一時
夕方
旧暦7月小朔
上の写真の屋根の上に見えるのが下の写真で「宝形」または「方形」と言い寺の形をしている
階下10畳、床は無いが向かいの壁の上、横に見える竹で上座であると分かるらしい
*次回、ここにある孝允の子息・忠太郎が蒐集した「達磨堂」を紹介します
時々
旧暦5月小8日
[最近気になる言葉]
言葉は時代と共に変化するものだろうが、最近気になる言葉が枚挙に遑がない。
先日Nテレビ(嘗ての名アナウンサー宮田輝さんはテレビは駄目テレビジョンと正しく言えと言ったとか)料理番組の講師が「葱を切ってあげて下さい」「肉を焼いてあげて下さい」と言っていたがどことなく奇妙な表現で違和感を覚える。
国語学者も三代目になると〝曲学阿世〟「鳥肌が立つ」と本来の意味でなく遣う運動選手などがいるが、それでも良いと肯定する、国語学者ならそれは遣い方が正しくありませんよと教えてやるべきだ、知らないのだから。
みんなと言う言葉も安易に遣うがおかしい時が多々ある、Nテレビの女性アナで正しく遣っていた人がいて感心した。
そんなこんなで言葉遣いが乱れてきている。
大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区本町1ー4ー5 大阪産業創造館B1) で7~11日まで入場無料(通常大人300円)で見学できる。 ここは大阪商工会議所傘下の施設らしい。
主として明治時代以降、大阪で活躍した実業家の業績をパネルをもとに諸資料を添えて展示している。
終日一時
旧暦4月大9日
「朱雀門」(北より撮影) 古代と現代(近鉄電車)が交錯して↓
復元された「遣唐使船」 竹製の帆が見える
一時
夏日 旧暦4月大7日
東院庭園は現代の「迎賓館」に相当する
中央建物
平橋とその向こうの露台
「反 橋」
手前は「東北の建物」
東南の「隅 楼」 柱は正八角形
*続く
この所夏日が続く 旧暦4月大7日
発掘調査で見つかった遺構をそのまま展示している
内裏や役所の復元模型も展示されている
井戸の遺構
*続く

昨年も記したが、マスコミでは殆が今日は「終戦記念日」と呼んでいるが、正しくは�敗戦の日�だ。
1945年9月2日東京湾に停泊するミズリー号船上で、敗戦を認める降伏文書の調印式に外務大臣・重光葵が全権任命され調印された。
正式には9月2日をもつて戦争は終結した、つまり戦争に負けて降参したのだ。
敗戦と記す新聞記者もたまにあるが稀だ。こんな扱いでは、嘗てマスコミが戦争に利用されたように、また権力に利用される虞がある。
近年の動きをみていると何か「きな臭い」臭いがする、某政党の首相二世でマスコミに騒がれている戦争知らずの政治屋は靖国神社に行くと言う。
戦争知らない若者に与える影響を危惧する。何時も支配者は後方でハツパをかける。
A級戦犯が靖国神社にいなければ、国民こぞって靖国神社に詣でたい。
嘗て天皇を利用した時の支配者に洗脳された多くの若者が尊い命を失ったことは痛恨の極みだ。
アジア・太平洋戦争を省みるために是非、吉村昭の「零式戦闘機」(新潮文庫・平成22年6月48刷)を読んで欲しい、日中戦争から敗戦までの経過が良く分る。
1939年頃から製作が始められ実用化されたた零式戦闘機は敗戦の頃まで世界に類を見ない最高の戦闘機だつたと言う。
製作開始から敗戦まで名古屋で作られ分割された部品が各務ヶ原の飛行場まで牛車や馬車で48キロの道を凡そ24時間かけてを運ばれた。
平安時代ではない、これだけとって見ても物量に勝るアメリカに勝てる訳がない。

戦争で尊い命を犠牲にされた英霊に対し衷心より哀悼の意を捧げます

戦時中はこれに似た光景で夜空を染めて爆弾が降り注いだ、こんな花火を楽しめる平和な世界を永遠に



今日は65年前にアジア・太平洋戦争の最後となった沖縄の組織的な戦闘が民間人を巻き込み多大な犠牲を払い終わった日に当たり「沖縄慰霊の日」とされている。
現在「平和の礎」に刻名されているのは240,931名に上る。戦争は二度と起こさないことを誓い御冥福をお祈りします。
沖縄は戦前・戦中は特に差別され、蔑視され、行政からも棄てられてきて「刑務所はあつても鉄道や病院は無い」と言われた。
また本土では「朝鮮人、沖縄人、お断り」と書かれた貸家札が見かけられたと言う、戦後も日本の基地の約75%が沖縄に集中し沖縄の面積の17%に上ると言う。
今、特に沖縄の基地問題が喧しいが沖縄の犠牲のもとに基地問題を押し付け続けることを止めて問題の解決に国・国民こぞって知恵を絞る時を迎えていのではなかろうか。
〝黒南風(くろはえ)の 雲の切れ間に 薄日射す〟


〝郡 山 宿〟で見かけた珍しいもの
↓「早 駕 籠」

↓「関 札」 2枚あるのは1枚は表に、1枚は室内に掲げる


↓昭和15年頃に枯れた椿 ↑古椿の説明

↓右の「秤」は元禄時代のもの

↓大玄関の「槍」 到着した客はここに槍を収める

↓「宿 帳」 赤穂・淺野の字が見える

↓「十手、手かせ、足かせ」

↓「小田原提灯」

↓御成門入って左直ぐの2代目「五色の椿」

椿の鉢植が多数あり赤く色づいた蕾も見られた(左下)


〝郡 山 宿 本 陣〟室 内 風 景

↓手前は「継 の 間」 奥に「中の間」「出の口」「駕籠の間」「元帳場」と表の方に続く

↓左は 「上 段 の 間」 右下は「継 の 間」

↓「上 段 の 間」 奥に見えるのは「和 時 計」

↓「和 時 計」2っ振り子が

↓「湯 殿」板の間に湯舟が据えられる、湯舟は道中持運ばれる。、脱着衣は畳の場所で

↓部屋に吊るされている「駕 籠」 昔、当主が利用した

*続きは後日また掲載します


↓西国街道に沿って〝郡 山 宿〟模型(ガラスケース入)

↓〝郡 山 宿〟本陣の模型(ガラスケース入) 左下斜めの道が「西国街道」

↓西国街道に面した表の風景

↓「御 成 門」屋敷西の正門、大名などが宿泊する時には家紋入の幔幕と提灯を飾った。今も提灯掛などの金具が残っている。

↓「カ マ ヤ」 台所

↓「納 屋」嘗ては「厩・うまや」としても使われていたらしい、ここはいろいろな物の展示室にもなつている

↓「米 蔵」

↓「茶 室」 参勤交代で屡々宿泊した丸亀藩主「京極能登守」から拝領したと言う

*続きを後日掲載します