彦四郎の中国生活

中国滞在記

夏季セミナーに参加している閩江大学の学生たちが今年も京都に来た—猛暑と鴨川での水遊び―

2018-07-23 04:50:18 | 滞在記

◆2014年夏より、閩江大学の学生たち(日本語学科3回生)5〜6名が、毎年、神戸の大学の「夏季セミナー」(2週間)に参加している。2週間のうち2日間だけ自由行動日があるので、そのうちの1日を日帰りで「京都」に来てもらうことを毎年続けている。今年は6名が日本に来た。今年は7月11日(水)に来日予定だったが、台風8号が中国福州に直撃上陸したため飛行機が欠航、翌日の12日に予定を変更して来日した。

 私が日本に帰国した13日(金)直後の、15日(日)、京都に来ることとなった。「午前10時30分にJR京都駅の七条口改札付近で待ち合わせをする」ということにしていたが、はたして神戸からここに無事に来ることができるか多少の心配はあったが、日本語が上手な学生も多いので、大丈夫だろうと思っていた。はたして、10時30分に指定の場所で会うことができた。その神戸の大学の学生2人とも合流したので合計8人。まず、今日一日の京都でのおおまかなスケジュールを全員に告げた。この日も京都は38度という高温の猛暑日だった。

 まずは、このままJRを乗り換えて山陰線で「嵯峨嵐山駅」に向かう。嵐山に行って渡月橋付近の桂川(保津川)の冷たい水の流れに親しんでもらおうと思ったのだが、7月10日前後の西日本豪雨災害の影響が残り、保津川の水はまだまだ濁っていた。ここで流しそうめんの昼食を計画していたが、流しそうめんの店も沢が豪雨被害で使えず開店休業していた。そうとわかったので、嵐山滞在は15分くらいできりあげることとした。ただただ暑く、みんな大粒の汗がしたたり落ちるだけの嵐山だった。嵐山行は完全な失敗・誤算だった。

 大汗をかきながらみんなは嵐電(京福鉄道)に乗り、立命館大学や金閣寺方面に向かった。立命館大学構内の図書館内にある喫茶店に入り昼食をめいめいがとることとなった。涼しいのでしばらく体を冷やしての休憩が十分にとれた。大学構内に、「立命館土曜講座」の看板があった。7月のテーマは「朝鮮半島を巡る国際関係と日本」。7月28日(土)の講師は藪中三十二氏(立命館大学国際関係学科客員教授)となっていた。参加してみようかなと思った。昼食休憩後、バスに乗り近くにある金閣寺に向かった。金閣寺で冷たい抹茶をお点前で飲む体験をしてもらった。その後、タクシー2台に分乗させて、出町柳の鴨川に向かわせた。

  通称、鴨川三角デルタとも呼ばれる場所がある。賀茂川と高野川が合流して鴨川となる場所だ。出町柳地区に着き、さっそく鴨川に行く。暑い暑い猛暑の京都、この鴨川は豪雨災害の影響も癒え、清流が戻っていた。学生たちもここはとても楽しくて気持ちがいいらしく、次の希望地(錦市場)もあったのだが、ここにずっといたいようだったので、2時間あまりをここで過ごした。川の中で、ジャンケン水かけ遊び(負けた人に全員が水をかける)などに興じていた。

 前日に予約していた祇園白川沿いの石畳の道がある場所にある店「祇園・侘助(わびすけ)」に午後5時に 入った。1時間あまりの貸し切り状態としてもらった。ここで、同志社大学に留学中の閩江大学卒業生の任天楽君とも合流した。「おばんざい料理」など、日本の家庭料理を学生たちに堪能してもらった。中国人観光客もこのへんは多く、親子三人が浴衣を着て白川に架かる小橋の上で撮影をしていた。

 祇園祭りの宵々山の縁日で賑わう八坂神社の様子を見てもらい、午後7時前に石段下でタクシーを2台拾い、京都駅に向かわせた。神戸への帰りは神戸の大学生も一緒なのでJRの乗換などは安心して任せられた。宿泊先の寮の門限は午後10時。祇園で学生たちと別れた私と任君は、先斗町の「みちのく」という行きつけのカラオケ居酒屋で飲んで歌った。午後9時すぎに、「私達は無事に寮に戻りました」との電話連絡が入った。

 午後10時ころ、この店を出て、鴨川にかかる四条大橋へ。河川敷の鴨川には、まだ大勢の人が等間隔に座り、涼を求めていた。京阪電車の特急に乗り丹波橋に向かう。丹波橋駅で、任君と別れて、京阪電車の普通列車に乗り換えた。その後、今日の暑さや気疲れのためか、大阪中の島の終点まで眠ってしまった。また、京都方面への普通列車に乗り換えたが、また眠ってしまい、京都の終点出町柳まで行ってしまった。車掌さんに起こされて、淀行までの最終電車に乗り、眠気をこらえて乗車。淀駅下車後タクシーで自宅に着いたのは午前1時半の時刻となってしまっていた。長い一日だった。

 

 


Wカップ・ロシア大会が終わった―フランスとクロアチアという国、サッカー決勝戦に思う―

2018-07-22 15:27:44 | 滞在記

 

 準決勝を経て3位決定戦、そして決勝戦へと。2018年6月14日に開幕した世界最高のスポーツイベント、サッカーWカップ・ロシア大会は、7月15日の決勝戦をもって閉幕した。日本がアジアで唯一、決勝トーナメントに出場を果たし、日本国内もサッカー熱に覆われた1カ月間だった。

  中国時間で7月10日の深夜から11日の早朝にかけて行われた準決勝。イングランドVSクロアチアは、1―2でクロアチアが勝利をした。クロアチアの頑張りは感動的だった。チームの心臓でもあるモドリッチは、ミスで奪われたボールを鬼の形相で追った。決勝点は少しのチャンスをものにしてゴール。「我々のような小さな国にとって、この勝利がどれだけ重要か」と言った選手たちの言葉には、どの国の代表よりも、「国の人々に捧げた1勝」への想いがこめられていたような気がした。

 ベルギーVSフランスは、0―1でフランスが勝利した。猛烈に追いすがるベルギーに対して、フランスの「神童」とも呼ばれたエムバペは、相手に渡すべきボールを渡さず時間稼ぎのためにボールをもって逃げる様子は見苦しく、「神童に対して一転、嫌いになる人続出!」という記事が翌日の日本のニュースでも報道されていた。私もこのシーンを見ていたが、「卑怯で見苦しく品性がない行為」だった。

 14日の3位決定戦、イングランドVSベルギーは、0―2でベルギーの勝利。「赤い悪魔」と呼ばれたベルギーは本当に強いチームだった。

 15日の決勝戦は、フランスVSクロアチア。フランスの司令塔の選手は、往年のフランス人男優「アランドロン」を彷彿させる青い瞳の選手だった。クロアチアの司令塔の選手は、「東欧人(南スラブ民族)」特有の目と鼻をもった選手だった。

 2―4というスコア―でフランスが勝利し優勝をした。表彰式にフランスのマクロン大統領とともに登場したクロアチアの大統領は美人の女性であった。大会MVPにはクロアチアの司令塔・モドリッチ、若手に与えられる賞はフランスの神童が選ばれた。フランスの強さとは何だろう、クロアチアの強さとは何だろう‥と考えてみた。

 ―「フランスの強さの秘密、そしてクロアチアの強さの秘密とは‥‥何だろう?」

①「フランス」という国のサッカー代表―この決勝戦を見ていて、先発メンバー11人のうち、5人はアフリカ系にルーツをもつ移民の家系の選手だった。数年前より「移民問題」に揺れるヨーロッパだが、ヨーロッパの中でも最も移民受け入れ政策を積極的に行っていた国の一つがこのフランスだった。「民族の融合と自由」を掲げるフランスは、サッカーの長年の歴史的伝統とともに、アフリカ系選手の身体能力の高さをもつ「歴史・技術・組織力・身体能力・老練な戦略」を併せ持つフランス代表を作り上げた。そして優勝へと至ったように思われる。この優勝は、ある意味、「フランスの移民政策」の成果と言えないこともない。

