はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江33観音巡り2-3

2010-05-16 17:21:30 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り2-3回目        2010/05/12

   0.3k   4.5k    3.0k   10.1k   9.1k   5.8k
袋井-慈眼寺-観正寺-観音寺-清滝寺-蓮華寺-原田駅
   4     58     42    2:24   1:50   1:02 

 歩行距離     32.8k
 総時間      9時間12分
 歩行時間     7時間
 平均歩行時速   4.7k

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   9番 清滝寺へ(森町の産物)

 県道81号の下飯田橋を渡ると広い耕地になった。家も無ければ電柱も無い。だが道は碁盤の目のように何本も延びている。次の清滝寺は今歩いている県道を行けばよいと安心していたが、立っている標識は「停まれ」の標識だけで県道や行き先の表示が無い。
地図上では81号はこの耕地の途中で斜めに左折して進むようになっている。段々不安になって来たとき「古代の森 小国神社」の案内板があった。地図を見ると小国神社は真直ぐ前方の北の方角にある。次の札所はそれより大分左の西北の方角になる。なのに此処に案内板があると言うのは、県道81は左折するのだろう。標識も何も無いがそうに違いない。と思い切って左折した。
 この辺りはもろこしの産地なのだろうか、1m位に成長したもろこし畑が一面に広がっている。そのうち柿畑も出てきた。幹は太いが人間の背丈位の高さで収獲はしやすそうだが、実の数が少なくて収穫量が少なくなってしまわないか、梨の栽培のように杯作りに出来なのかなど余計な心配をしてしまった。森町は次郎柿の発祥の地なのだか、最近は浜北などの産地に押されているような気もする。頑張れ森町だ。

 それにしてもこの道で良いのだろうか? ズーと前の方には交通量の多い道が見える。また右手の山の方にも車が走っているのが見える。時々歩いている道を山手の方に変えているが納得できない。仕方ない北に道をとって、あの山手の車が走っている道に出てみよう。
もろこしや柿の販売所が所々にある県道279号に出た。さて此処を右に行くか左に行くか思案のしどころだが、その前に誰かいないか辺りを見回す。いたいた畑の草取りをしている人がいた。
「おはようございます。チョト教えてください。谷中の交差点に行きたいのですが---」
「あーそれならこっちに行けば次の信号が谷中ですよ」と右側を指す。
案の定行き過ぎてしまったのだ。気になって歩数計で図ってみたら700m位で谷中の交差点に着いた。地図で確認すると県道81から大分離れてしまっていて3角形の2辺どころか四角形の3辺を歩いてしまった感じだ。そしてショックだったのは、ここにも小国神社の案内板があったことだ。変な深読みをせず素直に歩いていれば良かったのに、お陰で2kは余計に歩いてしまった感じだ。再度気を取り直して県道81号を歩き出した。


 前の方に長い物が落ちている。何だろう?アッ動いた。ウァー蛇だ。結構大きな蛇が道を横断している。一人歩きや山道が好きなのに私は蛇が苦手だ。勿論触ることも出来ないし近づくのも嫌だ。蛇の後ろを大回りをしてやり過ごす。
これからの季節は山道で蛇と遭遇する事が良くあるが、遠くで気が付けばよいのだが、目の目で踏みそうになって気が付く時はゾーとする。特に草むらの道を歩くときは木の棒で前の方を叩きながら歩いたりする事もある。今日はもう蛇が出ませんようにと祈りたくなる。

          

 ゴルフ場を過ぎると地図上では区画整理されたように場所がある。何だろうと気になっていたが着いてみると、そこは大茶園だった。牧の原のように茶畑が広がっているが、ここの茶畑は斜面が多く牧の原より見た目が綺麗だ。遠くには粟ヶ岳らしき山も見えている。
今は茶摘のシーズンなのに茶摘姿は見えないが、時折エンジン音が聞こえてくるから乗用式の茶摘機で刈っているのだろう。それにしても森町にこんな大きな茶畑があるなんて知らなかった。今まで森町と言えば柿と森の石松くらいしか知らなかったが認識を新たにしないといけないな、森町でもお茶や唐もろこしが取れる事を。

          

 さて大分茶畑の上に来た。そろそろ左に曲らなければならないが何所を曲るのだろう?と思案を始めるとタイミングよくエンジン音が近くでした。覗き込むと茶摘機に乗った人がこちらに向かってくる。

          

「獅ヶ鼻公園に行きたいのですが」
「そこに石碑が見えるだろう。そこを左に曲ればすぐだよ」と教えてくれた。
だがその石碑が分からない。忙しそうにしている人にそれ以上聞けず歩き出した。
石碑?石碑なんかない。その替わりタンクのような物はあるが、これを石碑とは言わないだろう。変だなーと思いながら歩いて行くと右の方に小さな薮があった。覗き込んでみると石碑がありました。石碑には「自立自興」と彫ってあるようだ。銘は3代前の県知事だった山本敬三郎となっている。きっとこの茶園を開墾した記念碑だろうが、今は薮のようになった木に囲まれていて見る影もない。

          

 道を左に曲ると下り坂になった。そして再度登りになったと思ったら、突然広い道に出た。駐車場もあるし右の方には大きな鳥居もある。やっと獅ヶ鼻公園に到着。
近くの案内板に「蟻の戸渡り・八畳岩・鐘掛岩」など魅力的なことが書いてある。丁度方向が鳥居の方なので行ってみる事にした。鳥居は「新道修正派大元祠」となっている。新興宗教なのか?良く分からないが誰もいなかった。

          

では案内板にあった色々な岩は何所にあるだろうと次の案内板を探したが見当たらない、仕方ないさっきの場所に戻ろう。
何しろ次の清滝寺の場所がハッキリしていないのだ。都市地図にもインターネットの地図にも載っていない。分かっているのは此処より大分下で民家がある辺りらしいという事だけだ。兎も角寺を探さなければ。

 大きな駐車場があって、その奥に大きな案内板がある。近づいて見てみたが清滝寺はでていないし、岩の事も書いてない。駄目だコリャ!こんな役立たずの案内板なんか作りやがって!分からない人に分かるように書くのが案内板なのに最近はイラスト化ばかり凝りやがって!段々八つ当たりをしたくなってきた。

 それにしてもこの公園は大きな公園なのだろう。今は車は1台も停まっていないが駐車場が2面もある。次回来るときはPCで調べてから来てみよう。そうすれば蟻と戸渡りなど経験できるかもしれない。
駐車場の下には神社があった。そしてその下にお堂があって案内表示は「岩村廃寺跡観音堂」となっている。それによると岩村寺は弘法大師が建てた大寺院だったが、織田信長に焼尽くされたらしい。だが清滝寺のことは書いてない。
もう12時になる腹も減ってきたので此処で昼食にしよう。その前に弘法大師が建てたならお参りりをしなければと般若心経を。
風に吹かれて赤い幟がハタハタ揺れている。何の気なしに見ていると「三十三」の文字が入ってきた。近づいて見ると幟には「遠江三十三観音霊場」と印刷されていた。

          

遠江33観音2-2

2010-05-15 14:50:23 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り2-2回目        2010/05/12

   0.3k   4.5k    3.0k   10.1k   9.1k   5.8k
袋井-慈眼寺-観正寺-観音寺-清滝寺-蓮華寺-原田駅
   4     58     42    2:24   1:50   1:02 

 歩行距離     32.8k
 総時間      9時間12分
 歩行時間     7時間
 平均歩行時速   4.7k

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   11番 観音寺へ(遍照寺とは)

 8番を打ち終わって次は本来なら9番に行きたいところだが、札所の位置や距離を考えると11番を打ってから9、10番と回ったほうのが明らかに効率的だと判断して11番を先にした。

 旧道から県道に出た後も旧道らしき道があったので、そちらを歩くことに。
前方に石屋が見えてきた。新しい墓石に混じって古い石仏が幾つか混ざっている。この石仏は何故ここにあるのか? 買ったのか? 貰ったのか? それとも盗んできたのか(ご免なさい)? その中の一つに高さ15cm位の石仏があった。この位の大きさなら家の庭に置いてお参りするのに丁度良い。幾ら位するものなのだろう。聞いてみたいが気もするがチョット聞きづらい。しかしこんな道端に置いていて盗まれないものだろうか。
少し前、静岡では無人の寺の仏像を盗んでいた古物商が捕まったが、石仏は大丈夫なのか?

          

 道が大きく右にカーブした。この辺りの山の上に11番はあるはずだ。丁度庭仕事をしていたお年寄りの男性に遍照寺の場所を聞いてみた。
「遍照寺? 知らないな この辺りにはないと思うよ」
「遠江33観音の札所で若しかすると観音寺と言うかもしれません」
「観音寺?それも無いな。地図には載っているの?」と地図を覗き込んで
「アーたかひらさんのことか。高平さんなら、あの平屋の前を山に登った頂上にあるよ。あの寺は大仏さんで有名な寺だ」と教えてくれた。
高平山とは遍照寺の山号の事で「高平山遍照寺」が正式な呼び名だ。
1回目の遍路のとき書いたが、法多山尊永寺も通称「はったさん」が通り名になっている。静岡の西部地区では山号を呼び名にする例が多いのだろうか注意しないといけないな。

