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茨木市〝郡 山 宿〟を訪ねる

2009-11-09 19:50:39 | 歴 史
夕方より 旧暦9月大23日 太陽暦採用記念日
 
昨日Nテレビで旧〝郡山宿本陣〟が7日から15日まで特別公開されているとのことで訪れた。年2回特別公開される。
 本陣当主が現住しており普段は見ることが出来ない。市の教育委員会の職員がこの期間出向いて公開の世話をしている。
 但し、5人以上のグループで10日前までに事前予約すると見学できる。予約は電話で午前9時から午後5時まで 072-643-4622。月、火、年末年始は休み。
   





 *後日続きを掲載します

10月30日の京都  〝新 島 襄 邸 宅 跡〟

2009-11-02 19:22:03 | 歴 史

時々 木枯らし一号(昨年より16日早い)吹き一転冬の寒さ  旧暦9月大16日
         新島襄邸宅跡(御所の東)

 ↓邸宅を南から見た風景  パノラマ
 


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 御所の南部を散策して
 ↓大木の傍の碑には「鷹司邸跡」とある

 鷹司家について
 鎌倉時代以降、天皇を助けて政務をつかさどる摂政・関白の重職を任ぜられた公家の 近衛家九条家二条家一条家鷹司家 の五家を 「 五摂家 」 ( ごせっけ ) と言い、その1っが鷹司家である。
 鷹司家( たかつかさけ ) は、鎌倉中期に藤原北家嫡流の近衛家実の四男兼平を祖とする公家の名家である。
 文久三年(1863)八月十八日の蛤御門の変の際、鷹司邸は長州藩兵の放火により炎上。炎の中で久坂玄瑞、寺島忠三郎が刺し違えて果てたと言う。
 

 ↓芝生でくつろぐ親子連れ  好天絶好の行楽日和


京都御所内〝拾 翠 亭(しゅうすいてい)〟

2009-10-30 20:22:23 | 歴 史
 日中頗る暑い 旧暦9月大12日 十三夜
〝拾 翠 亭〟を訪ねて   10月30日
 拾翠亭は五摂家のひとつであった九條家の現存する唯一の建物で、江戸後期に建てられたものと伝えられています。[場所は御所の南西]
 建物は全体が数寄屋風書院造りで、当時は主に茶会のための離れとして使用され、内部には今も十畳と三畳のふたつの茶室が残されています。
 亭の前面には東山を借景に取り入れた勾玉形(まがたまがた)の池が広がり、茶室からの景観を一層引き立たせています。
 一般参観日  毎週金・土曜日、葵祭・時代祭・京都御所一般公開日 (12月28日から2月末は休み)
 
参観時間  9:30~15:30   料金は100円
 案外知られてなくて来訪者は少ない。


 ↓入  口


 ↓屋内で北から東を望む   パノラマ


 ↓建物を南東から


 ↓二階から北を望む


 ↓邸内 九条池の中島には「厳島神社」を祀っている

日本最古の電車

2009-10-10 19:22:45 | 歴 史
 旧暦8月小22日 愈々秋深まる
 去る9月19日平安神宮を訪れた際〝神 苑〟に展示されていた「日本最古の電車」を思い出し、後れ馳せながら掲載します。


 この電車を「チンチン電車」と呼んで市民に親しまれていた。1955(昭和30)年頃には、まだこの型の電車は北野線で運行されていたが、これ以外の路面電車も自動車の普及と共に次第に廃止されていった。北野線は北野から堀川沿いを経て京都駅まで走行しており屡々利用した思い出がある。
 現在、京都の路面電車は嵐電[(四条大宮-嵐山)京福電鉄]のみとなった。

70年前の火薬庫爆発(枚方市・禁野)

2009-08-17 21:56:51 | 歴 史

かんかん照りで蒸し暑さなし 旧暦6月小27日
 ↓今日は「アサガオ」最多の8輪、「水草活花」とのコラージュ



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 1896(明治29)年枚方市中宮周辺に陸軍の兵器用火薬や砲弾・弾薬を収納する「禁野(きんや)火薬庫」が完成。1938(昭和13)年にはその東に砲弾や爆弾を製造する「枚方製造所」が設置され国内屈指の一大軍需施設となる。
 「禁野火薬庫」は1909(明治42)爆発を起こすも死者なし。1939(昭和14)年には大爆発が起こり死傷者696人もの大惨事となる。
 その時の写真24枚が市立中央図書館に保管されていることが判明し展示公開されている。(戦時中の軍事機密で埋もれていた)
 同時に「ヒロシマ・ナガサキ原爆パネル展」も行われている(20日まで)。
 ↓枚方市立中央図書館・正面
 
 図書館のあたりから西南にかけての広大な土地が「禁野(きんや)火薬庫」となっていた、幾つかの土塁跡や関連の石碑が残っているが現在は学校、病院、公園、公共施設、店舗、住宅等になつている。

 ↓毎日新聞8月14日夕刊・第一面の記事


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 戦争を知らない子ども達が炎暑を凌ぐために大好きな水遊びに興じている。こんな姿を永遠に続かせねばならない(図書館横の「車塚公園)





あぁ〝敗戦の日〟

2009-08-15 20:15:00 | 歴 史
午後 当たるも八卦当たらぬも天気予報 9月上・中旬の気候 旧暦6月小25日  
 マスコミでは殆が今日は「終戦記念日」と呼んでいるが、正しくは〝敗戦の日〟だ。
 敗戦と記す新聞記者もたまにあるが稀だ。こんな扱いでは、嘗てマスコミが戦争に利用されたように、また権力に利用される虞がある。
 我国の戦争も遠い昔のこととなり、勝者も敗者も分らない若者達が多いのでは???

