<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地




一昨年頃から高野秀行の冒険談が楽しくて文庫本を買い求めてはワクワク感に浸っている。
そんなところ、いつも行くTSUTAYAで見つけたのが「西南シルクロードは密林に消える」。
令和3年の年明け読書第一弾として良い一冊かなと思い早速買って読み始めたのだ。

この一冊。
手にとって見てみると中国の昆明あたりからミャンマー北部のジャングルを通り抜けインドへ至る不法入国と徒歩によるとんでも冒険談であるらしい。
しかも物語の多くを占めるミャンマー北部のジャングルはミッチーナという街から徒歩で1日の距離をあるくのだというので私の好奇心はにわかに高まった。
というのも、私はこのミッチーナ市に10年少し前に3日間ほど滞在したことがあり、非常に懐かしく感じたからなのであった。
その時、私がミッチーナ市を訪れた目的はエヤワディ川の源流を見てみたいという好奇心だった。

東南アジアには文化と歴史、そして経済を支えている大河が3つ流れている。
ベトナムのメコン川。
タイのチャオプラヤー川。
そしてミャンマーのエヤワディ川。
いずれもチベットやウィグル自治区など、現在は無理矢理に中国領土にされているあたりを源流としてそれぞれに南シナ海やタイ湾、インド洋に流れている。

エヤワディ川はミッチーナ市から北に向かって車で1時間少し走った場所にその源流がある。
マリ川とンマイ川という2つの川が合流するところがエヤワディと名前の変わるポイント。
つまりここがエヤワディ川としての源流だ。
この川はここからミッチーナ市を通り、旧都マンダレー、遺跡の街バガン、最大都市ヤンゴンを貫きインド洋へ至る全長約2200km。
ミャンマーの歴史を育んできた大河なのだ。

この合流地点は多少観光地化されていてはいたものの、私が訪れたときは未だ途中の道は十分に整備されておらず、ところどころ凸凹の土道で中国の企業らしき怪しい土建屋が工事をしているところを見かけたものだ。
昆明に向かうにはこの道をさらに奥地へと進んでいくようだが決してコンディションはよくないというようなことを聞いたものだ。

よくよく考えてみると、この道こそが先の大戦で日本軍を苦しめた「援蒋ルート」であったわけだ。
それだけ歴史を背負っているところ言えるだろう。

著者の高野秀行がカチン独立軍の人たちとこの北方を東から西に向かったわけだから、もしかすると私がのんびりと写真を撮っていた場所からその通過地点はさして遠くなかったかも知れず、それだけ親近感をなんとなく持てる話なのであった。

それにしても現代に日本人がこのようなハチャメチャな旅をすることに何やらフィクションめんたものを感じなくもないが、全て実際にあった話だと思うと著者がいかに超人であるのかよくわかるというものだ。
中国では官憲に拘束され、ミャンマーでは道に迷い、インドでは武力紛争に巻き込まれる。
なんだかんだわけのわからない「旅」なのだが、こういうのを「旅」と言っていいのかどうかも大いに疑問になるところだ。
同じバックパック旅行でも沢木耕太郎の深夜特急と比べると危険さの種類が違う。
面白いからと言って深夜特急のような旅と異なり間違っても真似をしてはいけないと思ったのはいうまでもない。

ということでコロナ禍で海外はおろか国内の旅行もままならない2021年の幕開けだが読書だけは世界に連れて行っていただいたという面白い始まりなのであった。

※私が撮影したマリ川とンマイ川が合流してエヤワディ川になる地点の写真。
ここでもお釈迦様は欠かせない存在だ。
左手側からがマリ川。正面奥からンマイ川。右手に流れて行ってエヤワディ川。
2200kmほど大きく西に湾曲しながら南に下るとインド洋に出る。
比較にならないが大阪から2200kmほど南に下るとフィリピンに行き着く。