 平屋の家の前には「大仏の寺 遠江観音大11番札所 高平山遍照寺」と書いてあった。中でも大仏の寺と高平山の文字が大きくなっているので、やはり高平さんの大仏として知られているのだろう。
 
 観音堂の建つ山頂から「月見里」の地形を確認しようと楽しみにしていたが、竹やぶや雑木が邪魔をして視界が利かない。背伸びしてみるが低い山並みが見えるだけで「月見里」は見えなかった。
 尾根の上にある境内は気持ちの良い広場があって、その正面には露座の大仏が座っている。最初見たときが最近建てた大仏と思ったが案内板を見てビックリした。案内板には「東海地方最大(5m)の露座の大日如来像で享保3年(1718)住職の木喰直心が勧進願主となって建立した」となっていた。今こうして大仏の前に立っても、これが300年前に作られたとは、とても思えないほどで美しい大仏さんだった。

          

ここで気になった事がある。それは大仏の勧進願主の木喰住職の事。
木喰上人といえば駿河一国札所8番梅林寺に木喰上人が彫った木喰仏があることを紹介したが、ここでも木喰(もくじき)なる人が出てきた。当然木喰仏を彫った木喰上人と、ここの住職だった木喰和尚とは別人である。それと案内板には「木喰」と口偏に食だが、境内にあった開山堂の古い石碑には「木食上人」となっている。PC百科事典ウィキペディアにはこう書いてある
「木食とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち(穀断ち)、山菜や生の木の実しか口にしないという戒律である」ようは木食上人とはこの戒律を守っている人の事だ。更に「木喰仏の作者である木喰上人の場合は、口偏の「喰」の字を使用する点で他の木食上人と区別しやすい」となっている。
 
          

 ガイドブックに「村松梢風の墓が境内にある」と書いてあったので墓を探してみた。墓は6・7個しかなく、それも村松姓が多い。そのうちの一つに「梢風居士」の文字が書かれた墓を見つけた。何の看板も無く普通の墓だったのが好感を持てた。
村松梢風とは「残菊物語」や「男装の麗人」の作者で村松友視の祖父に当たる人と言えば分かるだろうか。

 観音堂でお参りをしていて気づいたが、この寺の本尊は弘法大師と書いてある。本尊が弘法大師と言うのも珍しいが、寺の名前の「遍照」は弘法大師の尊称「南無大師偏照金剛」の遍照からきた物なのだろう。よほど弘法大師を尊敬してたか分る気がする。
大きい声で「南無大師偏照金剛 南無大師偏照金剛 南無大師偏照金剛」と唱えてお参りした。
地元の人にも、こんな由緒のある名前のついた寺の名前を知って欲しい。

          

 この寺は見るべきものも多く、古い石仏や大きな仏像もある。なのに本堂は寂れた感じがするのは、墓が少なく檀家が少ないからなのだろうか。無住にならないように頑張ってもらいたい。

 もう一つ蛇足を
          

参道にこんな標識がありました。月見里に劣らず頓知の利いた人がいたのですね。


遠江33観音3回目

2010-05-14 18:35:01 | 寺社遍路
 ブログが追いつかないのに今日は3回目の遠江33観音巡りに行ってきた。
天浜線原田駅を7時20分に歩き出し、近くの12番を打ってから大尾山の上にある13番に。降水確率10%だったのに雨がポツポツ。昼飯を食べてから下山し、最後はは掛川郊外にある14番へ。
そして疲れた身体に鞭打って掛川駅に4時45分着。35.7kの遍路でした。

 自分ながら良くやるよ。と感心してます。

遠江33観音2-1

2010-05-13 16:20:14 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り2-回目        2010/05/12

   0.3k   4.5k    3.0k   10.1k   9.1k   5.8k
袋井-慈眼寺-観正寺-観音寺-清滝寺-蓮華寺-原田駅
   4     58     42    2:24   1:50   1:02 

 歩行距離     32.8k
 総時間      9時間12分
 歩行時間     7時間
 平均歩行時速   4.7k

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   7番 慈眼寺へ

 袋井駅の北口に下車。尤も袋井は北口にしか玄関は無いので必然的に北口にはなるが---
駅前の太い道より1本東側の道を北に向かって歩き出したのだが、5分も歩かないうちに7番慈眼寺に到着。駿河一国を含めても駅からの最短距離だった。山門が鐘楼になっていて、土地の値段が高い町中の寺の感じだ。しかも2階の鐘楼は格子が入っていて粗造りな感じはせず、洒落た唐風な感じがする。

          

