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我〝風 呂 物 語〟そのⅤ

2023-08-30 17:40:07 | 歴 史


 国民学校半ばになると、さすが女風呂に入るのが気恥ずかしくなった
のだろう、5歳上の兄と会社の男風呂に行くようになった。
 男風呂は女子風呂に比べ男子社員は少ないのでタイル貼の1据しかない、
早い時間に行くことが多く大概空いている、たまに夜7時頃に行くと稍、
混み合っている。湯船にはタオルを浸けないようにとの木札が給湯口の
カランに括り付けてある。ある時工員さんがタオルを浸けていたら兄貴
が木札を外してその人の前に札を浮かせた、「小憎らしい坊主」だと思
ったことだろう。
 九州の北部だが周防灘に面した田舎町、冬場は寒さが結構厳しい時があ
り風呂帰り濡れたタオルが凍る時があった。

 自宅に木製の風呂桶を何処から調達して来たのか設置していたこともあ
ったが沸かすのが面倒なせいか殆ど沸かしていた記憶がない。

風呂桶 [ネット記載より参照]
こんな感じの風呂桶ですがそっくりな桶が見付かりません。
これより稍々大型で手前が焚口、奥には煙突が付いていた。

*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅣ

2023-08-29 14:07:24 | 歴 史


  国民学校(現・小学校)低学年の頃父の勤務先の社宅に転宅して
いたので母に連れられ会社の風呂に行っていた。
会社は製糸会社なで大勢の男女工員さんが働いていて、女性の風
呂場は広くタイル製の大きな湯船が三箇所ほどあり蛇口を捻ると熱い
湯が何時でも出た。
  これは繭から糸をひく際、繭を茹でるので絶えず繰糸場に湯が送ら
れる必要があり工場内のボイラー室でボイラーが焚かれていて、そこ
から風呂場にも熱い湯が送られるようになっていた。
 国民学校低学年の頃は母と会社の女風呂に入っていた。
その頃の記憶では百数えるまで湯につかることを命じられた、その間
は案外長いように感じた。

*続  く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅢ

2023-08-26 15:23:56 | 歴 史

  
その後父の転勤で1937(昭和12)年2月兵庫県江原へ、ここでの風呂の記憶は皆無
1939(昭和14)年8月福岡県築上郡八屋町宇島(現・豊前市)へ、まだ5歳の頃でうろ
覚えだが自宅近くの銭湯に母に連れられて行ったようだ、風呂は薄暗く湯気に包ま
れていた光景を想い出すが湯船はどんなだったか等、細かい記憶はない。

宇島は田舎町で菊池寛〝恩讐の彼方に〟の「青の洞門」で有名な山国川で大分県と
当地、福岡県が分岐している。
大分県側は隣町・中津市で福沢諭吉の生家が残されていて兄に連れられて訪ねた思
い出ががある。
また、その頃は中津市から軽便鉄道が青の洞門がある耶馬溪まで通じていて、それ
で両親と訪ねたことがあり長閑な時代だった。
今は軽便鉄道は無くなりバスが通じている。約20年前に路線バスで中津から耶馬溪
経由で日田を訪ねたことがある。
*続 く

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〝超絶技巧、未来へ!〟あべのハルカス美術館

2023-08-23 23:25:49 | 芸 術

処暑とは言え灼熱地獄 
またまた飛び入りしました  我〝風 呂 物 語〟
次回から掲載します。

 足腰不調な上に、この暑い盛りは戸外の活動は無理、そこで好奇心と涼みがてらこの展覧会に出かけることにした。



 入口の大きな広告

写真撮影が許可されているのは極く一部でした
 木彫です、焼いたら美味しそう

 これも木彫

 木彫

 水滴に憩う蝶 立体木像

 真夜中に咲く月下美人 木と鹿角でできた花

 金工  銅、銀メッキ、七宝、墨

 銀製 梱包材

 切 り 絵

 
↓上の作品の説明文
 

鑑賞後の昼食
 刺身はふぐ刺し 是に最後デザートがついて2,500円

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我〝風 呂 物 語〟そのⅡ

2023-08-21 21:05:36 | 歴 史

連続の猛暑
〝風 呂 物 語〟にかかわってくるので途中になるが父親の若干の来し方に触れたい。
父は明治30(1897)年京都府何鹿郡(いかるがぐん)佐賀村私市(きさいち)[現・綾部市]で生まれる。
大正7年(1918)年当時は地方の1寒村に過ぎなかった何鹿郡(現・綾部市)に波多野鶴吉が明治19年
(1886)
に興こした製糸会社「郡是製絲株式會社」(現・グンゼ)に入社。

波多野の起業理念は何鹿郡発展のために農家に養蚕を奨励することが郡の急務で、「郡是」である
と考えたのです。これが蚕糸(さんし)業の振興を目的とする「郡是製絲株式會社」の社名の由来です。
その後昭和4(1929)年新設の益田(島根県)工場に転勤、昭和8(1933)年我が生誕の倉吉(鳥取県)
工場へ、昭和12(1937)年江原工場(兵庫県)、昭和14(1939)年宇島工場・福岡県築上郡(現・豊前市)
に転勤。昭和24(1949)年退職して故郷の隣町福知山市に転居

*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅠ

2023-08-19 16:00:38 | 歴 史

当地では熱帯夜が4週間連続して寝苦しい夜が続く
 昼は昼で殆ど真夏日の酷暑炎暑。
 暑さと足腰の不調で少し脚を伸ばして出掛けることもままな
らず、ブログ更新の材料にもこと欠き写真の掲載が出来ず
つまらぬ記事だが標記のテーマで載せることにした。
 
 産まれたのは、19**(昭和*)年**月25日午後10時40分
 鳥取県東伯郡倉吉町大字新町3丁目1916番地(現・倉吉市)
産湯が謂ば最初の入浴であろうか、産婆さんは最初女の子と
言ったそうだが、暫くして間違っていたチンチンが付いています
男の子ですと訂正したそうだ。
 三島由紀夫は産湯は赤かったと言っていたそうだが、凡人の
自分は産声を発したのも産湯につかったことすらさらさら覚え
がない。

*続 く

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夏の花々

2023-08-04 22:26:24 | 

猛暑 将に融金焦土の毎日、来週にはこの暑さも僅かに衰えそうです。  
 炎暑の連続と足腰が衰えたのとで遠距離・長時間の外出が困難になり材料不足で当ブログの更新もまま成りません。
 最近近所で撮りだめた花々を載せましたが、平板で面白さがありません。

マリーゴールド 
 我家に咲けるアサガオ

 オシロイバナ

 ヒメイワダレソウ 夏だけの花ではないようだ

 夏の象徴 ヒマワリ

 タチアオイ

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