※この辺では砂金が採れるとかで、作業をしている人たちが大勢いたが収穫はあるかどうか......悩みどころだと思う。

いずれの写真も書籍とは関係ありません。


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トランプ大統領はそこそこ面白い大統領だと思っていたが、最後の最後がよろしくなかった。
自分の支持者に「議事堂へ行進せよ」と言ったのが気に入らないのではなく、男らしく負けを認めなかったところだ。

そもそも米国人の偉い人は正々堂々としているところが魅力なのであった。
歴代大統領でも初代のワシントンは周囲の「王位につけ」の説得を拒否して選挙によって元首を選ぶという画期的なアメリカスタイルを誕生させて、米国型民主社会の礎を作った。
個人の利益よりも公共の利益を優先したのだ。
第二次世界大戦終結後、卑屈になっている日本海軍首脳に激を飛ばしたのはニミッツ提督なのであった。彼は「負けたので廃棄します」といった戦艦三笠を「世界の歴史を変えた誇るべき戦艦を廃棄する必要なし」と保存を訴えた。
もちろん卑怯な米国人も少なくないが、一本筋が通った偉人が多いことがアメリカを民主国家のリーダーたる位置につけていることは間違いない。
そこんところが中国とは違うところだ。

このトランプ大統領。
もう一つの失態はCDCの予算を削ってしまったことだ。
このCDCの予算を削り、人員を削減させていしまったことが今回の新型コロナウィルスのパンデミックの間接的原因になっている。

そもそもCDCはアメリカの感染症に関わる情報集約研究機関であり、この仕組を持った世界で活躍できる機関は他に無い。
日本の国立感染症研究所の何倍ものスケールで全世界的に凶悪な感染症を監視し封じ込める組織なのだ。

この組織は単なる研究機関ではない。

感染症に対するCIAというか隠密同心のような役目を果たす機関でもある。
世界のある地域で未知の感染症が発生したという噂が伝わると、即研究員が送り込まれる。そしてある時は公に、またある時は隠密理に調査し、原因の病原体を見つけたときは冷凍して持ち帰りバイオセイフティーレベル4の研究室でそれらの正体を暴くという重要な任務をこなすのだ。

当然のことながらこれらには非常に多くの費用を要する。
細かい話になるけれどもときには領収書をもらうことのできない費用もかかるのだ。
そう、ジェームズ・ボンドが「領収書ください」と言っているのを見たことがないように、CDCの研究員も領収書の取れない任務を多数抱えているのだ。
火付盗賊改方長官の長谷川平蔵が手下に自腹を切ってお金を渡すのも同じ。

従ってCDCには地球規模で感染症から人々を守るための潤沢な資金が必要になる。
トランプ大統領は直接的な銭勘定しか考えていなかった。
だからCDCの予算をカットして弱体化させ、今回のコロナを食い止めることができなかったのだ。

ハヤカワ文庫「ウィルスハンター アメリカCDCの挑戦と死闘」はエボラのみならず世界で発生している謎のウィルスに挑戦するCDCの姿とその設立から今日に至る歴史を記したノンフィクションだ。
そもそもそんなに重要ではなかったCDCを、世界でも特筆すべき研究施設に育て上げた多くの人々の努力が垣間見られて面白い。

CDCはアメリカの機関だが世界の機関でもあることを痛烈に意識させる良書なのであった。


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「こんなはずじゃなかった、って言って退学していく奴が多いんだよね」
と言っていたのは大学の同窓会でお会いした某映画関係の先生だった。

私の母校、大阪芸術大学は私学の芸大では国内で最も規模が大きく生徒の質も千差万別であることが知られている。
千差万別。
どういうことかというと人数が多いだけにピンからキリまでの人材が集結しており一種のパラダイス感があるのだ。
すぐにでも業界の最前線で第一級の仕事ができそうな学生から、幼稚園児の描くような出来損ないの図画工作しかできないような学生まで質、量とものバラエティーに富んでいる。
卒業生も人間国宝を頂点に浮浪者まで幅広い。
私のように職をいくつも変わってきて安定しているのかしていないのかわからないような人間はどちらかというと詰まらない部類に入る卒業生だろう。

