<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





大阪南部地方秋祭りのだんじり祭り。
岸和田市のそれが全国的に有名だが、この地区ごとに一日中駆け回るだんじり。
一緒に走り回るとだいたい1日に25kmは走ることになる。
ハーフマラソンと同じ。
私のように日頃何もしないでいきなり参加すると祭り終了後2週間は筋肉痛や関節痛に悩まされることになる。
GAFAの一角を担うアマゾンドットコムの配送センターでピッキングの仕事を一日すると、これと同じぐらいの距離を歩くのだという。

コロナウィルス騒動で品薄通常商品を便乗値上げした出店者の首切りをしたのがつい3日ほどまえ。
アマゾンが正義を振りかざしたように見えることは実は世間からの非難を浴びないように動いた、ただそれだけのことかもしれない。
と、思ってしまうのはつい最近読み終えた横田増生著「潜入ルポ アマゾン帝国」(小学館)を読んだばかりだったからかもしれない。

横田増生はユニクロや宅配便の会社にバイトとして潜入して内部からみたその業界の姿を描き出す行動派ジャーナリスト。
そもそもは日本に進出してその存在感が高まってきた頃のアマゾンの市川センターに潜入取材したものが最初に読んだこの人の作品だった。

「ふ〜〜ん。アマゾンってこうなってんのか。やっぱりバイト待遇は人の扱いとは違うんやな」
と感じたものだった。
以来10余年。
久しぶりに潜入して取材されたアマゾンの小田原センターは人的管理手法が格段にバージョンアップされていた。

そのポイントは徹底した効率追求。
人をひととも思わない扱いぶりだ。

時間あたりのピッキング数の徹底管理。
できなければ切ってしまうアルバイト管理。
仕事中に作業者が倒れてもシステム通りに通報するということのほうが、即救急を呼ぶよりも優先される組織体制。
死人が出てもおかまいなし。

まったくもって生身の人間が作業するにはかなり厳しい環境のようだ。

さらにマーケットプレイスへの出店業者の生死も握った自社優位の管理。
タックスヘイブンのみならず、税金を払わないためには手段を選ばない秘密主義。

今回の著書で前回と大きく違うのは海外のアマゾンに対して同様の取材を試みている加害のジャーナリストへの取材が含まれていることだ。
世界中どこでも同じサービスを提供できるその組織力には恐れ入るものがあるが、やっていることは夢も希望もない効率一本主義。

アマゾンは非常に便利で私も書籍の購入、日用品の購入、衣類の購入と月に何度か利用する。
しかし本書を読むと、
「書籍はtsutayaか紀伊国屋、ジュンク堂で買おうかな」
「電気製品はちょっと高くても近所の量販店」
という気持ちになってしまう。
プライム会員になっていることに罪悪感さえ感じてしまう瞬間がある。

グーグル、アップル、フェイスブックにアマゾン。
一番夢がないのはアマゾンであることは間違いなさそうだ。





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初めて飛行機に乗ったのは1978年8月。
高校1年の夏休みで大阪空港から成田空港まで乗った日本航空なのであった。
その時の機種は憶えていない。
当時の私にはB747とそれ以外としか区別がつかない、いわば中途半端なヒコーキ好きの高校生なのであった。
もしそれがサンダーバード2号やウルトラホーク1号、流星号などであれば区別をつけることができたが当時はできなかったのだ。
だから機種がわからないB747とは違う飛行機に乗ったのが最初だった。
成田でトランジットして乗ったのは紛れもないB747。
成田空港からロサンゼルス空港までの太平洋横断路線であった。
それも今はなきパンアメリカン航空の機体だった。
ただこのB747は私がイメージしていたB747とは大きく異なっていた。
B747といえば先頭の2階建て部分を筆頭に広く広げた両翼、4つのジェットエンジン、長い胴体というのが一般的なイメージだ。
だがこのB747は異様に胴体が短くずんぐりしたフォルムで足の代わりに翼が生えたオタマジャクシような形状なのであった。
めちゃくちゃ格好悪いフォルムなのであった。

「なんやねんこれ?」

私は知らなかったのだがB747ーSPという現在では見ることのできない機種だった。
B747の胴体を短くすることでアンカレッジを経由せずとも日米を結ぶことのできる当時としてはスグレモノというか飛行距離のためにボディサイズを犠牲にした妥協の産物の機体なのであった。
帰りのロサンゼルス空港で私の乗る予定のパンナムのゲートの隣は日航機のゲートになっていた。

「あっちに乗りたい」

と赤い鶴丸を見ながら思ったのだ。
その原因は単にパンアメリカンの不味い機内食に辟易としていたからではなく、パンナムのSPと比較して普通のB747だったJALに憧れがあったのも大きな原因があったことは否定できない。

この初めての空の旅で覚えているのは「JALの方に乗りたい」ということと「行きも帰りも機内食が不味い」ということと「機内の映画は字幕がないので何を言っているのかわからない」ことと成田から伊丹に飛んだ帰りの便から見た夕日に照らされた富士山の絶景なのであった。
総合して飛行機を楽しんだという記憶は富士山の景色以外にほとんどない。
ナビもパーソナル液晶テレビもない時代の太平洋路線でどこを飛んでいるのかもわからない退屈な9時間は二度と経験したくないと思った旅でもあるのだ。

ということで現役のパイロットであるマーク・ヴァンホーナッカー著「グッド・フライト、グッド・ナイト」を読んで思い出したのはそういう初めての空の旅なのであった。
今では毎月何度かヒコーキを利用してほとんどを大阪〜東京しか乗らないのだが、今はナビもあるし機内エンタテイメントもある。
しかし一番楽しいは窓の外の景色を楽しむこと。
そういうことを総合的に思い出させる非常に情緒溢た且つヒコーキファンも楽しめる上質のエッセイであった。

著者はブリティッシュエアーウェイと思われるB747を操縦する機長であり、傍ら雑誌にエッセイを寄稿。
それをまとめたのが本書なのだが、そこにはパイロットとしての視線、乗客としての視線から見た空の旅のエピソードが描かれているのが実に興味深い。
ANA出身の内田幹樹のエッセイや小説も面白いが、これはまた違った視点で面白い作品だった。

例えばパイロットになるために授業料を稼ぐために調査会社で働いたことや、牧師だった父のこと、初めての海外渡航先が高校生の時の金沢であったり、祖先の故郷であるハンガリーのこと、日本語で機内アナウンスを試みようとしていたこと、その他機内のエピソードなどなど。
どれもこれも短編の小説のような輝きがあり、驚きがあるのだ。

それでちょっと思い出したのだが「翼よあれがパリの火だ」の中でリンドバーグもまたパリへ向かう機中の中でスピリッツオブセントルイス号を得て空に飛び立つまでのいくつもの話を回想していたことを思い出した。

空の旅は様々なことに思いを馳せることができる。
それが最大の魅力なのかもしれないと思った一冊なのであった。



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電車に乗って周りを見渡すと誰も彼もがスマホの画面に集中している。
その光景って一種異様な雰囲気で、昔のB級SF映画を見ているような感覚にとらわれてしまう。
もはや新聞を小さく折りたたんで読んでいる人を見かけることはほとんどないし文庫本や週刊誌を開いて読んでいる人もまばら。
まだ生き残っているのは問題集を開いて勉強をしている高校生の姿ぐらい。
とりわけこれからの季節は受験シーズン到来ということもありそういう「安心できる」光景を目にすることが増えていくだろう。

このスマホばかりの電車の車内。
みんなの画面に何が表示されているのか時々目にしてしまうことがあるのだが、多くはゲームかLINEのメッセージのやりとりである。
一心不乱に画面を叩いているサラリーマンや大学生風の男、おっさん。
「おはよー」だとか「だよね」などというくだらないメッセージをやり取りしているOLや学生。
かくいう私も時々映画なんかを見ていたりするので偉そうなことは言えないが、ともかく詰まらない内容ばかりなのだ。

これで5Gなどという高速通信技術が本当に必要なのかどうか疑いたくなるところなのだが、スマホはもはや集団中毒を起こしているアヘンのようなもの。
自動車や自転車では交通事故の原因になり、鉄道ではホームからの落下、他の人との衝突などの発生原因にもなっているし、子供が使うとSNSを通じた誘拐監禁、性犯罪などに繋がり社会問題にもなっている。

スマホを代表とするそういう中毒を醸し出すビジネスが今盛んになりつつある。
古くから麻薬はまさにそいうものだが、許認可された薬物でさえ中毒症状を発症するにも関わらず処方箋が大量に発行され製薬会社のビッグビジネスにつながっているという、なにやら世の中変じゃないかというのが満ち溢れているのだ。

そういう社会の内容をかつてアルコール中毒を経験して、それを克服したイギリスの著名ジャーナリスト、デイミアン・トンプソンが著したのが「依存症ビジネス(ダイヤモンド社)」。
人は何をもって快感と感じるのかということを調べているうちに見つけた一冊が本書なのであった。

大量消費社会と中毒ビジネスには密接なつながりがあり、知らず識らずのうちにその世界に引きずりこまれている。
スマホ画面を見つめる群衆の光景はまさにその代表例。
設けるためには中毒にさせるということも手段の一つであることを感じたのだったが、スイーツもそういうものであることを認識させれるとどこかのフラペチーノやどこかのフレンチフライポテトのスパイスもそういう目的を含んでいるのかと愕然とした。
ビジネスは体と精神力を張って戦わねばならないない時代になっているようだった。


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最近めったに漫画を読まなくなってしまった。
以前は手塚漫画はもちろんのこと高橋留美子、浦沢直樹、いしいひさいちがお気に入りで本棚からゴソゴソ出してきては「忍者無芸帳」や「パイナップルアーミー」「めぞん一刻」などを再読しては楽しんでいたのだ。
でも生活に心の余裕がなくなってきたのかお気楽に読めるはずのいしいひさいちのバイト君も読むことがなくなり、やがて漫画の存在そのものが日常から忘れされていたのだった。

その漫画、つい先日久しぶりに読みたくなったのが一冊も所持していないことに気がついた。
誰のことかというと永井豪の作品を一冊も持っていなかったのだ。

私は永井豪の作品はリアルタイムに読んでいたのだがデビルマンやキューティハニーには興味がわかず、読んでみたいと思ったのは「オモライくん」と「イヤハヤ南友」なのであった。
両方とも今連載すると人権問題に発展する可能性のあるような作品だが、私はこの2作品が大のお気に入りなのであった。
ちなみに「けっこう仮面」も助平心が芽生え始めた頃に読んでいたので、すこしくページをパラパラしたいところだが、先の2つの作品ほどではないのであった。

で、持っていないとなったら買いたいなと思ったのだが、驚くことにというか驚くまでもなく両方とも新刊としての商品は存在しなかった。
やはり出版すると問題があるのかもしれない。
中古ならアマゾンで売られているのだが、とても買える金額ではないのだ。

「オモライくん」は今で言うホームレスの子供、その当時の呼び方で言うと乞食またはルンペンの子供がたくましくルンペン仲間と勉強することもなく生きていくとうコメディなのだが、これがやはり問題なのであろう。
プレミア価格がついていたセットで買うと4万円もするのだという。

「イヤハヤ南友」もコメディというかお色気というか変態趣味というか、こんなの子供に読ませていいのか、という内容なのだが、それだけに気分転換に使えるかもしれないのだが、これもアマゾンでセットで4万円以上する恐ろしいプレミア状態なのであった。

ということであとは図書館に行って読めるところがあるかどうかだが、「オモライくん」「イヤハヤ南友」ともに人権侵害が色濃い作品。
公共な場所に置かれいるとは思えない。
それでも読んでみたい欲求が膨らんでくるのである。


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「厚さ数ミリの靴の底と、アルミでできた着陸船の脚部分との違いしかない。だからどちらが先に降り立ったなんて馬鹿げた話だよ。」