②「クロアチア」という国のサッカー代表

  クロアチアはイタリアと地中海のアドリア海を東にはさんだ、東南ヨーロッパの小国だ。人口は440万人で面積は北海道の2/3ほど。かってはユーゴスラビアという南スラブ民族の国があったが、1992年から1955年にかけての「ボスニア・ヘルツゴビナ紛争―ユーゴスラビア紛争」という民族間の相争う争いのために、現在は6つの国々(クロアチア、ボスニア・ヘルツゴビナ・ユーゴスラビア、アルバニア、マケドニア、スロベニア)に分離独立をしている国々の一つだ。

 ユーゴスラビア時代の1990年、イタリア大会(Wカップ)では、オシム監督が代表監督となり、ストイコビッチなどの選手が活躍し、準々決勝まで進んだ。次回の1994年大会では優勝も目されるほどのチームだった。しかし、この大会直後から国内の民族間紛争が激化し始め、1992年欧州選手権ではFIFAから締め出され、国際舞台から消えてしまった。その後、それぞれ独立をはたした国々は、クロアチアの他にセルビア、スロベニア、ボスニア・ヘルツゴビナがW杯に出場している。ユーゴスラビアは、かっては「東欧のブラジル」と呼ばれるほどのサッカーの伝統的強国でもあった。

 冬のオリンピックのフィギア―で有名な旧東ドイツのカタリーナ・ビット。彼女は1994年のサラエボ冬季オリンピックと1988年のカルガリー冬季オリンピックで優勝。1994年のリレハンメル冬季オリンピックの時は、いまだユーゴスラビア紛争が戦火の真っただ中だった。彼女がこの大会のフリー演技で「花はどこにいった」の曲に合わせて、自分がかって優勝したこともあるユーゴスラビアの都市「サラエボ」に思いをはせ、演技を行ったことがまだ記憶に残っている。

 「東欧のブラジル」とかっては呼ばれていたサッカーの伝統に加え、「祖国への篤い想い」がどの国の代表よりも強くもっていたクロアチア。これがこの大会で強さとして現れたのではないかと私は思った。

 クロアチアには有名な世界遺産が2つある。一つは歴史的要塞都市の「ドゥブロヴニク」だ。アドリア海沿岸の城塞都市で、「アドリア海の真珠」とも呼ばれている。スタジオ・ジブリの映画作品『魔女の宅急便』や『紅の豚』などの作品のモデルともなったと言われる街。オレンジ色の瓦屋根の街だ。もう一つは、「プリトヴイツエ湖群国立公園」。連続する小さな湖から滝が流れ落ちる光景は、中国の有名な世界遺産とよく似ている。

 7月10日、中国のアパート近くの便利店で雑誌『VISTA看天下』を買った。中国足球(中国サッカー)の特集号だった。記事を読むと日本のサッカーについても書かれていた。日本の小さな子供がサッカーをする写真も掲載されていた。果たして今後、中国はどんなサッカー文化を造っていくのだろうか‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

 


台風8号(中国名:妈利亚・マリヤ)福州直撃で11日には帰国できず―立命館大学大学院の合否は?

2018-07-18 15:43:16 | 滞在記

  7月11日(水)の午後に日本に帰国する予定だった。7月3日頃に、フィリピンの東海上で発生した熱帯性低気圧が台風8号となったことがニュースで知らされた。かすかな不安が芽生えた。「この台風は、どのような進路をとるか?いつごろ東シナ海の沖縄や九州、そして台湾や中国大陸などに到達するのか?」。日が経つごとに不安は大きくなり始めた。7月11日(水)の午後1時35分福州発予定の厦門航空・福州―関西空港便にはどのような影響がでるのか?