(いま書いていて気が付いたが本当に鐘突堂だったか自信がなくなってきた。見た雰囲気で鐘楼と決め付けていた気もする)
ここの札所は遠江33観音では7番札所だが、遠州33観音では14番札所になっているので又来る事もあるだろう、そのとき確認しよう。
境内の左側には赤いお稲荷さんの幟が林立している。廃仏毀釈と叫びながらこんな風に神仏混交の寺も存在したのか? いやこれも確認が足りなかった。ここのお稲荷さんをこの様に派手に祀りだしたのは何時からなのか、これも次回確認しよう。
 本堂の扁額の変わった字体を見て次の8番観正寺に出発。

           

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     8番観正寺へ(月見里)

 道を駅前から延びる信州街道とか秋葉街道と呼ばれている県道58号線にもどる。昔の街道なので、何かそれらしい物がないかと注意して歩くが見当たらない。原野谷川を渡り旧国1や国1バイパスを通り過ぎ、東名高速の辺りでやっと秋葉さんの常夜灯があった。
しかしその常夜灯は秋葉さんには違いないのだが、春野町の秋葉神社の物でなく、この先にある可睡斎の秋葉総本殿の常夜灯だった。以前にもこの可睡斎と春野町の秋葉神社の違いが良く分からないとブログに書いたが、この大きな常夜灯や看板の「火防総本山・秋葉総本殿」の文字を見れば、所謂秋葉さんにお参りにきた人は、こちらに行ってしまうだろう。

          

 8番札所に近づいてくると「山梨」の字が目に付くようになった。下山梨、上山梨、沖山梨などの地名もある。この辺りは今は袋井市になっているが以前は周智郡山梨町だった。その所為で山梨が多いのは分かるが何故山梨と言うようになったか面白い説を聞いたので紹介しておきたい。
 子供の頃「山が有っても山なし県」「痛くなくても大いた県」とか言って遊んだ経験は無いだろうか。ここの山梨はその言葉通り「山が無くて山なし」なのだ。
この辺りの地形は低い岡はあっても視界を遮るような高い山が無い。しかしそれで「山なし」ではチョット芸が無さ過ぎて面白くない。トンチの利いた昔の人はもう一ひねりしてある。当時近くに山が無いので月見に適していたこの地は「月見里」と書き表していたが単純に「つきみさと」と言わずに、月が見えるのは山が無いからだ。だから「月見里」は「やまなし」なのだと月見里=やまなし=山梨になったとか。
嘘? いえ嘘ではなさそうです。その証拠として苗字でも「月見里」はやまなしさんとか
月見里神社はやまなし神社と読むらしいですよ。
ジャー山梨県のやまなしは本来は月見里県かと言いたくなりますがウィキペディアにはこんな事が書いてありました。

 山梨郡の名前の由来は「旧春日居町にある山梨岡神社の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と呼ばれるようになった」という伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われがちである。
しかし風土記には「山無瀬」「夜萬奈之」と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。
そして「梨園」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて「山梨」と呼ぶようになったといわれている。
と書かれていました。

 この「やまなし」については清水区興津に多い「山梨」の姓。日本の三筆とも言われる橘逸勢の辞世の句の「都をば 今は遥かに遠江 月の隈なき月見里郷」など追求していくと面白いかもしれませんね。
蛇足にもう一つ。地図を見ると山梨地区に「月見の里公園」があって学習館などもある。しかしそこは残念ながら「つきみのさと」らしい。現在の役人は頓知が足りないな。

 
 8番札所に行く為に県道を離れて旧道に入ったのに、前の方に県道の信号が見えてきた。おかしいなぁ寺の表示は無かったのにと、露地横を見ると屋台の格納庫が見える。その横は下山梨公会堂の看板が見える。更にその横には1本の石碑が立っている。それを確認しに近くに行くと建物と建物の間に小さなお堂が。そこが8番観正寺だった。

          

遠江33観音1-6

2010-05-11 12:00:43 | 寺社遍路
   6番岩松寺江(勅使塚)

 法多山の門前町を抜けて西に進む。62坊もあった昔はこの辺りも寺に境内だったのだろうか。
次の6番岩松寺には県道のトンネルを抜けた方のが近い気もするが、トンネルは余り好きではない。しかもこの豊沢トンネルは長そうなので、それを避けて静岡理工科大学の入口を通る道にした。
地図を見ると6番に行く途中にJAの施設らしい「茶ピア」が載っている。そして丁度その案内板が立っていたので、当分はこの案内板に従って歩けば良さそうだ。

          