「〇〇くん、確か弟子入りが決まったわよ」
とか、
「〇〇さんは留学ね」
というようなことを学生課で耳にしたのは就職活動に汲々としていた4回生の秋の終わりのころ。
うちの大学は留学はともかく弟子入りなんてのがあるのか、と呆然と聞いていたことを今も鮮明に覚えている。
ともかく他大学というか他の普通の大学に通っている友人に聞くのとは大きく異なっていた。
だいたい他大学の友達が盛んに話している「リクルート」なんか関係がなかった。

こういうことはレベルの如何ともし難い関西私学の芸大だからなのか。
大阪でも南河内郡河南町の一山越えれば奈良県というギリギリのところにある大学だからなのか大いに悩んだものであった。
結局私も普通の就職をすることなく卒業日を迎えた。
入社する会社も決まっていなかった。
試験を受けた会社もたった4社で全部メディア製作関係の会社で東京と大阪のそれぞれ2社の小規模プロダクションから「うち来る?」と言われたが給料を聞いて恐れをなし、まずは自由人として生きることを決心した社会人スタートであった。
もちろん社会人といっても作品作りをメインに据えていたので、世間が言うところのまともな社会人であるはずがなかった。

二宮敦人著「最後の秘境 東京藝大」を書店で発見した時、
「国内芸大の最高峰、東京藝大はどんな大学なんだ?これは是非とも読んでみたい」
と即買い求めた。
そして読んでみてアッ!と驚いた。
なんと、芸大最高峰といえども芸大は芸大。
学生の進路は我が私学の大阪芸大と対して変わらないことが判明した。
というか芸大に行くような若者は「フツウ」の者ではないこともよくわかったのであった。

驚いたのは一般言われる就職する学生が東京藝大の場合は10%しかいないことであった。
他の多くは大学院への進学や留学、アーティストとしての独自路線への踏み出しなどで、驚愕するのは卒業後約半数の学生は進路不明で行方不明者も半端ではないとうことなのであった。
中退者も少なくない。
入学しても何をスべきかを考えるのは学生であり教員ではない。
教員とてどう教えれば良いのかわからないという。
なんといっても芸術はそれぞれの受け止め方や感性が大きく影響する。
だから目標を強く持って熱意がないことには学生は務まらない。
私の大学の場合は学生数が多いことと私学ということもあって目標を見つけられなくても適当に課題作品に取り組んでいれば卒業はできる。
でも中途半端にアートを目指していたりすると冒頭のように「こんなはずじゃなかった」となり退学していくことになるのだ。
あまりの共通点の多さに愕然とするとともに芸術を学ぶというのは、同じなのだと大きく共感もし、大学生活の恐ろしさを再認識したのだった。

思えば毎年何百人もがアートを目指し芸大の門戸を叩く。
けれども売れるアーティストになるためには半端な努力だけではだめで、生涯を賭した情熱と半端ではない幸運がなければいかんともしがたいものがある。
国家公務員になるよりも司法試験に受かるよりも、ずっとずうっと難しい世界なのだ。
だからフツウの考えで入学してもいかんともしがたいものがあるのだろう。
本書にも記されているが「高い成績を取ったものが芸術家として成功するとは限らない」というのは真実だ。
このことは他の一般大学卒業者とは大きく異なる部分で、大学では最低の成績を取っていたものであっても卒業してからメキメキ頭角を表し世界のアートシーンを構成する一人になるものも少なくない世界だ。
むしろストレートに前に進む人のほうが少ないくらいで、大学は一つのきっかけ、人生経験の場でしかないのかもしれない。

そこでふと思ったのが、大学は就職するためのプロセスの一つでは本来ないということ。
日本の大学では3回生から就活を始めて卒業と同時に一斉に企業や官公庁で働き始める。
ベルトコンベアに乗っかった人生のようで楽なのかも知れないが、とってもつまらないと思えて仕方がない。
大学というところは就職活動をするところではなく自分の学びたいことを究めるところであって職業安定所ではないわけだ。
そういう意味では東京藝大は素晴らしい大学だと言えるかも知れないし、私の卒業した奇人変人大集合の大阪芸大もそうかも知れない。

