<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





子供の頃。
お正月といえば父の故郷岡山県へ出かけるのが恒例であった。
「出かける」と私は言っているが父はもちろん「帰る」といい、大阪生まれ大阪育ちの母も何故か父に合わせて「岡山に帰る」と言っていた。
いわゆる帰省には違いないものの、大阪生まれの大阪育ちで大阪府堺市立の小学校に通っている私からすればなんとなく納得できない言い方なのであった。

岡山の父の実家にいると年末年始、大勢の親戚やご近所さんが集まってきて核家族に慣れている私は辟易とした。
祖父母の家は農家だった。
建物は明治期に建てられた茅葺屋根。
道路から入ると両側に大きな農機具小屋のある門をくぐり、母屋が正面。
その東側に離れの家があり、その間の薄暗い通路を抜けると鶏小屋などがあったりした。

すごく田舎田舎した家なのであった。

かなりしっかりした作りだったので、そのまま現在もあれば重要文化財に指定されていたかも知れないようなボロっちいが大きな建物だった。

玄関の鍵はかかっていない。
というよりも鍵が付いていなかったように記憶する。
このため春から夏は開けっ放しで、ツバメがそこから飛び込んできて玄関土間の天井梁に巣を作った。
それはそれは賑やかなのであった。

ツバメが入って来るくらいだからご近所さんや親戚はノックもせずに入ってくる。
叔父叔母従兄弟は言うにおよばず、隣村からやってきた「遠い親戚」という人たちも家族総出でやってきたりしたので、多い時は数十人が集まっていたように記憶する。
従って大晦日はワイワイガヤガヤで誰も見ることのないテレビで虚しく紅白歌合戦が放送されていた。
平成元年に祖母がなくなって、
「葬式でなんじゃが、記念写真でも撮っておこうかのお」
と叔父の一人が声をかけたのがきっかけで従兄弟、叔父叔母などが勢揃いした。
この時私はあらためて自分の従兄弟だけで20人近くいることにビックリした。
それほどの大家族だったのだ。

田舎で正月を過ごすと、意外と初詣に行くことがなかった。
親戚でワイワイとはやるものの、不信心なのか氏神様へお参りにいくとうこともなかった。
車で20分ほどのところに有名な吉備津彦神社があるのだが、ここへも行くことはなかったのだ。

初めて初詣に行ったのは高校生の時。
友達と一緒に京都へ出かけた。
どこへお参りしたのかさっぱり忘れてしまった。
たぶん平安神宮だったようにあ気がする。
はっきり覚えているのは営業している食堂やレストラン、喫茶店が無く、しかたがないので河原町のマクドナルドで昼を食べてきたのを覚えている。
昭和50年代。
今やインバウンドで世界中から観光客が押し寄せている京都では、当時はクリスマスのヨーロッパのように正月に営業している店などなかったのだ。

毎年初詣にでかけるようになったのは20代中頃になってからだ。
それでも出かけるのは元日の夜が明けてからで、間違っても二年参りなどしたことはなかった。

今年は違った。

昨年夏から関西空港でバイトをしているカミさんが大晦日も夜まで仕事だというので、どうするのかと思っていたら、
「仕事終わる頃、関空まで来てくれへん」
と言うのだ。
そしてそこから初日の出かなにかに連れて行けというわけだ。

関空から初日の出であれば、もちろんヒコーキに乗っての初日の出、という手段もあるが、これは結構金がかかるし抽選に当たらなければ席も確保できない。
かといって迎えに行って家の近所の天神さんで初詣というようなことを提案すると、きっと怒るに違いない。
そこで真剣に考えてみたところ、奈良の春日大社に初詣に行くことにしたのだった。
昨年春、我が娘が入学した大学のすぐ近くある神社が春日大社で言うなれば娘の大学の氏神様。
深夜の奈良の鹿の様子も見ることができるし、だいたい私はメジャーな神社へ元旦にお参りしたことがない。
理由は付けられるし、文句も言われないだろうし、おまけに奈良は関空から車を飛ばせば1時間ちょっとで到着することができる。

私は初詣は春日大社に決定したのであった。



つづく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )