日中は温暖だが朝晩は肌寒い 空はあくまでも青く僅かに山の上をそうようにうつすらと雲がたなびいているが、所謂雲らしい雲は見当たらない快晴である、この青が良い
彼方に生駒山を望み遊園地の幾つかの塔が見える
好天に恵まれ、子ども達は遠足、大人達は楽しみに訪れて賑わっていることだろうと想像しながら何時もの河原を散歩した
西陣美術織で再現された伊藤若冲の復元作品 『動植綵絵どうしょくさいえ』
縦横数千~万に及ぶ糸で編み込まれている見事な作品です
伊藤若冲は江戸時代の画家
1716年(正徳6年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという[4]。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常あるいは月海元照(売茶翁)[5]から与えられたと推定される居士号[6]であり、『老子』45章の「大盈若沖(沖は「虚しい、空っぽ」の意、冲は沖の俗字)」[7]から採られた。意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る[8]。ただし、後世に作り変えられた話だと考えられる[9]。
『ウィキペディア(Wikipedia)引用参照』
夏日に近い暑さ動くと汗ばむ
↑赤、緑、空の青、白い雲 コントラストが良い 近くの寝屋川沿い
↑紫 蘭 ???
↑↑弱草藤(なよくさふじ) なよどころか繁殖力頗る強い 近くの寝屋川河川敷
今年は良く花をつけたサツキ
↑サクラの頃を振り返り 成田公園三ツ池の水鏡がお気に入りです