 道の脇に「勅使塚」の案内がある。立ち寄って説明を読んでみると、こんな事が書いてあった。
「昔、後白河天皇が勅使が法多山へ参向された。参拝する日時が決められていたため、勅使は茶屋で一休みしてから参拝しようと寝込んでしまった。そのとき月夜の光で夜明けと勘違いした雉が声高く鳴きだした。勅使も夜明けと勘違いして出発してしまい、決められた時間に参拝できなかった。それを悔やんだ勅使は切腹してお詫びをした。
土地の人はその死を哀れみ、塚を作って葬り、雉を飼う事を遠慮した」とあった。
昔話、伝説だと言ってしまえばそれまでだが、この様な塚まであるのだから、何か事件があった事は間違いないだろう。しかし案内板に書いてあるような勘違いは現実には起きようもないし、例え起きたとしても早すぎたのだから時間調整は出来たはずだ。

          

そこで素人探偵が空想するには
「一休みしていた勅使に村人が夕食にと猪の肉を雉の肉と称して供した。珍しい味に満足して勅使は満腹するまで食べてしまった。翌朝参拝した勅使が発する臭いに法多山の和尚が叱責すると勅使は、それを恥じて切腹をしてお詫びした。一方村人は猪の肉を供したと分かると、自分達も罰せられる事から言い出すことが出来ず。お詫びに先のような話を作って勅使を葬った」

 くだらない妄想をしながら歩いているうちに「茶ピア」への入口に着いた。その入口方面には行かず右折すると前方に細長い建物が見えてきた。何だろう?余りに細いので中に人間が入る部屋があるようではない。
確か袋井の1号線の近くにはシンドラーエレベーターの試験か研究するかの細長くて高い建物があったはずだ。その関係の建物だろうか?しかしそれにしても細すぎる気もするが。
折りよく犬を連れた人が通りかかった。
「すみません。あの建物は何でしょうか?」
「アーあれね。あれは煙突ですよ。以前ここが市の焼却場だったので、その煙突ですよ。今は使っていませんがね」
煙突か!煙突とは思わなかったな。洒落た感じで何に使うか分からなかったが煙突とは思わなかった。きっと建設費は高かっただろうな----

          

 やっと岩松寺の近くの篠ヶ谷の交差点に着いた。ここを左折すれば寺は近くにある筈だ、注意して行こう。それにしても急な下り坂だ。帰りはここを帰らなければならないので、下りが続くのは嬉しくない。そんな気が通じたのか十字路にすぐ出た。さてここはどちらに進めばよいか。時間は5時半になっていて当たりは薄暗くなってきた。ここで間違えたら行き着くことが出来なくなる。先ず右の方を除いてみよう。お墓が見える。あれがそうなのだろうか?ばか近い気もするが。一先ず行ってみようと歩き出すと左側の薮の中に案内板や階段が見えた。近づいてみてみると、間違いなく6番の観音堂だった。

 自然石の階段の横に見慣れない石仏があった。一枚の石に下に3体、上に3体の計6体の地蔵を彫ってある。下の2体は釣竿のような物を肩に掛けている。
後で知人に聞いたところ「静岡県西部地方では道祖神として道脇に祀ってある。名前は六羅漢と言う」と聞いた。インターネットで調べたが六羅漢ではヒットせず、また道祖神にもそのような石仏があると書いたものは見つからなかった。

          

 階段の上に方形の屋根先が見えている。あれが観音堂だろう。薄暗い自然石の階段を登っていると昔の遍路にタイムスリップしたような気がする。だがそんな気持ちも境内に立つとなくなってしまう。黄土色に塗られた観音堂は薄暗い暗い中でも浮き立っていている。屋根も瓦葺なので古さを感じる事が出来ない。維持管理を考えれば茅葺の屋根は無理とは分かっていても、周りの雰囲気がいいとどうしても欲張った考えが湧いてしまう。
それにしても下の案内板には
「1713年再建 木挽棟梁 近江国甲賀高野村 ○○△△
 明治34年 軒を短くして茅葺を瓦にする」と書いてあったが塗装の事は書いてない。明治時代に塗装したとは、とても思えないほど鮮明だった。
(辺りが暗かったので、そう感じたのかな?)

