今夏は記録破りの天変地異や気候異変が世界各地で相次いだ、愈々地球の危機が終焉が迫る思いがする。
この所日中は夏、朝晩は冬1日の内に夏と冬が同居する。夏からいきなり冬が訪れるのは近年常態化している。
これ全て人間の成せる結果か??? まだ咲くヒマワリ
曼珠沙華
9月04日台風21号(チェービー)襲来、未曾有の強烈な台風で最強期は午後1時半頃から3時半頃で2階に居ると家全体が絶え間なく物凄く揺れる、屋根が吹っ飛ぶのではないか、窓が破られるのではと気が気でない。
近所に住んでいる姪は船酔いのように気分が悪くなったと言う。夕方風雨稍おさまり表に出ると、瓦、板切れやベランダのビニール屋根片、木の葉など一杯あたりに散乱している。また2、3軒先きの家から先きの家々は停電している、修理を依頼しても数が多くて早速には修理出来ないと言う。
明けて5日辺りを見渡すと瓦が落ちたりずれている家が其処彼処、近所の神社の大木の枝が数本折れている。
その他電信柱が折れたり、信号機が破損したり、大木が根こそぎ折れたりと被害は多大。
身体生命、家屋も無事であったのがせめてもの幸い、人生初めての貴重な経験をした。
↑↓近くの春日神社
地震に負けるなと凛として咲く〝タチアオイ〟[19日撮影]
18日朝7時58分、まだベットの上に居た時大阪北部でM6.1の地震発生、我が市隣の枚方市付近が震源の模様で震度6強、我が市で震度5強、凄い上下の揺れに驚く。妻はたまたま家の前に出ていたが物凄い地鳴りと地響きがして空を見上げると電線が揺れていたと言う。
家の内部は1F、2F各部屋タンスなど家具の上に置いていた物が落ち額縁などはガラスのわれたものもあり、辺り一面に物や鴨居に溜まった埃などが散乱。
階下の水屋(茶だんす、食器棚)は沢山の食器が観音開きの戸を押し開けて飛び出し多数割れている。
家具や本棚は転倒防止の工作をしていて倒壊を免れ、怪我がなかったのは不幸中の幸いと喜ばなくてはならない。
電気、水道は正常に使えたので有難かったが都市ガスは止まり、大阪ガスの対応は極めて不行届き、且不親切で復旧は午後5時頃になった、これらライフラインの影響も軽微で助かった。
直ぐ向かいの家では水道管が破裂したが夕方には復旧した。
当地では付近に「有馬ー高槻断層帯」や、南北に延びる「生駒断層帯」、「上町断層帯」などが存在しており、最近全国方々で地震が発生しておるので、やがて近い内に地震がやって来るものと心配していたが現実のものとなった。
19日になっても不気味な余震が続く。気象庁や地震学者などは南海トラフ地震についてとやかく言っているが当たるも八卦当たらぬも八卦頼りないこと極まりない、後でとやかく宣(のたま)うがそれは何時ものことで、謂わば誰でも言えることだ。
後片付けに気を取られ家中の惨状を写真に収めることを忘れ、1っの本棚だけ後で撮影したものを掲載する。
自宅二階ベランダより、ブルーシートならぬホワイトシートが見える
一時
旧暦9月大26日
鳥取地震の震源の中心は倉吉市周辺で甚大な被害が出ているとの報道に心を痛めている、特に倉吉市は我・生誕の地でことのほか心が痛がむ。
21日の本震の後今日10月26日までも可成り大規模な余震を含め数百回の地震が起きており不安と不便な毎日をお送りのことですが速やかな終息を祈っています。
1934年10月25日私が生まれた当時父親は郡是製糸倉吉工場に勤めて務めていた。
[以下父の回顧録]
『その年9月21日関西地方を襲った室戸台風は関西を中心に広域に亘る大惨害をもたらし、倉吉町(当時)も町周辺を流れる小鴨川の氾濫と山津波で一夜にして全町泥土と化し、所によっては家の中に泥土の山を築く大惨事となる。
夜半盥の水をぶちあけるような激しい雨音に眼を醒まし様子を見ようと玄関に来て吃驚仰天、戸を開けるまでもなく玄関の履物がプカフプカと浮いているではないか。急ぎ皆を起こし荷物や家財を二階に上げ、畳は台をこしらえてその上に積み重ね、恐ろしく、長い夜を耐えて夜明けを待つ。
勿論、隣家にも行けない、水はもう少しと云うところで床上まで上がらず、雨が小降りになると共に徐々に水位は低くなった。夜が明けてからのことである。