30年前。
卒業を前にして私も多くを悩んだ。
なんでフツウに就職しなかったのか。
またそうしたくなかったのか。

「最後の秘境東京藝大」は素晴らしい一冊なのであった。



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仕事で時々研究施設のクリンルームに入ることがある。
白い防護服を着てフードをかぶり保護メガネを着用してゴム手袋、静電防止の作業靴。
面倒くさいことありゃしないが、そういう装備をしないと入れないので仕方なく着用している。
今のところ化学系のクリンルームに入っていることが多い。
これがバイオ系になるとどちらかというと入りたくないというのが私の要望だ。
なぜなら、化学はまだ何が保管されて、何が合成され、どういうものが出てくるのか想像できるのだが、バイオの方は、何がどこに居て、それがどこへ移動するかも知れないし見えないし、感染するかも知れないというところに言い知れぬ不安感があるのだ。
化学物質はちゃんと管理したら他の場所へ勝手に移動することはないが、生命体はそうはいかないという感覚がある。
尤も、多くの場合はその研究室で何がされているのかはほとんど知ることがない。
なんと言っても知財の塊。
我々外部の者に委細詳細伝えられることはめったに無い、というか絶対にない。
だから応用化学のクリンルームだと思ってはいっているところが実はバイオ関連であったりする可能性もあるわけで、なんともしっくりこないのである。

リチャード・プレストン著「ホット・ゾーン エボラウィルス制圧に命を懸けた人々」(ハヤカワ文庫)は1989年に実際にアメリカの動物実験用猿舎で発生したエボラ出血熱の制圧を描いたノンフィクションだ。

エボラ出血熱は現在知りうる病原体の中でも最も致死率の高いウィルスだ。
緊張を強いるその致死率は平均で50%。
種類にもよるようだが感染すると致死率は最高で9割に達することがあるという。
治療できる薬は今のところ存在しない。

この恐怖のウィルスがワシントンDC郊外に出現した。
東南アジアから輸入された猿から現れたのは最も殺傷力の強いタイプのエボラウィルス。
遺伝子構造の近い猿から人に広がる可能性は小さくない。

報道規制をどう敷くのか。
対処は軍の役目か、それともCDCなのか。
感染した者はいないか、また感染者から伝染した可能性のある者が街へ出て広げた可能性はないか。
などなど。
全編緊張の連続だった。
とりわけ前半の3分の1はエボラが初めて確認され、感染者が亡くなるまでの凄まじい過程や、そのウィルスを最高レベルのバイオハザード対策がなされたクリンルームへ持ち込み観察分析するための処理をする過程がスリリングを通り越して恐怖でもある。

新型コロナウィルスでも同様にこれら殺人ウィルスへの対策は多くの研究者の命を懸けた闘いの中で繰り広げられている。
「ホット・ゾーン」はその一例を綿密に取材してノンフィクションとして構成しているドラマだ。
私たちはそのドラマを通じ実際の現場やその扱いの難しさを知ることなる。
新型コロナウィルス禍が始まってから話題になっているカミュ著「ペスト」を遥かに越える読み応えがある。

それにしても正体不明の病原体がいかに多いか。
この本のあとがきにも記されていたがここ半世紀の間に出現した病原ウィルスの数は少なくない。
HIV、エボラ、SRAS、MARS、C型肝炎、狂牛病、武漢ウィルス、などなど。
人類がジャングルを切り開き自然を破壊する。
その過程でこれまでは表に現れることがなかったウィルスが宿主から解き放たれて異生物である人間に取り憑き大きなパンデミックを引き起こす。
実に恐ろしいことではないだろうか。