とニール・アームストロングが言っていたことを私はちっとも知らなかった。
アポロ11号で月に向かって出発する前そんな会話がかわされているとは当たり前といえば当たり前。
だが私は今日に至るまでちっとも気づかなかったのであった。
月着陸船イーグルに乗り組んだアームストロングとオルドリンのどちらが先に月の地表に降り立つのか。
そんな驚き満載だったのが、
ジェイムズ・R・ハンセン著「ファーストマン:ニール・アームストロングの人生」
なのであった。

人類が月に降り立ってから50年。
アポロ計画が終了してから日本を含め探査機は何度も飛んでいったものの人類は一度も月へは訪れていない。
だからなんだか遠い昔の出来事で、もしかしたらウソだったんじゃないかと思われる人も少なくない今日ではある。
事実「あれはNASAが作り出したフィクションの世界。月着陸は特撮で月を歩く光景はスタジオ撮影だ」というトンデモ説がまことしやかに囁かれるのも当然といえよう。
しかしアームストロング含め12人のアメリカ人が上陸し、さらに6人がその周回軌道まで行ったことは厳然たる事実なのだ。
高性能のレーザー装置で月をターゲットに距離を測ると、アポロの飛行士が手で下げていった反射鏡が置かれていることを我々は利用することもできる。
だから月へ人間が行っていないのは費用対効果の問題以外の何物でもない。

アポロ11号が月に着陸したとき、私は幼稚園児だった。
だからそのときのことはまったく記憶にない。
アポロが月に着陸したのは米国東部時間で午後4時頃だったので日本では早朝。
子供の頃から早起きだった私だが、まだ寝ていたのかも知れない。
しかしその翌年に大阪で開催されたEXPO70大阪万国博覧会の最大の目玉が米国館に展示されていた月の石であったことは今も鮮明に記憶している。
そして群衆の列に並ぶのが大嫌いだった両親のおかげでその石を見ることはついになかったことも忘れられない思い出なのであった。

よくよく考えてみると1960年代の科学技術でよくも月まで行ったもんだと感心してしまう。ほんとは命がけだったんだと今回この本を読んで初めて気がついたのだった。
「もしも...」
という危うさがすべての段階に存在していたのを全く意識せずにこれまではこの歴史的偉業を思い出していたのだった。

もしもサターン5型ロケットの発射に失敗していたら。
もしもロケットの段切り離しがうまく行かなかったら。
もしも着陸船と司令船がドッキングできなかった。
もしもドッキングしたあとにジェミニみたいに制御不能に陥っていたら。
もしも月の軌道に入るルートから外れてしまっていたら。
もしも着陸途中で燃料が無くなっていたら。
もしも着陸した地点にでかい岩が転がっていて、イーグル着陸船がひっくり返っていたら。
もしも月からの離陸エンジンが点火できなかったら。
もしも司令船エンジンが再点火できていなかったら。
もしも宇宙服が破れてしまっていたら。
もしも帰還カプセルのパラシュートが開かなかったら。
もしも帰還カプセルが浮かばず海に沈んでいたら。
などなど。

様々なもしもな可能性を克服した結果、アプロ計画の成功が存在するわけだ。

とりわけ今回この本を読んでいて最も緊張してしまったのがイーグルの離陸。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」
とい有名な一言を発したアームストロング船長とオルドリン飛行士。
もしもエンジンが点火しなかったら、この言葉の意味も大きくことなっていただろうし、二人の月からの中継がどのように打ち切られたのか想像するだけでもサブイボが立ってしまう恐ろしさがあるのであった。

ということで「ファーストマン」はニール・アームストロングの伝記ではあるが、あのアポロ計画がいかにスリリングでオッカナイものであったかをひしひしと感じることのできるスリルあふれるノンフィクションなのであった。



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中国本国の法律の改正に端を発した香港市民の抵抗運動は第二の天安門に発展するのだろうか。
今、世界が注目しているのはその一点だ。
香港が中国に返還されたのが1997年。
天安門事件はその8年前に起こった。

19世紀の帝国主義の残滓であった植民地香港がイギリスから中国に返還されるとき、世界の流れは大きく変わっていた。
帝国主義は終焉し民主主義が主流を形成。
その中で共産主義という一党独裁主義の中国は香港を受け取るのに決してふさわしいとは言えない国家だった。
しかもあの天安門事件からたった8年しか経過していなかったその時、香港の返還は誰の目から見ても疑義のあることだった。
現在でもなおそうである。
だが国家間の約束は約束だ。
返還する方のイギリスも、受け取る方の中国もそれを当然のように実行した。
ただ一つだけ、向こう50年間は中国の共産主義体制を香港には持ち込まないという条件が認められた。

しかし今その約束は破られようとしている。

安田峰俊著「八九四六 天安門事件は再び起きるのか」を書店で見つけたのは香港のデモンストレーションが大きく報道されはじめた頃だった。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの本は天安門事件に関わったりあるいは遭遇した中国人たちの現在を取材したインタビュー集だ。
あのとき情熱的に活動した若者が中年あるいは初老になった今、当時をどう考えているかを知ることは香港の騒乱を客観的に見ることにつながるかもしれないし、中国の本質の一つをみることになるのではないかと思った。

たびたび1960年代終盤から70年代頭にかけての日本の学生運動と比較されることがある。真の民主主義を求めて活動する若者たちは、実はその本質を十分に理解しているとは言い難い無責任さが共通していると言えるかもしれない。
多くの同世代人たちが声高に叫び集い、そして運動することに同調する。
その一種お祭り騒ぎが30年の年月が経過した今、冷めた目で見られている。

「結局、民主主義を受け入れなくても中国は経済発展を遂げることができた」

多くの人々はそう現在の自分の国のことを話している。
天安門事件の活動の中心にいた人たちまでも、そのように評価しているところに日本の学生運動と似たような匂いを感じるのだ。

「もし同じような活動が起こったら、今の若者は同調しないだろう」

とも言う。
それは現在の中国が経済的に豊かとなり体制に反抗する理由を見つけるのが難しいという意味でもある。
そうなると、香港はどうなるのだろう。

香港が変換後の50年はその自由な体制が認められるという約束だったが、その約束が反故にされようとしている今、それに反旗を翻している香港市民は中国共産党政府に本当に贖うことができるのか。
そしてそれを中国の他の国民がどのような目で見ているのか。
もし第二の天安門事件が発生したとしても共産党体制のもと豊かになった多くの中国人は1989年6月4日を思い出して賛同するだろうか。

天安門事件が再び起こっても騒ぐのは外国ばかりではないだろうか。
中国は違う意味で大きく変わった。
そう思える天安門事件当事者の今なのであった。




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数年前に東日本大震災の復興が一向に進んでいないと言われていた頃。

それなら原爆を落とされた広島の復興はどうだったんだ、と調べてみたことがあった。
広島の原子爆弾と東日本の津波の被害を一概に比べることができないが甚大災害で街が無くなるくらいの破壊力だったということにおいては同様ではないかと思ったのだ。

で、調べてみたら驚くべきことがわかった。

広島に原爆が投下された8月6日以降、その復興スピードは半端ではなかった。
これも単純な比較はできないが、今の行政と当時の行政はどうしてこうも行動力と決断力が異なるのか。
巨大災害に立ち向かった同じ日本人とは思えないパワーなのだ。
進捗の過程の詳しくは次のブログで書くとして、今回はその頑強な精神力を示す大きな例の一つを一冊の文庫から知ることになった。

ノンフィクション作家・柳田邦男が著した「空白の天気図」である。

「空白の天気図」は原爆被害と原爆投下の一ヶ月後に西日本を襲った枕崎台風による広島市とその周辺の被害を広島気象台を軸に描いている傑作なのであった。
「マッハの恐怖」の柳田邦男がこのようなノンフィクションを書いていることを私は今回まで全く知らなかった。