市内は終日泥水に悩まされていた。二、三日して汚水は引いたが各戸とも概ね泥水と泥土が残っている。山津波を受けた付近の家は床上まで泥土に埋まる。テル(母)は次男(私)の産まれる前月である、泥水と泥土の運び出しに狭い床下にもぐりこみ激しい作業に数日を費やした、その重労働は今も忘れない』
嘗てはこんな被害もあったが、風光明媚な素晴らしい地で、回顧録ではこんな記事も見当たる。
『倉吉付近は温泉が多い。ラジウム含有量東洋一との宣伝を掲げる三朝温泉は約四キロ米に亘る。・・・温泉は三朝の他関金、松崎、東郷、浅津(あそづ)等三、五キロ米の地域に 澤山(たくさん)ある。中でも東郷温泉は鉄道沿線で便利がよく浅津温泉は東郷湖の大きい湖の中に家を造った湖上温泉、入浴し乍四方が眺められ其の長閑(のどか)さは何とも云えぬ風情である。この楼閣を望湖楼と呼んでいた』
父はここ倉吉工場は4年で転勤になった、天才三島由紀夫は生まれた時の産湯は赤かったと言っているとか、凡凡才の自分はここに4歳までいたことになるが全く当時の記憶はない、1日も早い復旧・復興を願ってやまない。
生誕の地、倉吉を2009年01月20日訪た時の写真を再掲する。
↑↓〝倉 吉 グ ン ゼ〟
生まれたのは、この近くである
門や事務所の建物は昔のままとタクシー運転手に聞いていたので、そのことを若い女性事務員2人に尋ねるも詳しくは知らない。
1934年9月の室戸台風の影響で近くの川が氾濫し大洪水が起こったことを話すと全く知らず吃驚していた。灯台下暗し。
旧暦正月大8日 温水プールで一泳ぎ 更新材料がないのでベタな記事に
春はまだ遠し、昨日は最高気温20℃強で汗ばむほどだったが今日は7℃、この所冬と夏が交互にやって来るかのような気候だ
プールで一泳ぎすると寒さは吹っ飛ぶ
13:00頃プールのある建物6Fからスマホで撮影 ずっと奥の方は枚方市 雲が多いが明るい
各地で猛暑日 所により体温・平熱を上回る猛暑 旧暦5月大29日
何年か振りに近所で虹を見た、近隣の街で一時的な集中豪雨があった模様
iPsdで撮影18:05
携帯電話で撮影 18:08
時々
旧暦8月大15日 朝晩気温下がり凌ぎやすくなる
月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月(詠み人しらず)
名月や池をめくりてよもすから(芭 蕉)
今夏はアサガオの咲きが頗る芳しからず、歪な花が多かった
後
旧暦6月大27日
入居して35年初めて、あわや浸水危機一髪、家は稍々高所にあり浸水の心配は全くなかったが1時間に約100ミリの豪雨に側溝の水が排水できず家の前は池のように水浸し。
本市を流れる寝屋川の氾濫は無かったがようだが、市内の低地では近所を含め随所で浸水被害が見られた。
最近、異状な自然現象や災害が世界的に発生しているが、これは人間のし放題の自然破壊の付けが回ってきていて自業自得と言わねばならない。最早こんな現象は異状ではなく普通のことと理解する必要がある、後世の人類に申し訳がない。
そんな意味では節電結構、原発も自然破壊や人類破滅の代物だ、原発立地の住民や自治体にとっては「命を取るか生活を取るか」が問われ、住民には電力会社や国のアメは手放せない、かくて我々も一蓮托生だ。野田総理は「わたしが責任を取る」と言って大飯原発を稼動させたが、どんな「責任を取る」のだろう、多分次ぎに事故が起きる頃は自分は居ないと思っている野田やろう。
下の写真左は当日14日(9時頃で水位はかなり下がっていたはず) 右は翌15日8時頃
↑↓ 自宅直ぐ傍の寝屋川
↓「打上川治水緑地」 普段は憩いの場所となっているが、本来の目的遊水地の役を果たし寝屋川下流の浸水を些かなりとも防止したことだろう
猛暑 旧暦6月大9日 土用丑 プールも水温33℃・室温38℃
最近避暑も兼ねてよく映画鑑賞に出掛ける。ラヂオで時々パーソナリティーても取り上げられるが自分の席の前を通る者が、声を掛けないばかりか、会釈もしない常識の無い礼儀知らずが増えている。
「拳腰浮かし、肩引き、傘傾げ」等々の他人を思いやる日本古来の美風はもはや失われつつある。昨今の社会の乱れを見ると肯ける。
左は朝 右は夕方 1日の内に色が変化する(7/26撮影) 今年は何が原因か咲きが悪い