彦四郎の中国生活

中国滞在記

台風8号(中国名:妈利亚・マリヤ)福州直撃で11日には帰国できず―立命館大学大学院の合否は?

2018-07-18 15:43:16 | 滞在記

  7月11日(水)の午後に日本に帰国する予定だった。7月3日頃に、フィリピンの東海上で発生した熱帯性低気圧が台風8号となったことがニュースで知らされた。かすかな不安が芽生えた。「この台風は、どのような進路をとるか?いつごろ東シナ海の沖縄や九州、そして台湾や中国大陸などに到達するのか?」。日が経つごとに不安は大きくなり始めた。7月11日(水)の午後1時35分福州発予定の厦門航空・福州―関西空港便にはどのような影響がでるのか?

  6月中旬から10月中旬にかけて、フィリピン東海上で発生した台風の多くは東シナ海を北西に進み、沖縄の南海上付近で北西からの偏西風に圧されて進路を北方又は北東にカーブすることが多い。この4カ月間の東シナ海、とりわけ沖縄周辺は「台風銀座」ともいわれる台風の通り道だ。だからこの時期に福州―関西を結ぶ飛行機航路を利用する場合、常に台風の発生や接近に心配させられる。

 今回の台風8号は7月11日の便には最悪のコースをとることとなった。この台風8号は中国では「妈利亚(マリヤ)」と命名されていた。あの女性の名前である。日本のNHKでは、「過去数回しかない超大型台風」と報道されていた。やさしそうないイメージの女性の名前とはそぐわない台風のようだった。マリア台風は、11日の昼頃に福州付近に上陸することが報道されたのは9日の夕方、飛行機の離陸予定時間とほぼドンピシャだった。「ああ、これは欠航になる確率99%以上だな‥‥‥」と諦めた瞬間だった。そうなると、次はいつ日本に帰国できるのか、11日の飛行機に代わる航空便を取得することの難しさが頭をよぎる。

 10日には、福州市内の学校や大学などは休校となることが発表された。日本のように「○○警報が出されたら休校となる」というような取り決めは中国にはないので、あらゆる休校措置の決定は、中国共産党のその地方自治政府の指示によるものとなる。日本人は台風を始終経験しているので「台風に対しては慣れっこ」になっているが、中国大陸に台風が上陸する可能性はかなり少ない。だから、台風が上陸しそうになると「大騒ぎ」になる。特に福建省は東に台湾があり防波堤となるのでなおさらだ。(台湾に上陸したあとは勢力が弱くなる)

 11日の昼前に予想通り福州付近に台風は上陸した。風がかなり強く、雨も強く降る。アパートの8階の部屋から外を見ていると、風に巻き上げられたゴミがたくさん空中に舞っていた。ここ福州も路上にポイ捨てゴミが実に多く散乱しているからだ。この日は一日中、外に出るのは危険だった。台風の影響で外気温が冷やされ、1カ月ぶりくらいに少し涼しい一日となった。この台風のためにこの日帰国はできなかったが、広島・岡山・愛媛など西日本の広域にわたった「大水害(雨)」のさ中だけに、この台風が日本列島の方に向かわなくてよかっとも思った。

 苦労してようやく13日(金)の厦門航空便で日本に帰れるメドがたったのが、12日(木)の午後4時ころだった。電子チケットが送られてきた。胸をなでおろした。この日12日の午後6時に、「上野一番」という日本風居酒屋に同僚の鈴木さんと行った。この店は福建師範大学から近いところにあるのだが、7月上旬に偶然に見つけた店だった。鈴木さんは13日に福州―成田間の直行便で日本に帰国予定だった。福建師範大学から歩いて20分ほどのところに「引っ越し」をしたばかりだった。9月から福建師範大学の「国際交流学部」に入学し、留学生として中国語を学ぶ予定だ。「引っ越し祝い」と「帰国祝い」を兼ねて乾杯をした。

 13日(金)の午後2時すぎに30分遅れで関空行の飛行機が離陸した。実はこの日の午後2時(中国時間午後1時)に、ある発表がされる時刻だった。今年の6月に閩江大学を卒業した沈欽慧さんの立命館大学大学院の合否発表だった。彼女学年で最も優秀な学生だった。7月1日には、日本の立命館と中国を結ぶインターネットテレビ電話を通じて、立命館の教員2人との20分間あまりの面接があった。<合否はインターネットを通じて行われる13日午後2時(中国時間午後1時)予定だった。>