          

 斜向かいの本堂にもお参りをする。サーこれで今日の予定は終わった。後は袋井駅まで3kも歩けばいいだけだ。

 それにしても今日はくだらない歩きをしてしまった。予定では
掛川-3-2-1-33-32-4-5-6-袋井
だったが、実際は
掛川-3-2-1-33-32-1-2-3-4-5-6-袋井
となった。本来なら
掛川-1-2-3-4-5-6-袋井 とするべきだったろう。
 

遠江33ヶ所1-5

2010-05-10 17:32:29 | 寺社遍路
    5番北谷寺へ(箱物行政)

 4番正法寺から5番には地図を見ると、山越えの遍路道がありそうな気もするが、尋ねる人もいないので県道403号線のICまで戻る。IC入口には歩行者や自転車の標識もあったので県道に入ってみると、片側2車線の立派な道路が出現した。歩道も太く、道路は立派だが交通量の少ない道は歩きやすかった。

          

しかし何故片側2車線の道がこんな場所にあるのか? ここを歩けば誰もが感じる疑問だろう。
静岡県には東西に日本を代表する国道1号線が走っているが、その多くは片側1車線に過ぎない。そのため通勤時間帯には毎日渋滞を引き起こしている。なのにここにはこんなに立派な道路がある。
以前この道を歩いたとき調べてみたら、この道は2002FIFAワールドカップ開催で試合を誘致するため静岡県は5万人を収容できるエコパスタジアムを建設した。そのスタジアムと東名掛川IC及び国道1号線を結ぶ為にこの県道403号を作ったのだ。
たった一度の大会の渋滞を避けるために、この様な道路を作る余裕があるのなら、何故毎日の生活に直結する生活道の渋滞緩和を考えないのか。私には理解できない。

 掛川ゲートと書かれた入口からエコパ競技場に入る。広大な競技場の中にはグラウンドが何面もあり道の脇には桜や紫陽花などが植栽してある。花の時季は綺麗だろうが、それ以外の時季の管理は難しいだろう。現に今も木の下は雑草が生茂っている。
この様な施設は作るのは容易だが、それを維持管理していくのが大変なことは誰でもわかることなのだが、一時の熱病に罹ると後先が見えなくなってしまうようだ。

          

いい事を思いついた。ワールドカップ誘致のとき署名を集めていたが、そのとき署名をした人は毎年草取りのボランティアに参加して貰うのはどうだろうか。特にそのとき先頭に立った政治家、特に当時の県知事を筆頭に県会議員は連日張り切ってもらおう。そうして少しでもエコパの赤字を縮小してもらいたい。

 巨大なスタジアムが目の前に現れた。中から音楽が聞こえてくる。途中の垂れ幕にジュビロ磐田の試合が明日行われると書いてあったが、その準備をしているのだろ。
明日の遍路だったら、この道は歩く事が出来ただろうか? 今日で良かった。

 前回歩いた時は丘の上の駐車場からエコパスタジアムに直接降りた気がするが、しかしその駐車場の案内が見当たらない。おぼろげなる記憶を探り、兎も角スタジアムに一番近い階段を登ってみた。
フー正解だった。駐車場が現れてその先に車道がある。あの道を右に行けば法多山尊永寺だ。

 次の目的地の北谷寺は法多山尊永寺の本堂の横にあるようだ。土産物屋の間にある参道を歩くのだが連休の最中というのに開いている店がない。結局山門までの間で営業していたのは土産物屋1軒だけだった。
以前と違い行楽の仕方が様変わりしてしまったので、ここが賑うのは初詣とか年数回の行事の時しかなくなってしまったのだろう。

 威風堂々とした山門を潜り、如何にも古刹の雰囲気を漂わせている参道を進む。駿河一国ではこの様な大きな札所はなかったが、遠江でもここが一番の大寺なのだろう。
昔はもっと大きく62坊もあって「遠州の高野山」とも呼ばれていたらしい。
寺の呼び名は通常ならお寺の名前を呼ぶのが普通だが、ここでは山号の「はったさん」の名前で親しまれている。「法」と書くのでほったさんと間違って言う人もいるがはったさんが正式名です。

          

 疲れた足には厳しい階段が続くが、階段は新しく冷厳な雰囲気は無い。やっと階段を登り詰めると正面に真新しい本堂が建っている。新しすぎて何か新興宗教の寺の感じがしないでもないが立派な事は立派だ。
北谷寺は本堂の左側にあり「遠江33観音第4番 北谷寺」の看板が掛かっていた。

           

 帰りは正面の階段ではなく大師堂脇の道を下るようになっていた。下って行くと法多山名物の団子を売っている「団子茶屋」の前に出た。門前の店は殆ど閉まったいたが、ここは開いていて客も何人かいる。帰り道にチャント団子屋の前を通るように出来ているなど中々商売上手だが、私もそれに乗って1箱買ってしまった。

遠江33ヶ所1-4

2010-05-08 16:30:01 | 寺社遍路
    4番正法寺へ(骨瓶)