本書に登場するエボラ出血熱もアフリカから伝わったのではないところが注目点だ。
マレーシアから輸入された動物実験用猿がエボラを持ち込んだその事実は、アフリカだけではなく、世界中至るところから未知のウィルスが出現することを意味している。
そのことが不気味であり、いつ今回の新型コロナ禍を越えるパンデミックが発生するかわからない不安感を増幅させるのだ。



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高野秀行著「謎のアジア納豆 そして帰ってきた「日本納豆」」を書店で見つけてページを捲ってみると懐かしい「トナオ・ムッ」というミャンマーの発酵食品の写真が掲載されていた。
この「トナオ・ムッ」はチャイントンというミャンマーのシャン州にある町を訪れた時に、
「食べてみますか?」
とガイドさんに訊かれて、
「是非に」
と言って注文した地元の発酵食品であった。
私はそれ以前にミャンマーの代表的発酵食品である「カピ」を味見して「美味い!」と叫んだときがあったので、同じく美味いものに違いないと思い注文したのだったが、残念ながらその匂いと味に負けてしまい完食できなかったのだ。
伝統的食品で珍しいものを食べ残してしまい大いに後悔したので忘れることができない。

その「トナオ・ムッ」の写真を見つけたので、その場で買い求めて即読み始めたのだった。

「納豆は日本を代表する食品」
「日本人なら誰でも食べる伝統食品」
とよく言われる。
納豆に郷土を思い出す人も少なくないという。
私は関西人なので納豆に対する思い入れはそんなにないのだが、そこはやはり海外にも納豆があるということになれば知りたいというのが人情というものだ。

本書はミャンマーでの事例も多く、登場するミッチーナ、チャイントン、タウンジーの3つの街は私も訪れたことがありリアルにその風景を浮かべることができた。
「トナオ・ムッ」以外にも納豆とほぼ同じ発酵食品があったことに訪問したときはちっとも気づかず、今回この本を読んで初めて知ったところなのだ。

次回訪問することがあれば、ぜひ現地の納豆をいただいてみたいと思ったのは言うまでもないが、「トナオ・ムッ」が口に合わなかったことを思い出すと、くちにするのはそこそこ勇気が要ることなのかも知れないと思った。



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なぜNHKがこのようなテーマを取材して番組を作ったのか。
実はこの「超常現象 科学者たちの挑戦」(新潮文庫)を買い求めた最も大きな理由はそのポイントにあった。
堅物であるはずのNHKが民放のバラエティで扱いそうなテーマを科学番組として扱ったことに興味が惹かれたのだ。

子供の頃、私は臆病で「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」を見ていて怪獣などが出てきそうになると本気で怖くなった。
一人でテレビの前に陣取っっていることができなくなり、隣の台所で家事をしている母の元に行ってこわごわドラマの展開を見守ることが少なくなかった。
怪獣の存在を信じている、というか、宇宙人やその他実態のわからないものの存在を信じているわけではなかったのだが、そういうものの雰囲気に大いに恐れを抱いていたのだ。
ま、純真な子供だったと言えるのかもしれない。
それが純真でなくなってしまったのが中学1年生の時。
流石に母に甘える年齢ではなかったが、理屈っぽくなる年頃になっていたことに加え米SFTV「スタートレック」にハマりだした頃だ。

「スタートレック」は宇宙を舞台にしたSFTVシリーズだったが、単なるSFドラマではなかった。
様々な社会問題をそれとなく取り上げて問題提起をする社会派ドラマだったのだ。
背景にリアリティがあるだけに、SFの要素にもリアリティがあった。
特徴の一つが未知なものを単に「わからない」で片付けてしまうことがなかったこと。
それが他の従来のSFとは大きく異なるポイントであった。
わけのわからない現象や物体に遭遇しても「わからない」で片付けず各種分析装置やコミュニケーション手法を駆使してその原因を探るという行為は新鮮だった。

このテレビ番組を見てからというものの超常現象などを扱う番組や書籍が胡散臭くなってしまった。
心霊写真があると必ずトリックやそう見えてしまう科学的根拠があるはずだ。
幽体離脱についても何らかの医学的現象があるはずだ。
ユリゲラーのスプーン曲げは手品の一種に違いない。
などと考えるようになった。
現象ではなく、それぞれのタネ明かしに興味を持つようになった。

