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我〝風 呂 物 語〟そのⅪ 《完》

2023-09-25 16:33:23 | 歴 史

日中暑いものの漸く朝晩は気温が下がり随分凌ぎやすくなる
 その後現在地、寝屋川市に1978年4月に転居、前住まいが立地条件、住み心地
共に良く転居の意思は無かったが現地の直ぐ側に妹夫妻が居て直ぐ側の会社勤
めの
人が急遽転勤となり家を売却したいとのこと、仲介人が入らないので比較的安
く購
入できるのと身内が近くに居るのは何かと好都合なので買うことにした。
 浜甲子園団地は長年住んでいて、特に妻は多くの知人もできて後ろ髪引かれる
思いで涙涙の別れとなった。
 狭い家なので風呂も狭いが我家となると愛着が湧くものだ
    悪文最後までお読み戴き有難うございました

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我〝風 呂 物 語〟そのⅩ

2023-09-21 16:21:11 | 歴 史

まだまだ暑いが少しずつ秋の気配が見えて来ました 
 1962年秋頃だったと思う、この頃方々で公団住宅が建設されていた、
 近くは尼崎の西武庫団地、西宮の浜甲子園団地などがあった。
 入居は審査が厳しく所得が一定基準を満たさねば入居資格がなか
った。しかも当時は公団住宅の入居者は団地族と呼ばれ一種のエリー
ト感があった。
 サラリーマンなどに大変人気があり希望者が殺到して数十倍の競争
率で抽選で当たるのは至難であった。1番競争率の低い1DKに数回応
募して補欠で当たり、梅田にあった公団事務所に手続きに行った、僅
かに所得が基準以下であったがベースアップを見込んでくれて入居決
定、嬉しかったのが忘れ難い。
 当たった浜甲子園団地は阪神甲子園駅に近く当時は路面電車の停
留所が自宅から徒歩2~3分の所にあり、阪神甲子園駅に通じまた阪神
甲子園駅は神戸、大阪への中間にあり頗る便利であった。
 また団地の中には今で言うスーパーマーケットがあり周辺にも店が出来
ており生活し易かった、また甲子園浜が直ぐ近く抜群の自然環境だった。
 入居して真っ更の木の香りのする浴槽に浸かった時最高の至福を感じ
たものである。
*続 く 

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我〝風 呂 物 語〟そのⅨ  

2023-09-14 23:37:02 | 歴 史

相変わらず猛暑
1962(昭和37)年4月、勤務の都合で尼崎市・大庄地区の某アパートに
とりあえず転居、6畳一間のみすぼらしい部屋での生活が始まる。部屋
は二階にあり夏になると屋根が焼け暑さに辟易とした、近くの電気屋で
扇風機を買って暑さを凌いだが、当時はそれで天国の様に感じた、そ
れを思えば今のクーラーのある生活は誠に贅沢なものだ。

 直ぐ側に銭湯があったのは幸いだった。
*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅧ

2023-09-13 15:09:42 | 歴 史



 1959(昭和34)年頃の事は不思議と記憶が曖昧である、勤務先の宿舎の風呂
は何軒かの共同の五右衛門風呂だったが、今では考えられない誠にお粗末な
もの、当時独り者だったので風呂に入れてもらうのに気が引けた。何故なら
追い焚きをして貰う必要があがったから。
 1961(昭和36)年暮れに結婚、宿舎を出て田舎町の粗末ながら新築の一軒家
に居を構えた、
生憎風呂はなかった。
 そこからで歩いて10分ほど神戸電鉄の小さな駅近くの薄暗い銭湯に2人し
通った、唄にある「神田川」の様に風呂出口で待ち合わせて電車の線路沿
いを
トボトボと歩いて帰ったのも想い出の一つである。


*続 く    

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我〝風 呂 物 語〟そのⅦ

2023-09-11 16:23:04 | 歴 史


 1954(昭和29)年、高校卒業後、大学進学のため上洛。
 銭湯での忘れ難い想い出がある。
 当時内湯は殆どの家庭にはなくて銭湯の全盛時代で時間
よっては芋を洗うような混雑だった。

 入口を入ると脱いだ衣服を入れる竹製の40センチくらいの
楕円形の籠がさっと出される、衣服を篭に入れると風呂屋の
女性従業員が、それをさっと衣服収納棚に持っ
て行ってくれ
る。

 風呂をあがってくると棚からそれぞれの浴客の着衣籠を間
違いなく出して来てくれるのは正に神技である。
 所がそこは人間間違えることがあった、一緒に行った友達
の籠を間違えた、その友達は出された籠に入っているパンツ
を迷い無く履いていたら、或客が自分のが間違っていると騒
ぎだして事の次第が判明、今思い出しても吹き出しそうだ。

 当時銭湯は夕飯後頃から混雑するので仕舞風呂になる頃
を目がけて
出掛けたものだ。
*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅥ

2023-09-02 22:31:54 | 歴 史

今夏は猛暑が長らく続いたが、統計を取り始めてから最も高温だったと言う

 その後かなり時が経過するが父の郡是退職で故郷に近い福知山市に中学3年
の時転居した。福知山市は盆地で夏は暑く、冬は時には雪が30―40センチも
積もり頗る寒い,そんな中雪掻きをすると汗を流すほどだ。
 近くに銭湯はなく風呂を
沸かすのにも難儀した。
 その訳は風呂は五右衛門風呂(鉄製の大きな釜で入る時は円形の板を体重で沈
めて入る)で当時は水を張るのもバケツで何杯も何杯も、三和土(たたき・土間)
にある台所の水道の蛇口から運んだ。
 そのうち軈て蛇口からゴムホースで水張りが出来るようにして頗る楽になっ
た。今では考えられない。

 更に難儀なのは焚き口が吹き曝しの外部にあり、特に夜遅く後から入る人の
追い焚きの時などは寒さに閉口したものだ。

下図(ネット記載より参照)五右衛門風呂のイメージ

無藝荘3「五右衛門風呂」 - 玉川上水の木漏れ日の下

*続 く

 

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我〝風 呂 物 語〟そのⅤ

2023-08-30 17:40:07 | 歴 史


 国民学校半ばになると、さすが女風呂に入るのが気恥ずかしくなった
のだろう、5歳上の兄と会社の男風呂に行くようになった。
 男風呂は女子風呂に比べ男子社員は少ないのでタイル貼の1据しかない、
早い時間に行くことが多く大概空いている、たまに夜7時頃に行くと稍、
混み合っている。湯船にはタオルを浸けないようにとの木札が給湯口の
カランに括り付けてある。ある時工員さんがタオルを浸けていたら兄貴
が木札を外してその人の前に札を浮かせた、「小憎らしい坊主」だと思
ったことだろう。
 九州の北部だが周防灘に面した田舎町、冬場は寒さが結構厳しい時があ
り風呂帰り濡れたタオルが凍る時があった。

 自宅に木製の風呂桶を何処から調達して来たのか設置していたこともあ
ったが沸かすのが面倒なせいか殆ど沸かしていた記憶がない。

風呂桶 [ネット記載より参照]
こんな感じの風呂桶ですがそっくりな桶が見付かりません。
これより稍々大型で手前が焚口、奥には煙突が付いていた。

*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅣ

2023-08-29 14:07:24 | 歴 史


  国民学校(現・小学校)低学年の頃父の勤務先の社宅に転宅して
いたので母に連れられ会社の風呂に行っていた。
会社は製糸会社なで大勢の男女工員さんが働いていて、女性の風
呂場は広くタイル製の大きな湯船が三箇所ほどあり蛇口を捻ると熱い
湯が何時でも出た。
  これは繭から糸をひく際、繭を茹でるので絶えず繰糸場に湯が送ら
れる必要があり工場内のボイラー室でボイラーが焚かれていて、そこ
から風呂場にも熱い湯が送られるようになっていた。
 国民学校低学年の頃は母と会社の女風呂に入っていた。
その頃の記憶では百数えるまで湯につかることを命じられた、その間
は案外長いように感じた。

*続  く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅢ

2023-08-26 15:23:56 | 歴 史

  
その後父の転勤で1937(昭和12)年2月兵庫県江原へ、ここでの風呂の記憶は皆無
1939(昭和14)年8月福岡県築上郡八屋町宇島(現・豊前市)へ、まだ5歳の頃でうろ
覚えだが自宅近くの銭湯に母に連れられて行ったようだ、風呂は薄暗く湯気に包ま
れていた光景を想い出すが湯船はどんなだったか等、細かい記憶はない。

宇島は田舎町で菊池寛〝恩讐の彼方に〟の「青の洞門」で有名な山国川で大分県と
当地、福岡県が分岐している。
大分県側は隣町・中津市で福沢諭吉の生家が残されていて兄に連れられて訪ねた思
い出ががある。
また、その頃は中津市から軽便鉄道が青の洞門がある耶馬溪まで通じていて、それ
で両親と訪ねたことがあり長閑な時代だった。
今は軽便鉄道は無くなりバスが通じている。約20年前に路線バスで中津から耶馬溪
経由で日田を訪ねたことがある。
*続 く

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我〝風 呂 物 語〟そのⅡ

2023-08-21 21:05:36 | 歴 史

連続の猛暑
〝風 呂 物 語〟にかかわってくるので途中になるが父親の若干の来し方に触れたい。
父は明治30(1897)年京都府何鹿郡(いかるがぐん)佐賀村私市(きさいち)[現・綾部市]で生まれる。
大正7年(1918)年当時は地方の1寒村に過ぎなかった何鹿郡(現・綾部市)に波多野鶴吉が明治19年
(1886)
に興こした製糸会社「郡是製絲株式會社」(現・グンゼ)に入社。

波多野の起業理念は何鹿郡発展のために農家に養蚕を奨励することが郡の急務で、「郡是」である
と考えたのです。これが蚕糸(さんし)業の振興を目的とする「郡是製絲株式會社」の社名の由来です。
その後昭和4(1929)年新設の益田(島根県)工場に転勤、昭和8(1933)年我が生誕の倉吉(鳥取県)
工場へ、昭和12(1937)年江原工場(兵庫県)、昭和14(1939)年宇島工場・福岡県築上郡(現・豊前市)
に転勤。昭和24(1949)年退職して故郷の隣町福知山市に転居

*続 く

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