 長谷寺の裏の道に出る。北の方角に逆川が見える。この川は掛川城のお堀も兼ねていた川で、昔は「懸川」と呼んでいたらしい。その名の起こりは地形からきていて、この川が蛇行していて懸崖が多い事から崖川とか欠川と呼ぶようになったらしい。
さらに他にも平将門ら19人を斬殺してその首をこの川で洗って橋に懸けたので「懸川」になったと言う説もある。
「かけ川」は分かった。それでは何故今は逆川と呼ぶようになったのか?
こんな説を見つけました。
「逆川は、逆流による「サカサ川」または「坂」「サカシ(険し)」から生まれた地名」だそうだ。
逆流?まさか海の潮流がここまで遡る事はありえない。それでは少し下流で合流する原野谷川から逆流してきたのだろうか?無いとは言えないが、そんな大雨なら記録に残っているはずだ。
そこで素人の私はこう考えた。
この川は上流も下流も山に向かっているように見えるため、地形を知らない旅人が上流、下流を間違えることが多かったので、逆川と呼ぶようになったのではないだろうか。
こんど掛川城に登城して天守閣から眺めてみよう。

 新幹線と東海道線の誇線橋を渡るとき4棟の奇妙な建物が目に入った。新しい建物だが形が江戸時代のような建物で屋根が切妻造りになっている。何かイベントをやる場所かと見てみるがそんな感じはしない。いやどちらかと言うとアパートのような感じがする。1棟に3軒入るのか、エアコンが3台付いている。なんだろう?宿場に面した所なら、こんな建物も理解できるがこの場所では---- こんど掛川の人に聞いてみよう。

           

 東名のガードを潜った辺りの地名が「高御所(こうごしょ)」になった。4番の寺もこの高御所にある。
御所?なんとも由緒ありげな名前だがガイドブックに
「1238年将軍藤原頼経が上洛の途次掛川に泊った。そのとき宿舎となる「御所」を建てた場所から来ている」と書いてある。
これで納得すればいいのだが、なにせ「はぐれ遍路」と名乗るくらいの偏屈者だから、これでは納得できない。なぜなら御所とは天皇が住む場所で、あろう事か天皇の家臣である将軍の仮宮を間違っても御所とは言わないだろう。では何故高御所なのか----残念ながら分かりませ-ん。

 県道のICからの急な坂道を上ると大きな杉の木に囲まれた寺の屋根が見えてきた。一歩登るごとに屋根が大きくなってくる。1番、2番、3番と小寺が続いたが4番は大寺だった。
本堂正面の入口の上には龍の彫物がある。入口横の左右にも何だろう?鳥?魚?兎も角立派な彫物があった。

           

また観音堂も変わっていて鰐口が無ければ宿坊か合宿所に見えないこともない。何しろ2階の窓には欄干が付いているのだから変っている。そしてその観音堂の隣の建物は古いがどちらかと言えばこっちの方が観音堂に見える。正面の柱の上には彫物もあるし、入口は格子の戸になっている。昔はこっちが観音堂ではなかったのではないだろうか。格子の隙間から中を覗いてみると------覗かなければよかった。整理整頓を知らない人の部屋のように乱雑を極めていた。

           

更に変っていたのは、この建物と同じ屋根の下に幾つかの石仏がある。それは良いのだがその石仏の間や前に袋に入った遺骨箱や、むき出しになった骨瓶が置いてある。蓋をしてない骨瓶もある。
一体これはなんだ! さすがの私も気持ち悪くて骨瓶を覗く勇気はなかった。

          

遠江33ヶ所1-3

2010-05-07 08:42:39 | 寺社遍路
   2番常楽寺へ(掛川市)

 昔の遍路道はと地図を見るが花鳥園や東名で分断されていて分からない。もと来た道を戻るしかないと東名まで逆戻り。
掛川の町は東名高速のICや新幹線の駅、東海道線の駅、国道1号線が狭い地域に集中していて交通の便は良く発展途上の町なのだろうが東名の南側と北側の格差が大きい。北側は狭い地域にビルが林立しているが東名を潜ると一転郊外の雰囲気になる。これで花鳥園とパチンコ屋が無ければ本当の田舎に過ぎないだろう。
東名ICも開通当初からのICではなく途中からのICだし、新幹線も市民の署名を集めて陳情して作ったと聞いている。また掛川城も平成6年に完成させたり、外国に市営の牧場を作って生涯学習に使っているとか、最近では木造のJR掛川駅を保存する運動も起している。ヤル気は感じるが頑張りすぎてないか気になる。

 東名横の道を歩き始めると薄い水色のビルが見えた。お茶屋かと想像したが海苔屋だった、一体海苔を何所から持ってくるのだろう?この辺りの海で海苔の養殖など聞いたことがない。これも交通至便の地を求めて進出してきたのだろう。
最初の信号を曲り、次の信号を左折して、少し歩くと常楽寺入口の看板があった。看板の先を覗くと大きな銀杏の木が見える、あそこが2番常楽寺だろう。