  6月中旬から10月中旬にかけて、フィリピン東海上で発生した台風の多くは東シナ海を北西に進み、沖縄の南海上付近で北西からの偏西風に圧されて進路を北方又は北東にカーブすることが多い。この4カ月間の東シナ海、とりわけ沖縄周辺は「台風銀座」ともいわれる台風の通り道だ。だからこの時期に福州―関西を結ぶ飛行機航路を利用する場合、常に台風の発生や接近に心配させられる。

 今回の台風8号は7月11日の便には最悪のコースをとることとなった。この台風8号は中国では「妈利亚(マリヤ)」と命名されていた。あの女性の名前である。日本のNHKでは、「過去数回しかない超大型台風」と報道されていた。やさしそうないイメージの女性の名前とはそぐわない台風のようだった。マリア台風は、11日の昼頃に福州付近に上陸することが報道されたのは9日の夕方、飛行機の離陸予定時間とほぼドンピシャだった。「ああ、これは欠航になる確率99%以上だな‥‥‥」と諦めた瞬間だった。そうなると、次はいつ日本に帰国できるのか、11日の飛行機に代わる航空便を取得することの難しさが頭をよぎる。

 10日には、福州市内の学校や大学などは休校となることが発表された。日本のように「○○警報が出されたら休校となる」というような取り決めは中国にはないので、あらゆる休校措置の決定は、中国共産党のその地方自治政府の指示によるものとなる。日本人は台風を始終経験しているので「台風に対しては慣れっこ」になっているが、中国大陸に台風が上陸する可能性はかなり少ない。だから、台風が上陸しそうになると「大騒ぎ」になる。特に福建省は東に台湾があり防波堤となるのでなおさらだ。(台湾に上陸したあとは勢力が弱くなる)

 11日の昼前に予想通り福州付近に台風は上陸した。風がかなり強く、雨も強く降る。アパートの8階の部屋から外を見ていると、風に巻き上げられたゴミがたくさん空中に舞っていた。ここ福州も路上にポイ捨てゴミが実に多く散乱しているからだ。この日は一日中、外に出るのは危険だった。台風の影響で外気温が冷やされ、1カ月ぶりくらいに少し涼しい一日となった。この台風のためにこの日帰国はできなかったが、広島・岡山・愛媛など西日本の広域にわたった「大水害(雨)」のさ中だけに、この台風が日本列島の方に向かわなくてよかっとも思った。

 苦労してようやく13日(金)の厦門航空便で日本に帰れるメドがたったのが、12日(木)の午後4時ころだった。電子チケットが送られてきた。胸をなでおろした。この日12日の午後6時に、「上野一番」という日本風居酒屋に同僚の鈴木さんと行った。この店は福建師範大学から近いところにあるのだが、7月上旬に偶然に見つけた店だった。鈴木さんは13日に福州―成田間の直行便で日本に帰国予定だった。福建師範大学から歩いて20分ほどのところに「引っ越し」をしたばかりだった。9月から福建師範大学の「国際交流学部」に入学し、留学生として中国語を学ぶ予定だ。「引っ越し祝い」と「帰国祝い」を兼ねて乾杯をした。

 13日(金)の午後2時すぎに30分遅れで関空行の飛行機が離陸した。実はこの日の午後2時(中国時間午後1時)に、ある発表がされる時刻だった。今年の6月に閩江大学を卒業した沈欽慧さんの立命館大学大学院の合否発表だった。彼女学年で最も優秀な学生だった。7月1日には、日本の立命館と中国を結ぶインターネットテレビ電話を通じて、立命館の教員2人との20分間あまりの面接があった。<合否はインターネットを通じて行われる13日午後2時(中国時間午後1時)予定だった。>

 3時間あまりのフライトを経て関空に午後6時ころに到着した。中国の携帯電話を見たら、沈さんからのメール受信記録(中国時間午後1時半)が入っていた。しかし、ここはもう日本なのでメールを開けることはできなかった。「合格しました」というメール内容だろうか?  自宅に午後9時頃に到着し、パソコンを起動させ、Eメールを開示したら、沈さんからの「合格できました!」と喜びのメッセージが入っていたので安心した。