 3時間あまりのフライトを経て関空に午後6時ころに到着した。中国の携帯電話を見たら、沈さんからのメール受信記録(中国時間午後1時半)が入っていた。しかし、ここはもう日本なのでメールを開けることはできなかった。「合格しました」というメール内容だろうか?  自宅に午後9時頃に到着し、パソコンを起動させ、Eメールを開示したら、沈さんからの「合格できました!」と喜びのメッセージが入っていたので安心した。

 7月18日(水)、日本に帰国して5日目、新しく台風9号と熱帯低気圧が発生したと伝えられた。台風は7月・8月・9月には、ほぼ10日間に一度の割合で発生し、東シナ海を発達しながら通過している。7月に中国から日本に帰国する際や、再び8月下旬に中国に戻る際の飛行機利用は常に台風に悩まされる。

◆2017年 中国電子書籍ベストセラー10が、インターネット経由の日本のテレビで7月12日に報道されていた。それによると‥。

1位『三体全集』(劉慈欣・中国)、2位『解憂雑貨店』(東野圭吾・日本)、 3位『探集全集』(アーサー・コナン・ドイル・英国)、4位『人民的名義』(周梅森・中国)、‥‥、6位『人間失格』(太宰治・日本)、‥‥、9位『情人』(渡辺淳一・日本)、‥‥。日本人作家の東野・太宰・渡辺の3人もが入っている。この傾向は、この4〜5年続いている。太宰の人間失格がベストセラー10に入る中国社会へと変貌を遂げてきている一つの結果でもあった。

 

 

 


「茉莉花茶(モーリィファチャ)―ジャスミン茶」を買いに「三坊七巷」に行く

2018-07-18 10:19:47 | 滞在記

 日本帰国が近づいたので、7月8日(日)の午後に「三坊七巷」という伝統的建物が多く残る地区に、ジャスミン茶を買いに出かけた。ここ福州は、世界でジャスミン茶生産地の発祥、中心地だ。1850年代より世界各国にここから輸出され始めた。「福州茉莉花茶文化館」の建物に入りジャスミン茶を数袋買った。日本の知人へのお土産用とする。店先にはジャスミンの花が乾燥されて置かれていた。店の伝統衣服を来た女性の衣服の水色が涼しげ。

 バスと地下鉄を乗り継いでここ「三坊七巷」に来たが、地下鉄駅から「三坊七巷」に来る道々、前を行く若い母親2人とそれぞれの小学生低学年くらいの子供たちが前を歩いている。二人の子供ともに串にさした揚げ物的なものを食べらがら歩いていた。食べ終わると細い竹串を何本も何本も道路にポイ捨てしてい。路上にゴミ箱もあるのだが。それに対して2人の母親は何の注意も子供たちに言わず、それが当たり前のような様子で見ていた。中国では家庭教育的なことは、とても弱く、学校でもほとんど道徳的なことは教育されないようだ。ちょっと これからの中国にとっては、その世界への影響力からかんがみても 大きな問題かと思う。

 三坊七巷の通りの道にある高いカジュマルの樹木。カラフルな色彩の衣服をまとったおばちゃんたち。色彩の派手さは中国ならではだが、最近の若い人たちは このような色彩の派手さは好まなくなってきている。前を行く男性のTシャツも暑さのために汗をにじませていた。このような汗をかく人を見ることは福州では珍しい。ここらの人は体質的なDNAの関係が、「汗をかく人」はとても少ない。

 銀製品を売る店も中国では多い。銀製品の飾りを作る実演をしていた。店の女性の伝統的な衣服もなかなかいい。福建省泉州市の海岸地区の「恵安女(グイアンメ)」を描いた絵が飾られていた。

 ある館では、木で造られた「木像」が展示されていた。木造で女性の曲線美や乳房、表情などが見事につくられていた。また、ある店では雑誌『知日』など、日本に関する雑誌や本などが売られていた。「京都」を特集している『知日』を一冊取ってみた。―世上只有―世界中に、京都という存在はただ一つ!と表紙に記されていた。