まず、本書を読んで驚いたのはあの8月6日に原爆が投下された当日。
広島気象台がその後も通常業務を行っていたということだ。
もちろん甚大な被害を受けていた。
多くの職員が重症を負った。
行方不明になった人もいた。
それでも気象人根性というか科学者魂というか私達が極限の状況と思っていた原爆投下の広島で通常業務をこなしていたことに衝撃的な感動を受けたのだった。
投下後最初の午前10時の観測も実施。
その後の2時間おきの観測も当然実施していた。
つまり観測の抜けはまったくなく、今日に至るまでデータは一切中断することなく継続しているのだ。
私は広島の気象データは少なくとも原爆投下後の数週間は無いものと思っていたが、大きく違っていたのだ。

爆心地からたった3キロメートルほどしか離れていない広島気象台は当然原爆の破壊力を直接受けることになった。
ところが堅牢なその庁舎が気象台職員を守った。
多くが大怪我を負いながらも気象台としての任務を続行。
東京や大阪への気象情報の伝達は不可能だったが記録は継続されていたのだ。

気象台の壊れなかった風速計などが後に原爆の破壊力を科学的に究明する一つのデータになったことも興味深いものがあった。
市内中心部で被爆したであろう家族も顧みずに観測勤務を全うした職員の姿にも胸打たれるものがある。
これが作り話ではなく真実であったかと思うと当時の日本人の勇気と精神力には敬服するしかない凄みがあると思った。

これだけ興味深いことが書かれている本書のハイライトは実は原爆投下ではない。

本書のハイライトは原爆の一ヶ月後に広島を襲った枕崎台風に関するところだった。
私たちは広島の原爆は知っていても、そのたった一ヶ月後に超巨大台風が広島を襲って2000人以上もの死者・行方不明者を出したことを知らない。
原爆の破壊力をも凌駕する自然災害の恐ろしさ。
その被害の状況を原爆被害と合わせて足で調査した気象台職員の渾身の報告書はGHQの検閲に会い数年間日の目を見なかった。
こういうところが戦後の日本のおかしな文化をスタートさせてしまった根幹の一つなのだろう。
しかし、今日それは重要な資料として私たちは知ることができるのだ。

それにしても本書の中に記された多くの事例はなぜ昨年の広島の災害に役立てることが出来なかったのか。
そういう苛立たしさも感じさせさせる強烈な一冊なのであった。


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「終末医療についてはどう考えていますか?」

母が最後に入院した病院で症状の説明のときに主治医の先生がリストを提示して私に訊ねた。
人工呼吸器をつけるのか、蘇生術を施すのかなどなど。
いよいよその時が来たという状況に対して家族の判断を仰ぎどのように治療するのかを決めるのだという。
私は母が末期がんでしかも高齢であることから機械を使って無理やり生きながらえさせるのは人として疑問だと思っていた。なので回復の見込みがないくらいなら喉を切開して人工呼吸をさせたりするのはむしろ可愛そうだと考えていたのだ。
最も幸せなのは自然になくなることだと思っていた。
こういうことを当の本人に質すことは難しい。
認知症が始まる前に、こういう話をしておくのが本来良かったのかもしれない。でもすでに時遅し。
それを決めるのは一人息子で一人っ子の私の務めだと思っていた。

「ただ一つだけ。最後まで苦しくないようにその時を迎えるようにしてあげてください。それだけお願いします。」

私が主治医の先生にお願いしたのはそのひとつだけなのであった。

医療現場というのは人の命を預かっているだけにデリケートさは他の職種と比較しても半端ではない。
寝たきりになってしまった病人や老人の扱い。
治療の効果の見込めなくなった患者。
最期の迎え方。
患者本人や家族の思い。
それらに常に配慮しながら医師やスタッフは患者への対応を考えなければならない。

「医療現場の行動経済学」(東洋経済新報社刊)は行動経済学から見た医療現場での対応や考え方を分析し、どう対処していくのかということを具体的に事例を挙げながら考えることのできる科学書だ。
内容はしっかりと専門色を確保しながら私のような医療の専門家でもなんでもない一般人でも理解できるように書かれていて読み応えがある。
著者は大阪大学で行動経済学を研究する研究者。
大阪大学というえば付属の阪大病院は日本屈指の高度治療を実施している病院でもある。

