日中暑いものの漸く朝晩は気温が下がり随分凌ぎやすくなる
その後現在地、寝屋川市に1978年4月に転居、前住まいが立地条件、住み心地
共に良く転居の意思は無かったが現地の直ぐ側に妹夫妻が居て直ぐ側の会社勤
めの人が急遽転勤となり家を売却したいとのこと、仲介人が入らないので比較的安
く購入できるのと身内が近くに居るのは何かと好都合なので買うことにした。
浜甲子園団地は長年住んでいて、特に妻は多くの知人もできて後ろ髪引かれる
思いで涙涙の別れとなった。
狭い家なので風呂も狭いが我家となると愛着が湧くものだ。
悪文最後までお読み戴き有難うございました。
まだまだ暑いが少しずつ秋の気配が見えて来ました
1962年秋頃だったと思う、この頃方々で公団住宅が建設されていた、
近くは尼崎の西武庫団地、西宮の浜甲子園団地などがあった。
入居は審査が厳しく所得が一定基準を満たさねば入居資格がなか
った。しかも当時は公団住宅の入居者は団地族と呼ばれ一種のエリー
ト感があった。
サラリーマンなどに大変人気があり希望者が殺到して数十倍の競争
率で抽選で当たるのは至難であった。1番競争率の低い1DKに数回応
募して補欠で当たり、梅田にあった公団事務所に手続きに行った、僅
かに所得が基準以下であったがベースアップを見込んでくれて入居決
定、嬉しかったのが忘れ難い。
当たった浜甲子園団地は阪神甲子園駅に近く当時は路面電車の停
留所が自宅から徒歩2~3分の所にあり、阪神甲子園駅に通じまた阪神
甲子園駅は神戸、大阪への中間にあり頗る便利であった。
また団地の中には今で言うスーパーマーケットがあり周辺にも店が出来
ており生活し易かった、また甲子園浜が直ぐ近く抜群の自然環境だった。
入居して真っ更の木の香りのする浴槽に浸かった時最高の至福を感じ
たものである。
*続 く
相変わらず猛暑
1962(昭和37)年4月、勤務の都合で尼崎市・大庄地区の某アパートに
とりあえず転居、6畳一間のみすぼらしい部屋での生活が始まる。部屋
は二階にあり夏になると屋根が焼け暑さに辟易とした、近くの電気屋で
扇風機を買って暑さを凌いだが、当時はそれで天国の様に感じた、そ
れを思えば今のクーラーのある生活は誠に贅沢なものだ。
直ぐ側に銭湯があったのは幸いだった。
*続 く
1959(昭和34)年頃の事は不思議と記憶が曖昧である、勤務先の宿舎の風呂
は何軒かの共同の五右衛門風呂だったが、今では考えられない誠にお粗末な
もの、当時独り者だったので風呂に入れてもらうのに気が引けた。何故なら
追い焚きをして貰う必要があがったから。
1961(昭和36)年暮れに結婚、宿舎を出て田舎町の粗末ながら新築の一軒家
に居を構えた、生憎風呂はなかった。
そこからで歩いて10分ほど神戸電鉄の小さな駅近くの薄暗い銭湯に2人し
て通った、唄にある「神田川」の様に風呂出口で待ち合わせて電車の線路沿
いをトボトボと歩いて帰ったのも想い出の一つである。
*続 く
1954(昭和29)年、高校卒業後、大学進学のため上洛。
銭湯での忘れ難い想い出がある。
当時内湯は殆どの家庭にはなくて銭湯の全盛時代で時間
によっては芋を洗うような混雑だった。
入口を入ると脱いだ衣服を入れる竹製の40センチくらいの
楕円形の籠がさっと出される、衣服を篭に入れると風呂屋の
女性従業員が、それをさっと衣服収納棚に持って行ってくれ
る。
風呂をあがってくると棚からそれぞれの浴客の着衣籠を間
違いなく出して来てくれるのは正に神技である。
所がそこは人間間違えることがあった、一緒に行った友達
の籠を間違えた、その友達は出された籠に入っているパンツ
を迷い無く履いていたら、或客が自分のが間違っていると騒
ぎだして事の次第が判明、今思い出しても吹き出しそうだ。
当時銭湯は夕飯後頃から混雑するので仕舞風呂になる頃
を目がけて出掛けたものだ。
*続 く
今夏は猛暑が長らく続いたが、統計を取り始めてから最も高温だったと言う
その後かなり時が経過するが父の郡是退職で故郷に近い福知山市に中学3年
の時転居した。福知山市は盆地で夏は暑く、冬は時には雪が30―40センチも
積もり頗る寒い,そんな中雪掻きをすると汗を流すほどだ。
近くに銭湯はなく風呂を沸かすのにも難儀した。
その訳は風呂は五右衛門風呂(鉄製の大きな釜で入る時は円形の板を体重で沈
めて入る)で当時は水を張るのもバケツで何杯も何杯も、三和土(たたき・土間)
にある台所の水道の蛇口から運んだ。
そのうち軈て蛇口からゴムホースで水張りが出来るようにして頗る楽になっ
た。今では考えられない。
更に難儀なのは焚き口が吹き曝しの外部にあり、特に夜遅く後から入る人の
追い焚きの時などは寒さに閉口したものだ。
下図(ネット記載より参照)五右衛門風呂のイメージ
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