 7月18日(水)、日本に帰国して5日目、新しく台風9号と熱帯低気圧が発生したと伝えられた。台風は7月・8月・9月には、ほぼ10日間に一度の割合で発生し、東シナ海を発達しながら通過している。7月に中国から日本に帰国する際や、再び8月下旬に中国に戻る際の飛行機利用は常に台風に悩まされる。

◆2017年 中国電子書籍ベストセラー10が、インターネット経由の日本のテレビで7月12日に報道されていた。それによると‥。

1位『三体全集』(劉慈欣・中国)、2位『解憂雑貨店』(東野圭吾・日本)、 3位『探集全集』(アーサー・コナン・ドイル・英国)、4位『人民的名義』(周梅森・中国)、‥‥、6位『人間失格』(太宰治・日本)、‥‥、9位『情人』(渡辺淳一・日本)、‥‥。日本人作家の東野・太宰・渡辺の3人もが入っている。この傾向は、この4〜5年続いている。太宰の人間失格がベストセラー10に入る中国社会へと変貌を遂げてきている一つの結果でもあった。

 

 

 


「茉莉花茶(モーリィファチャ)―ジャスミン茶」を買いに「三坊七巷」に行く

2018-07-18 10:19:47 | 滞在記

 日本帰国が近づいたので、7月8日(日)の午後に「三坊七巷」という伝統的建物が多く残る地区に、ジャスミン茶を買いに出かけた。ここ福州は、世界でジャスミン茶生産地の発祥、中心地だ。1850年代より世界各国にここから輸出され始めた。「福州茉莉花茶文化館」の建物に入りジャスミン茶を数袋買った。日本の知人へのお土産用とする。店先にはジャスミンの花が乾燥されて置かれていた。店の伝統衣服を来た女性の衣服の水色が涼しげ。

 バスと地下鉄を乗り継いでここ「三坊七巷」に来たが、地下鉄駅から「三坊七巷」に来る道々、前を行く若い母親2人とそれぞれの小学生低学年くらいの子供たちが前を歩いている。二人の子供ともに串にさした揚げ物的なものを食べらがら歩いていた。食べ終わると細い竹串を何本も何本も道路にポイ捨てしてい。路上にゴミ箱もあるのだが。それに対して2人の母親は何の注意も子供たちに言わず、それが当たり前のような様子で見ていた。中国では家庭教育的なことは、とても弱く、学校でもほとんど道徳的なことは教育されないようだ。ちょっと これからの中国にとっては、その世界への影響力からかんがみても 大きな問題かと思う。

 三坊七巷の通りの道にある高いカジュマルの樹木。カラフルな色彩の衣服をまとったおばちゃんたち。色彩の派手さは中国ならではだが、最近の若い人たちは このような色彩の派手さは好まなくなってきている。前を行く男性のTシャツも暑さのために汗をにじませていた。このような汗をかく人を見ることは福州では珍しい。ここらの人は体質的なDNAの関係が、「汗をかく人」はとても少ない。

 銀製品を売る店も中国では多い。銀製品の飾りを作る実演をしていた。店の女性の伝統的な衣服もなかなかいい。福建省泉州市の海岸地区の「恵安女(グイアンメ)」を描いた絵が飾られていた。

 ある館では、木で造られた「木像」が展示されていた。木造で女性の曲線美や乳房、表情などが見事につくられていた。また、ある店では雑誌『知日』など、日本に関する雑誌や本などが売られていた。「京都」を特集している『知日』を一冊取ってみた。―世上只有―世界中に、京都という存在はただ一つ!と表紙に記されていた。

 この日の帰り、福建師範大学前の道路で、「電動バイク一斉取り締まり」が突然に行われていた。電動バイクに対するこんな取り締まりは初めて中国に来て見た。次々と止められて尋問を受けていた。信号無視をするのは100%当たり前、逆走は当たり前、歩道を疾走するのも100%当たり前という、あまりにも無法な電動バイクの運転の洪水が当たり前のように横行する福州、取り締まりは毎日して厳罰に処してほしいが、このような取り締まりは、2〜3年に一回あるかなしかだ。電動バイクに乗らない歩行者にとってはあほらしい感じがする。