掲載されている末期がんと主治医の治療に関する意志の確認事例や亡くなった後と亡くなる前の家族の思いなどの具体的例はもしかすると阪大病院の事例なのかなともう読み取れなくはないが、それを医学ではなく行動経済学からアプローチしているのがリアルさを増す。
治療と費用の関係。
命は大切だと思いながらも、保険の効かない治療をするしかない場合はどう決断されるのか。
そのような人の理想とする思いと実際の金銭や期待値、その他を交えた医療への「実際」の考えや対処は今後自分が同様のシーンに直面させられた時にきっと知識として役立つに違いないと思った。

それにしてもこの時期にこの本に出会えるとは思わなかった。



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書店で色川大吉著「ユーラシア大陸思索行」を買い求めたことはすっかり忘れてしまっていた。
先日、自宅の書棚で山積みになっている仕事の書類を整理していたら、その書類の中から紀伊國屋書店のカバーに包まれたこの本が出てきたのだ。

「こんなの買った覚えはないような....」

でも、パラパラとページを捲ってみると裏表紙の説明に1台のキャンピングカーでポルトガルのリスボンからインドへ走破した記録とあるので、
「なるほど、沢木耕太郎の『深夜特急』の逆方向への旅の本なので買ったんだな」
と合点がいったのであった。
深夜特急はインドからリスボンまでのバスでの移動だったが、これはキャンピングカーでの逆方向。
時代も同じ1970年代初めという共通点もある。
私が興味を持ったのもうなずけるというものだ。

でも、なぜ読まなかったのだろうか。
しかも買ったことさえ忘れていたのだ。

読み進めていくうちに読まなくなった、あるいは読まなかった理由がなんとなくわかった。
理由は旅行記としては期待していたほど面白いものではなかったことと、著者にこの時代の文化人特有の上から目線を感じたからかもしれない。

それにしても1台のキャンピングカーで旅をするという企画は面白そうだ。
しかしどうしてそれが学術調査になって、文化の交流になるのか。
当時としてはそのような旅行スタイルが日本人が取ることのできるギリギリのところだったんだ、と思い込んだとしても物足りなさは否めなかった。
というのも、1台のキャンピングカーに乗っているのは日本人だけ。
この日本人だけのグループで海外を移動をして、しかも要所要所で「ご飯、味噌汁」の日本食を自炊しているのだから、当時は常識だったジャルパックの貧乏旅行版というような感じもしないではなかったのだ。

日本人の環境に守られて旅をする。
潜水艦に乗って海の中を行くのと同じような感覚だ。

しかも筆者は矛盾する話を度々繰り返す。
たとえば砂漠を疾走する自動車の中で仲間の日本人が日本の流行歌を聴きながら運転していることに否定的な意見を述べている。
せっかく異国に来て、異国の環境の中にいるのに日本の流行歌を聴いているのは残念でならないと。
でも、当の本人は日本人だけのグループで旅をし、さらにところどころで日本の食べ物を食べながら移動しているのだから、そんな批判などできないのではないかと私などは思うのである。

それだけではない。
「だから日本はだめなんだ」理論が随所に出てくるのもいただけない。
この時代の文化人。
筆者も大学教授ということだが、こういう人たちに共通するのは自分の文化を否定的な目でばかり見て、それが旅をしている国の文化とどう異なり、どういう良さがあって、問題はあるのか考察するところが大いに足りないと思われてならない。
確かに海外を旅すると、その土地々々の習慣や文化が日本とは大きく異なり、それが正解のように思うことが私自身も少なくない。
そういうときは「だから日本は」と思わなくはないのだが、でもよくよく考えてみると何もかも同じなんてことはありえないわけだし、経済や文化、衛生度、教育レベル、質といったものを論じるときに一方的に自分の文化を非難するのは勘違いも甚だしく思えてならない。
途上国に見られる貧困や階級社会には日本にはない、深刻な問題が存在するわけだし、宗教が力をもって人間らしさを形成している部分にしても、宗教そのものの種類や受け止め方が異なるわけだから、知識人であればそこまで考えて主張すべきなんじゃないかと思うのだ。