だから「超常現象」を科学するということは大いに興味を誘うもで、これもそういう意味で手に取り買い求めた文庫だった。
超常現象を科学的に観測して分析する科学者の団体があることに驚きをもったのだが、面白かったのは霊はともかくテレパシーに関する何らかのエビデンスがあるのではないかと思わせるところだった。
以前、米軍には超能力部隊というXメンを本気で行く舞台が存在していたことをレポートしたノンフィクション「実録・アメリカ超能力部隊」(文春文庫)を読んだことが有り大いに笑ったものだ。
とこが、例えば「鳥や魚の群れが言語を使用せずに一斉に同じ方向へ進路を取れるのはなぜか?」とか「隣どおしに横たわった被験者の脳をCTモニタリングしていると、片側の人に刺激を与えると、何もしていない別の人の脳も反応する」など明らかに科学で解明すべきテレパシーがあるように思えてくる。
これはこれで非常に面白いと思った。

ということで「あなた、あなたは幽霊を信じますか?」。


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それにしても世の中には色々なイベントがあるものだ。
「サハラ砂漠でフルマラソン」。
暑いだろうな。
走りにくだろうな。
コース見失わないかな。
と、色々と考えてしまう、そんなマラソン大会が存在していたのだ。

実質的に「ソマリランド」を日本に紹介した紀行作家というか冒険家の高野秀行。
そのエッセイ集「世にも奇妙なマラソン大会」は表題のサハラ砂漠でのマラソン大会への無謀な参加体験記をはじめ5編の愉快な紀行が収録されている。
どれもこれも非常に面白いのだが表題のマラソン大会はもちろんのこと謎のペルシャ絨毯売り、フランス人のゲイのおっさんとの一夜の駆け引き、なども面白かった。

旅に出ると想定外の出来事に遭遇することが少なくない。
私の場合はバンコクのトランプ詐欺師集団やミャンマーでの長距離列車旅行途中の豪雨橋脚流出事件などがそれに当たるかも知れない。
このような出来事は日本の価値観とは大きく異る背景をもってして発生するわけで、実際に出会うとかなり困ったことになる。
うまくくぐり抜ければ後で笑って済ませることができるのだが、うまく行かないと大変な事態になることもある。

著者の高野秀行氏は自らそういうところに飛び込み、それをレポートするというのが大きな魅力と言えるだろう。
先日、台湾が国交を結んだことで注目されたソマリランドもそう。
ブータンの謎の生物探索もそう。
ミャンマーの山深く取材した少数民族「ワ族」の村での生活もそう。
イスラム圏での飲酒文化もそう。

どれもこれも普通ではない環境に飛び込んで自ら体験する。
自分のバックパック旅行とも重なり実に面白いのだ。

今回のサハラ砂漠のフルマラソンという無謀へのチャレンジも同様。
日頃ジョギングさえしないという著者がいきなりフルマラソン、しかもサハラ砂漠でのというところがもうすでに尋常ではない。
しかしその無謀を思いつきだけで終わらせず実行に移して感動を呼び込むところがこの作家の最大の魅力だろう。
完走するのかどうかは読者だけのお楽しみ。

ということでサハラマラソン。
来年2021年も開催されるようなので興味ある人は是非ご参加ください。

http://runners-wb.org/race/race01.htm


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4月ごろ。
カミュの「ペスト」が注目を浴びているということを耳にしたカミさんが文庫本を買ってきた。
なんでも書店では売り切れ続出で増版しているところなのだという。
「読む?」
と訊かれたもののフランス文学は正直言って苦手なので読むことを少し躊躇していた。

