類はちっとも記憶にない。
1970年代の生まれのカミさんと音楽ことで知識が共有できないのは、ちょうどこの頃の作品が中心だ。

だからといって、今回の「小室哲哉引退」の報道を聞いてもそんなにショックとは思わなかった。
でも、その詳細を新聞で読むと、そのショックは小さくなく、私は愛読誌だった週刊文春の堕落というか品質の凋落を改めて確認することになってしまったのだ。

どうやら文春は他の三流週刊誌のようにゴシップをスッパ抜き部数が伸びて売上につながるという麻薬に蝕まれてしまっていたのようのだ。

これはきっとベッキー、ゲスの極み乙女の不倫事件に端を発する麻薬なのだろう。
こういう世界は市井の興味を誘い部数が伸びる。
だからといって政治家のスキャンダルのように人々の生活につながってくるかというと、芸能人のそれである。
全く関係のないどうでもいい話なのだ。

こういうどうでもいい話は文春や新潮の出番ではなく女性セブンや週刊現代の世界ではないだろうか。
少なくとも私はそう思っていたのだ。

今回の小室哲哉の記事は明らかにベッキー&ゲス事件とは異なる性質のものだ。
彼は病気のために知的障害を負ってしまったカミさんの世話を健気にも続けていていた。
しかし心的ストレスは相当なもののはず。
相談相手も欲しい。
かといって仕事は忙しい。
でも出来るだけのことはしてやりたい。
そんなストレスを抱えての女性との関係である。

そんなこと放っておいてやったらどうなんだ、というのが市井の意見に違いない。

障害を負った家族の世話は容易ではない。
年老いた親の世話。
障害を負った伴侶の世話。
事故で動けない子供の世話。
そういうケースは誰にでも当てはまるものであり、立派な社会問題だ。
そういうハンデを抱えた人の数が少なくないだけに深刻である。

働きながらハンデを負った家族の面倒を見ている人は今回の彼の記事をどういう気持で読んでいるのか。
文藝春秋社の連中はわかっているのだろうか。
文春は小室哲哉を取り上げてプライベートなことで避難する前に、彼の苦労を通じて介護生活の問題にスポットライトを当てるほうがよほど大切なんじゃなかったのか。
それこそ一般の感情とは正反対の心の持ち主にしか思えない憤りを感じるのだ。

月刊文藝春秋で綿密な記事を描き、月刊諸君!で論を戦わせる。
週刊文春はその先遣隊ではなかったのか。

堕落の文春。
文春もついにマスゴミの仲間入りをしてしまったのが悲しい。

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