来年は20周年を迎える順受の会(論語の会)に、65歳になる「よかにせどん」(鹿児島弁)が入門された。
鹿児島産の松田先生も還暦を過ぎ、生徒のぼくたちも20年年を取り、それぞれが「よる年波」
というものを体感しながら、机を並べて勉強らしきものを続けている。
鹿児島では、いい男のことを「よかにせどん」という。女子は「よかおごじょ」。
いろいろな習い事があるけど、「はじめる時」がその人にとって、大切な「旬」であり、
はやいとかおそいとかいうことはない。人と人が出会う時も、はやいとかおそいとか
ではなく、ちょうどいい加減の時に、出会うようになっているように思う。年を
とると、そのあたりの「必然」とか、好奇心が生まれる時の恋する時みたいな「ときめき」
などが、自分の人生にどうゆう方向性を与えてくれるのかが、予知できたりするようになる。
アラカンの年になると、合うと「健康」の話になる。たぶんその次は「孫」の話に花咲き、
その後は、「あいつが死んだ」とか「葬式」の話になるのだろう。
明後日31日は「ねっと31の会」 ジャズライブ(国貞雅子)をやります。
みそかは、京都では「きらず」(おから料理)を食べる習慣がある。人と人
の縁が、来月もまた続きますように、という縁起だ。どうも鹿児島でもあるらしいし、
そのほかの土地でも残っているらしい。縁を大切にしていると、円になり、この世
とあの世が同じ世界であり、人は死んでも、死なない、ということが理解できるらしい。
昨日の順受の会では、「陰徳を積む」というのがでてきた。人知れず、いいことを
行うことを「陰徳」という。この世で稼いだお金はあの世では使えないけど、「陰徳」
という財産は、あの世でもいき、また次のこの世でも貯まっていて、いつでも引き出せる
そうだ。天恩感謝や。