       京阪百貨店のアフガニスタン写真展

 アフガンは古来アジアとヨーロッパの文明の十字路で幾多の紛争に巻き込まれて来た歴史があるが、近年では1979年のソ連軍の侵攻、1996年タリバン政権の誕生による古い貴重な文化・文明の破壊と不当な支配、2001年9月11日のアメリカへのテロ攻撃を理由にして、10月よりアメリカはタリバン掃討のアフガン戦争を始め戦火は今も収まらない。今後アメリカはイラクに代わりテロ撲滅としてアフガンでの兵力増強を図る方針のようだ。「目には目を」の報復の連鎖では何時になると平和が実現するのか。
 この写真が撮影された頃の人々は平和な暮らしを送っていた。
 戦争の犠牲者は何時も弱者だ、アフガンでは爆撃による無辜の死者、怪我に悩む人々、パン屑に腹を満たす避難民・・・〝
敗戦の日〟に因んで平和に毎日を送ることができることに感謝して、戦争を起こさせないように常に監視しなければならない。

27日見学した〝泉  布  観〟続 き(完)

2009-03-30 21:05:18 | 歴 史
朝方気温低くも日中暖かくなる 旧暦3月小4日

       重要文化財泉 布 観(せんぷかん)

        

 ↓1F正面扉 アーチ窓になつているが、建設当時は四角い欄間であった。


 ↓1F南室 照明器具
 下から見上げると男性の人頭装飾がみられる、ガス灯時代のもの。


 
 ↓1F廊下 照明器具
 ガス灯時代のもの、電灯に変わった現在も使用している。PATENT ROTHERHAM(パテント ロッテルダム)の銘があり、広い地域から建築資材を取り寄せていたことが分る。



 ↓暖  炉


 ↓1F南室の大鏡


 ↓1F南室
 一番広い部屋、食堂としても使われた。部屋の柱は杉材でその上を漆喰塗りで仕上げている。



 ↓2F北西室
 暖炉のまわりには輸入品のタイルが用いられ、床の市松模様はペンキで描いたもので、タイルが高価であった当時、タイルへの憧れをあらわしたものと言われている。


 ↓2F北東室
 玉座の間にあてられた部屋。


 ↓ヴェランダ
 柱は全て花崗岩製、柱の形態はトスカナ式と呼ばれる。




        向うに見える橋は「桜宮橋(銀 橋)」
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 旧桜宮公会堂 
 泉布観の直ぐ北に建っている。




泉布観の見学

2009-03-27 20:35:30 | 歴 史
時々 風稍々強く寒い 旧暦3月小朔 
 泉布観(せんぷかん・泉布は貨幣、観は館を意味する)、年一度公開されるので見学に行く。公開は29日までの3日間。場所は大阪造幣局の道を隔てた北側である。
 詳細は後日紹介したい
   


 ↑正   面

 ↑説  明  板

 ↑大勢の見学者で行列が

敗戦の日〝団子汁〟の思い出

2008-08-15 20:19:25 | 歴 史

一時 旧暦7月大15日 敗戦の日
 巡り巡って63年今日は我国が太平洋戦争で敗れた日である。
 「終戦記念日」と呼ぶ向きもあるが、それでは嘗ての無謀な戦争に対する反省の意味が全く欠落している。
 310万の戦争犠牲者と英霊に、また諸外国とりわけ莫大な数の無辜のアジアの方々の犠牲者に対し哀悼の誠を捧げます。
 下の写真は当時を偲んで、当時とそっくりそのままの製法で南瓜の団子汁を作ってみた、甘味料は一切入っていない、塩味だけだが南瓜の素朴な甘さが味わえて結構美味だった。
 恐らく今の贅沢な食生活を思えばとても、このままでは不味くて食べられないだろうと甘い餡も用意していたがその必要は全く無かった。
 戦時中や戦争直後は来る日も来る日も南瓜その葉、ナス、キュウリ、サツマイモその蔓・葉、ジャガイモ、虫食いのキャベツ・白菜・春菊、玉葱等が食卓に上り、イナゴや蚕の蛹、食用蛙、兎等々も食べた。幸い海辺に住んでいたので各種魚か食べられたのは有難かった。
 飯は麦が殆ど、大豆や高粱が入っていたがそれでも食えれば良いほうだった。戦後何年かして白米が食べられると「銀シャリ」と呼んで、こんなに美味い飯があるのかとつくづく思ったものだ。
 あの頃の惨めで哀れで戦戦兢兢として毎日を送っていた日々を思い出すと、今では何かに付け贅沢になってしまって、勿体無い勿体無い。
 あと何年かすると、こんな食べ物も食べられなくなる時代が来そうな予感がする、「食 料」「資 源」を巡る戦争が各地で頻発し、世界戦争にまで発展するのではと杞憂する。杞憂に終わって欲しい。


太秦高塚古墳

2006-05-22 18:23:07 | 歴 史
暑い1日だつた      旧暦4月小25日
  太秦高塚古墳 参照 5世紀末に造られたらしい。[写真は想定復元されたもの]
 当地には太秦、秦、川勝の地名があり、また秦河勝の墓も自宅直ぐ近くにあり、古代には多数の渡来人が住んでいたことを窺わせる。
 

             
               古墳に隣接して「大阪市水道局 豊野浄水場」がある