 この日の帰り、福建師範大学前の道路で、「電動バイク一斉取り締まり」が突然に行われていた。電動バイクに対するこんな取り締まりは初めて中国に来て見た。次々と止められて尋問を受けていた。信号無視をするのは100%当たり前、逆走は当たり前、歩道を疾走するのも100%当たり前という、あまりにも無法な電動バイクの運転の洪水が当たり前のように横行する福州、取り締まりは毎日して厳罰に処してほしいが、このような取り締まりは、2〜3年に一回あるかなしかだ。電動バイクに乗らない歩行者にとってはあほらしい感じがする。

 

 

 

 


日中ともに異常に暑い日が続く―福建師大の知人や学生からの、日本帰国に際してのお土産―

2018-07-18 09:19:07 | 滞在記

 今年の7月は、日本も中国も異常に高温となり暑すぎる日々が続いている。アパートから見上げる青い空、午前6時ころの時刻だが、今日一日の暑さが予想できる。気温は35度から39度と猛烈な湿気が5月からもう2カ月間あまりが続く。今年の中国は、全土的に例年とは違って異常に暑い日が多いと伝えられている。日本も7月10日頃からは異常な高温が続いているが、何か異常気象というものが東アジアでも確実に起きているようだ。

 この時期の中国・福州では毎年、裸で路上をゆく男性の姿がちらほら見られてくる。夏の風物詩だ。市内各地の街路樹などに多いマンゴーの実が黄色く色付き始め、その実を専用の「果実獲り」の網を使って獲る姿が福建師範大学グランドでも見られた。この実はとても小さなマンゴーの種類だ。アパート近くの樹木の下で、赤ちゃんたちをあやして談笑をするおじいちゃん・おばあさん、そして母親の様子など、異年齢の人達が談笑している様子は微笑ましい。中国ならどこでも見られるで光景だが日本では少なくなった。路上で肉を販売しているまだ年若い女性。

 7月4日(水)のお昼に、閩江大学同僚の鈴木先生の「送別会」が行われた。中国人教員8人、日本人教員3人が参加した。日本語学科の教員全員だ。鈴木節子さんは、娘さんが10月に初めての出産予定、これに対応するため、今回、閩江大学での仕事の継続を一旦断念した経過があった。今後は、福建師範大学国際交流学院の留学生として9月より就学し、日本と中国を行ったり来たりすることとなるようだ。また、大学の教員なんらかのカタチで復帰できる機会があることを私も願っている。学生たちにも慕われている教員だ。

 7月5日(木)の午後5時頃、大学からの帰りに バス停近くの福建師範大学のグランドに立ち寄ってみた。サッカーをしている様子などを見ていたら、突然「先生、先生!」と声をかけられた。2年ぶりに福建師範大学時代の同僚だった「倪(にい)先生」(中国人)と再会した。その日の夕食に誘われたので、午後6時から近くの海鮮料理店に行くこととなった。翌日6日、私のアパートに「福建の白茶」を日本帰国に際してのお土産として持ってきてくれた。また、大量の「ライチ」を送ってもくれた。ライチは日本に持ち帰ることはできないので、閩江大学の同僚たちにも分けて食べてもらった。

 彼女は9月から福建師範大学で「中日文化交流史」という新しい教科を担当することとなったようで、昨日に続いて「日本文化論」「中国文化論」「中日文化交流史論」などに関する講義の進め方などについて相互交流を行った。「近いうちに日本文化論・中国文化論・日中文化交流論に関する本(日本語・中国語併記)を作ってみませんか」との誘いを受けた。彼女の専門は「日本と台湾の交流史」。この7月と10月に、それぞれ東京の大学や京都大学で行われる学会に参加するため来日予定のようだ。

 7月4日、倪先生との会食中に福建師範大学時代の教え子から電話が入った。福建省南平市に在住の趙君からだった。「先生、いつ日本に帰国しますか。お土産に私の地元の名品の天目茶碗を持って帰って下さい」との内容だった。茶碗は福建師範大学の大学院に在籍している李国東君にすぐに送られたようで、8日(日)に福建師範大学外国語学部の建物の前で待ち合わせをして受け取った。

 送ってきてくれた小箱を開封してみたら、立派な天目茶碗など2つが入っていた。なかなか良い茶碗だった。この天目茶碗は、日本の戦国時代に珍重され、銘品は一国に値するとも言われていたものだ。この時代、中国から輸入された天目茶碗は茶道の名物として扱われていた。産地は趙君の故郷だった。(※天目茶碗―黒色の茶碗の中に、宇宙の星々のような文様がみられる茶碗)