学生の頃にサン・テクジュペリの「夜間飛行」を読んで悪戦苦闘したことがある。
当時「イリュージョン」という作品がベストセラーになっていたリチャード・バックのエッセイに「夜間飛行が面白い」というようなことが書かれていたのだ。
「リチャード・バックが推奨するのであれば、きっと魅力的な作品に違いない」と思い買って読んだのだ。
それが間違いなのであった・
読み始めてすぐに後悔。
複雑怪奇な文章でイマジネーションがついていかずリチャード・バックの描くのに似た飛ぶことへの魅力を期待していただけに失望は大きく読了するのにかなりの能力を要してしまったのであった。
以来サンテグジュペリはもちろんのこと「フランス」と聞くだけで読むに値しない代物として扱うことになったのである。

そんな私に新型コロナウィルス禍でカミュの「ペスト」。
読み始めるのに随分と初動パワーが必要なのであった。
フランス生活の経験もあるカミさんはアマゾンで原文の小説を取り寄せ日本語訳と比較しながら楽しんでいる。
私にそんなことは不可能である。

ともかく話題の小説ということで読んでおくのも仕事のうちと考えカミさんから借りて読み始めた。
やはりフランス文学らしく抽象的な表現が随所に登場してなかなか読みすすめるのが難しかった。
何時代に話なのか、登場人物にはどんな人が、舞台はどこ?
と基礎的な知識を全く持たないままで読み始めた。

当初は「ペスト」というだけに中世の話かと思ったりしていたが、読み始めて早いうちに、それは「現代」であり、場所も「仏領のどこかの街」であることがわかった。
現代といっても1940年代に書かれているので「今」とは異なるのだが、当時の時代背景はあまり書かれていないので「今」に当てはめて読みすすめることができた。

最初は少々退屈していたものの「ロックダウン」が始まってからはストーリーにぐぐぐっと惹きつけられた。
但し惹きつけられはするものと、時々訳のわからない抽象的な表現が出てくるのでその都度、
「ここはどういう意味だったんだろうか」
と読み返すこと1度や2度ではない。
3歩行っては2歩戻る、という365歩のマーチのような読み方をする部分が少なくない。

「訳が古いからだろうか」
とも思った。

昭和40年代に出された文庫だけに日本語が多少古いことも原因になっているのか。
確かに黒人のことを「クロンボ」と訳したりしていて「ええんかいな、こんなワード」と読んでいる方が心配になる部分もなくはなかった。
カミさんも「ちょっと古いね」と言ってたものの、古いだけではなくフランス文学としての表現のしかたにとっつきにくさがあるというのが根本的な問題だと思った。

物語が進むと、ペストとそれに関係する登場人物個々の物語が凄味を増してくる。
恐らく「ペスト」の魅力はここにあるのだろう。
私は牧師という聖職者が感染してから死に至る過程で、聖職者としての精神と病に侵されたごく普通の人の病を与え給うた者に対する怒りの双方に心を揺さぶられ葛藤するところが最も印象に残った。

ともかく読み終わったときは「やったー!」という気持ちと、「すごい、でも2度は読めない」という気持ちが錯綜して不思議な達成感を味わった。

ともかくカミュの「ペスト」は凄いが読みにくい小説で、多分多くの人が途中で挫折しているんじゃないかと思っている。




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一昔前のわたしの大好きなアメリカンジョークに、

「ジョージ・ブッシュはバカ野郎だ!」
とホワイトハウス前で叫んだ男が「国家機密漏洩罪」で逮捕された。

というのがある。
実にアメリカらしいジョークで、たとえばこれを日本におきかえ、

「安倍晋三は大ばか野郎だ!」
とすると雰囲気がちっとも面白くなく、かといって、
「枝野幸男は大ばか野郎だ!」
とすると、事実だけにちっとも笑えず、
「福島瑞穂は大ばか野郎だ!」
とすると、
「あれでも野郎ではない」と言われそうでジョークにならないのだ。