 

 

 

 


日中ともに異常に暑い日が続く―福建師大の知人や学生からの、日本帰国に際してのお土産―

2018-07-18 09:19:07 | 滞在記

 今年の7月は、日本も中国も異常に高温となり暑すぎる日々が続いている。アパートから見上げる青い空、午前6時ころの時刻だが、今日一日の暑さが予想できる。気温は35度から39度と猛烈な湿気が5月からもう2カ月間あまりが続く。今年の中国は、全土的に例年とは違って異常に暑い日が多いと伝えられている。日本も7月10日頃からは異常な高温が続いているが、何か異常気象というものが東アジアでも確実に起きているようだ。

 この時期の中国・福州では毎年、裸で路上をゆく男性の姿がちらほら見られてくる。夏の風物詩だ。市内各地の街路樹などに多いマンゴーの実が黄色く色付き始め、その実を専用の「果実獲り」の網を使って獲る姿が福建師範大学グランドでも見られた。この実はとても小さなマンゴーの種類だ。アパート近くの樹木の下で、赤ちゃんたちをあやして談笑をするおじいちゃん・おばあさん、そして母親の様子など、異年齢の人達が談笑している様子は微笑ましい。中国ならどこでも見られるで光景だが日本では少なくなった。路上で肉を販売しているまだ年若い女性。

 7月4日(水)のお昼に、閩江大学同僚の鈴木先生の「送別会」が行われた。中国人教員8人、日本人教員3人が参加した。日本語学科の教員全員だ。鈴木節子さんは、娘さんが10月に初めての出産予定、これに対応するため、今回、閩江大学での仕事の継続を一旦断念した経過があった。今後は、福建師範大学国際交流学院の留学生として9月より就学し、日本と中国を行ったり来たりすることとなるようだ。また、大学の教員なんらかのカタチで復帰できる機会があることを私も願っている。学生たちにも慕われている教員だ。

 7月5日(木)の午後5時頃、大学からの帰りに バス停近くの福建師範大学のグランドに立ち寄ってみた。サッカーをしている様子などを見ていたら、突然「先生、先生!」と声をかけられた。2年ぶりに福建師範大学時代の同僚だった「倪(にい)先生」(中国人)と再会した。その日の夕食に誘われたので、午後6時から近くの海鮮料理店に行くこととなった。翌日6日、私のアパートに「福建の白茶」を日本帰国に際してのお土産として持ってきてくれた。また、大量の「ライチ」を送ってもくれた。ライチは日本に持ち帰ることはできないので、閩江大学の同僚たちにも分けて食べてもらった。

 彼女は9月から福建師範大学で「中日文化交流史」という新しい教科を担当することとなったようで、昨日に続いて「日本文化論」「中国文化論」「中日文化交流史論」などに関する講義の進め方などについて相互交流を行った。「近いうちに日本文化論・中国文化論・日中文化交流論に関する本(日本語・中国語併記)を作ってみませんか」との誘いを受けた。彼女の専門は「日本と台湾の交流史」。この7月と10月に、それぞれ東京の大学や京都大学で行われる学会に参加するため来日予定のようだ。

 7月4日、倪先生との会食中に福建師範大学時代の教え子から電話が入った。福建省南平市に在住の趙君からだった。「先生、いつ日本に帰国しますか。お土産に私の地元の名品の天目茶碗を持って帰って下さい」との内容だった。茶碗は福建師範大学の大学院に在籍している李国東君にすぐに送られたようで、8日(日)に福建師範大学外国語学部の建物の前で待ち合わせをして受け取った。

 送ってきてくれた小箱を開封してみたら、立派な天目茶碗など2つが入っていた。なかなか良い茶碗だった。この天目茶碗は、日本の戦国時代に珍重され、銘品は一国に値するとも言われていたものだ。この時代、中国から輸入された天目茶碗は茶道の名物として扱われていた。産地は趙君の故郷だった。(※天目茶碗―黒色の茶碗の中に、宇宙の星々のような文様がみられる茶碗)