いわんや本人は日本人ツアーグループのリーダーとして動いているから、余計に矛盾した印象を与える。

批判するのは必要かも知れない。
しかし、海外で活躍する日本人ビジネスマンに出会っても、そのビジネスマンの負の部分を強調する。
でもそのビジネスマンは筆者と違って孤軍奮闘しているかも知れず、非難するだけではなんとなく納得できないものもある。

その他、日本のことを「天皇島」と呼んでみたり、ヨーロッパの習慣文化を一方的に称賛するような部分があるのもいただけないと思った。

このように読んでいると、はと何かに気づかざるを得ないのだ。
それは最近も「元号はいらない」などと宣っているどこかの困った人たちと同じような匂いがしていたのだ。

とはいえ、キャンピングカーでのユーラシア縦断は魅力的で、バーミアン、カブール、クルド人地区など今では訪問の難しい箇所もすくなくないだけに、旅としては悪いものではなかった。
根底にある思想はともかく、もう少し現地の香りを感じることができればよかったのにと思う作品なのであった。


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「我々はボーグだ。抵抗は無意味だ。」

というのはSFTVシリーズ「スタートレック」に登場するボーグというキャラクター。
生命とマシンの中間という存在で、あらゆる文明、科学、生物、テクノロジーを吸収し続けて宇宙を侵略。
そういうトンデモ生命体なのだ。
彼らの殆どはヒューマノイドタイプの生命体。
その人体には「ナノプローブ」という名の人工微生物が注入され「インプラント」という名の人工器官が組み込まれている。
いずれも超人的な能力を発揮するのだ。
しかも彼らはネットワークで連結されており「集合体」と呼ばれるグループを形成。
意識を共有し、個というものは存在しない。
敵に遭遇して攻撃されても、その弱点をすぐにネットワークを使って「同化」して瞬時に対策が講じられるため相手の武器は無力化されてしまう。

なかなか死なないツワモノでもある。

番組の中ではこれらの技術のことを「ボーグテクノロジー」と呼んでいる。
驚異的なレベルで惑星連邦が誇る科学技術をも上回るものとして扱われている。
もちろん当初は恐ろしい技術との扱いを受けていたのだが、キャラクターが登場してから時間が経過するにつけ、ボーグテクノロジーを応用して、良い方に利用しようという試みが開始されるのが面白い。

その最大のエピソードは「スタートレック ヴォイジャー」という20年ほど前に放送されていたシリーズの最終回。
主人公の宇宙艦ヴォイジャーが数万光年彼方の空域から地球に戻ってくるという手段にこのテクノロジーが使わた。

この空想の世界だと思っていたボーグテクノロジー。
実は徐々に実現化しているということを、カーラ・プラトニー著「バイオハッキング」という書籍で知り大変に驚いたのであった。
ボーグとは言わないまでも、少なくともリー・メジャースやリンゼイ・ワグナーが主演した「600万ドルの男」「バイオニックジェミー」のバイオミック技術に迫りつつあるようだ。

前半は味覚についての考察が多くなされている。
これは生体埋め込み技術とは違う話題だが、感覚とはどういうものなのか、ということを説明するための前振りであり、これも面白い。
日本人が生み出した「うま味」「ふか味」が取り上げられており、文化的背景にこの2つの言葉がなければ説明もできないため、両方共日本語が標準になっているのだという。

やがて味覚から視覚や聴覚の話に移っていくのだが、最初に登場する「人工角膜」でもうこのテーマの本題に突入する。
ここからはSFだと思っていたことが現実になってきていることに驚き、感動し、期待が膨らむ一方、言い知れぬ不安感も浮き上がってくるというわけだ。

記憶のダウンロードとアップロードが可能になる。
眼球にデジタルカメラを埋め込む。
磁気を感じ取るために手に磁石を埋め込む。
などなど。

まさしくごく初期のボーグ技術ということができるかもしれない。

人類は使う道具を進化させてきたが、これからはその道具は人体と一体化して人そのものを進化させてしまうところまで接近してきている。
ボーグのようにネットワークで繋がれたりしたら、個は存在しなくなったりしないか。
その先にあるものを考えるとこれはかなり怖いと思う科学ノンフィクションなのであった。

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