16時時頃から約1時間の集中豪雨雨上がり地面の照り返しで蒸し暑い
打上川治水緑地を散歩すると白鷺の群れを発見
スマホ撮影なので不鮮明
池にも映り分かりづらいが9羽いる、この辺に巣があった筈で子サギも居そう
離れサギか?
夕方の雨上がり茜雲
↓↑市のマスコット「鉢かづき」ちゃんが説明板を持っています
↓説明がありませんが、これが樋の名残でしょうか???
国松町は、近世には讃良郡(ささらこおり)国松村とよばれていました。この地の悪水は、寝屋川と南前川の合流地点付近で寝屋川に流れていました。しかし、寝屋川の川床が上流からの土砂でだんだん高くなるに従って悪水の排水が悪くなり、大雨があると領内に逆流して田んぼや畑が冠水してしまうという状態でした。
かつては「国松のやきどうふ」という言葉があり、日照りが続くと田は焼け、雨が続けば悪水が停滞し水浸しになっていたといわれます。
江戸時代中ごろ、国松村は幕府の直轄地で近江信楽(おうみしがらき)代官の支配下にありました。当時役人であった千種庄右衛門は、国松の人々の苦しみをみかねて享保(きょうほう)9年(1724)寝屋川の川床をくぐる伏越樋(ふせこしひ)を設けて、友呂岐悪水路(ともろぎあくすいろ)に水を落とすことに成功しました。
しかし、用水・悪水などの関係の複雑さから隣村の三井村との紛争が絶えませんでした。千種庄右衛門は、その責任をとって自害したと伝えられています。
[寝屋川市HPより引用]
碑のある場所は先日の向日葵畑の直ぐ西側です
日中は猛暑でとてもじゃないが戸外に出るのは無理、夕方日が西に傾いた頃から散歩旁々出かけた近くの向日葵畑
7月12日のほぼ満開時の写真は下をクリックしてご覧下さい
その後の〝向日葵〟満開に
枯れ果てて哀れを留めますが手入れはされて、雑草は殆ど見られません
咲き終わった花には所々網やナイロン袋が掛けられ鳥の害を防いでいます
満開の頃から鳩などが種を突いて荒らします
種を収穫し来年以降に備えるようで 将に植物の世界の輪廻転生です
この後は確かコスモス畑に生まれ変わる筈です
猛暑
暦などには「終戦記念日」「終戦の日」の表示を見かけるが、所謂単に戦争が終わった日と捉えると、満州事変から始まり、日中戦争、太平洋戦争を知らない世代の人々には日本が戦争に負けたんだと認識出来ない、時の戦争指導者特に所謂A級戦犯達が中心となり始めた戦争で多くの無辜の犠牲者を出して負けたことを伝えねばならない。
戦禍の犠牲となられた英霊に菊花を捧げ御霊よ安らかにお休み下さいとお祈りします。
この日にA級戦犯も祭られている靖国神社に参拝する政治屋には憤りを感じている。
天皇が靖国神社に参拝せず「全国戦没者追悼式」に参列している意味を理解すべきだ。
世界に戦争が無くならないのは戦争で金儲けがしたい政治屋や死の商人達とその同調者がいるからだ。
気温高く猛暑日に近いが空はどんよりとしていた
〝大空を 独り占めする 夾竹桃 〟(愚作)
先日「秦河勝の墓」に触れたので昔取り上げた写真を再掲する
秦河勝は秦氏の長で聖徳太子を補佐して6~7世紀に活躍、京都・太秦に「広隆寺」を建立
この墓は自宅から徒歩数分の丘陵地にある。嘗てはこの一帯は竹薮であったが宅地開発で住宅が建ち並び墓も肩身をせまくして佇んでいる。初めての人には所在が分かりづらい。
墓域は精々約6~7メートル四方
真夏日
遷宮は珍しい行事ではなかろうか、自宅から徒歩約15分の所にある「式内細屋神社」がその近くの八幡神社に移転することになって工事が始まる。
「式内細屋神社」は神社と言うより「祠」と言える小さな社である。田や畑の中の小さな杜のなかにひっそりと鎮座していた、所が経緯は分からぬが周辺が開発されて商業施設や住宅が造成されるらしい。
「式内細屋神社」は平安時代に編纂された『延喜式(えんぎしき)』に記載されている伝統のある社で当時の渡来人「秦氏」とのゆかりがあるのではと言われる。
因みに所在地 は大阪府寝屋川市太秦桜が丘26-1 で、また近くには「秦河勝」の墓があり「秦」「太秦」の地名が今も散見される。[寝屋川市のHPなど参考にする]
奥のこんもりした杜の中
祠
自然が破壊され歴史的文化的遺産が商業主義の為に犠牲になるのは如何なものか?
神社仏閣が破壊されることは無いと言われていて[居]を構えるにも普通立ち退きなど考えられないとして、その近辺を選んだものである。
↓移転先の[八幡神社]も小さな神社
↓八幡神社の本殿
↑↓ビニールシートが掛かっている所に移転