かと言って、今話題の全大統領補佐官ボルトン氏が出した暴露本「The Room Where it Happened(勝手に邦訳「えらいこっちゃの執務室」.......タイトルからするとビル・クリントンと女子大生の話かと思った)」はジョークにもならない笑えない一冊だと思う。
たとえそれが事実であったとしても、だ。
大統領の補佐をやっていた人間がいかに大統領の質が低レベルといえど、それを公にさらしてもいいのか。
わたしはそのような権限はないと思っている。
これでは芸能人の性癖を暴露する超低レベルの娼婦よりさらに低レベルだ。

このようにたとえば「?」な大統領であっても国のトップに変わりなく、その人物の傍らに居たものがホントかどうかは別にして欠点をあげつらい貶める内容を本にして公にするなどモラルとしていかがなものかと思うのである。

まあ大統領が大統領なら補佐官も補佐官だったと考えれば納得ができないことはない。


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新型コロナウィルス禍が今急速に社会にもたらしているものの一つに生活スタイルの変革がある。
とりわけワーキングスタイルが劇的に変わりつつあり、それに引きづられるように家庭での生活スタイルも変わりつつある。
会社で上司から「なんで売上があがらないだ」と責められるスタイルから自宅でカミさんから「なんでずっといるの〜うっと〜し〜。たまには自分で御飯作って」と責められるスタイルに変わりつつあるのだ。

このように世の中の一部では自宅でほとんどの仕事をこなし、出勤という行為がなくなりつつある。
テレワークが常態化しつつあるのだ。

これまでもテレワークで業務の大半が処理できると考えていた人は少なくなかった。
ところが今回の騒動でまさか本当に対応でき、しかも出勤するよりもかなり効率的に業務をこなせるとまで考えていなかったのだ。

確かに単純に考えても通勤や出張に使っていた往復3〜4時間以上の時間を自由な目的に当てることができる。
これは本人にとっても会社にとっても小さくないメリットなのだ。
移動しなくなったりオフィス空間が不必要になって余った費用は、業務の効率化や研究開発、社員の福利厚生に当てることもできる。
本人にとっとは自由な時間は仕事に使ってもいいし、趣味に使ってもいいし、家事に使ってもいい。
もちろん睡眠に使ってもいい。

これらに関連してさらに変化がでてきた。
時間に余裕ができると食事のスタイルも変わるかも知れない。
外食は都心部ではなく住んでいる近所のところ。それがきっかけで地域の活性化につながるかも知れない。
通過していたシャッター商店街を再発見するかもしれない。
もちろん自宅での食事も増えるだろう。
そうなると食器やキッチンツールにこだわりを持ちたくなってきたり、雰囲気も変えたいので家具や雑貨の選定も大量生産大量消費物では無くなるかも知れない。

とまあ色々な可能性が生まれてくる。

生活スタイル。
考え方。
時間の使い方。
などが劇的に変化するかもしれないのだ。

その劇的変化に対応する最も重要なエッセンスがデザインかもしれない。

柳宗理は日本のデザイン界に大きな影響を残した。
彼が関わったプロダクトやサービス、アーキテクトは今もなお私達の身近に存在する。
日本がまだ欧米の真似しかできず自分の考え方を十分に持っていなかった時代に日本の民藝に着目し、手作業で生み出されるものとマシンを使った工業製品の接点を導き出しジャパニーズデザインの礎を整えた。

ここ数年、柳宗理が関わったデザインに注目が集まっている。
日本がまだよちよち歩きだった頃の戦後すぐの時代。
デザインといえば絵を描くことと思われていた時代。(今もそう思っている勘違い人が多いです)

そんなころから物事を調査して取りまとめ、文化や歴史といった背景を吟味して、その地の特性を生かし、多くの専門家・専門業者・技術者を取りまとめ製品やサービスを作り上げる。
そういったデザインの本質であるプロセスの考え方を記した随筆や記事をまとめたのが「柳宗理エッセイ(平凡社)」。

この、柳宗理の考え方を知りたくて読んだのこの本。
新旧様々な随筆が収録されていて、それぞれの時代背景も感じつつ、しかしその本質は同じである。
その驚きを感じつつ、これからの時代を考えることのできる一冊なのであった。


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