 寺の入口に「二番札所」と彫られた石碑がある。何でも今から200年以上前に立てた物らしいがお寺自身は普通の民家と間違われそうな建物だ。きっと昔はもっと栄えていたお寺だったのだろう。

                



   3番長谷寺(頭陀袋)へ
   (チョウコク寺)

 私の今日の格好は駿河一国と同じで、相変わらず頭陀袋を肩から提げている。ただ今回はその中に納経帳が入っていない。駿河一国では最終的に17番と番外の二寺のご朱印は受けれなかったがマーほぼ受けることができた。しかしここ遠江では無住のお寺が多くご朱印を受ける事が難しいらしい。確かに1番の結縁寺も無住だった。それなのに朱印を案内した張り紙も無かった。駿河では無住の寺は管理人の電話番号や場所の案内図が張られていたのに比べるとえらい違いだ。やはり納経をしない判断は正解だったと思う。
いや今は納経の話でなく頭陀袋の話をしたい。

          

私の頭陀袋は四国遍路のとき購入した物で袋(と言うよりカバン)の表面に「奉納 霊場順拝 同行二人」それと赤い梵字が印刷されていて中々目立つ物だ。四国では同じような格好の遍路をよく見かけるので、土地の人もそれ程興味を示さない。しかし遍路の風習の無い静岡ではこんなカバンを掛けていると皆ジロジロと見るような気がしてならない。これも自意識の強い私の勝手な思い込みに過ぎないかもしれないが嫌なものは嫌だ。そこで頭陀袋の袋を開けた状態で肩から掛けている。
駿河一国が終ったころ妻が
「どのズボンも左のポケットの上が摺れて穴が開いてきた」と言ってきた。何故だろうとリュックを背負ってみたが何も無い。頭陀袋も掛けてみたが摺れるものはない。そこで思い出して頭陀袋の蓋を開けて肩から掛けると------- 
蓋を止めてあるマジックバンドが丁度ズボンのポケットの位置になる。こんな小さなギザギザだが一日4万歩も歩いていると4万回摺れる事になる。一滴の水、岩をもくだく。と同じでズボンの穴も開いてしまうのだ。
と言っても蓋を見せて歩くのは嫌だし、反対にすると中身の出し入れが面倒だ。そこで蓋を空けた状態でマジックバンドが外に行くようにして担ぐ事にした。
納経帳が無いのなら頭陀袋なぞ必要ないのではないかと思うかもしれないが、それがどうしてこの頭陀袋は中々便利で、特に今回のような遍路には無いと困るのだ。
その訳は札所への道を探すのに地図は必携だが、常に手に持っているのも煩わしい。しかしザックに仕舞うのはもっと面倒だ。更に地図も1枚ではすまないし、地図以外にも時々ガイドブックの略図も見てみたくなる。そんなこんなで納経帳はなくても出し入れの簡単な頭陀袋は遍路の必携アイテムになってくる。
今では私はデジカメや菓子類なども入れる様になっている。

 新幹線や東海道を渡るとNECの工場があった。フェンスの前にはツツジを植え込んであり、そこに立てられた看板には「この付近の清掃活動はNECが行っています」とか書かれている。自分の会社の前を掃除するのは当然な事と思うがマーいいだろう。だがツツジの中は雑草がはびこりツツジより大きくなった物もあちこちにある。正面玄関と彫られた入口も背の高い雑草が花を咲かせている。
NECは最近不調なのか?一世を風靡したパソコンも一時ほどではないし、半導体の生産も韓国に負けている。そんな影響で掃除の人の人件費も節約しているのかも知れないが情けないことだ。
フェンスの向こうから女性の元気の良い掛声が聞こえてきた。覗いてみると赤いユニホームを着た女性がソフトボールの練習をしている。企業のスポーツが衰退してきているのに頑張っているのは良いが、この人達が月に1時間も清掃活動をやれば私が今歩いてきた辺りは綺麗でいられるのにと思った。

前方の高台に木立が見える。あの下辺りが3番長谷寺で20分も掛からずに到着した。
寺の正面のお堂の横に赤い色が残った石碑がある。絵が彫ってあって図柄は旅の和尚が魚を手にしている。字も書いてあるが読めるのは「大阪・八坂・鯖ひとつ・大師・馬」などだが風化して読めないのでなく、知識が無くて読めないのだから情けない。だが絵とその分かった字で判断するなら、きっと四国遍路のとき立ち寄った阿波の鯖大師の事だと思う。そこの伝説は弘法大師が倒れた馬や塩漬の鯖に薬をやると馬や鯖が生き返ったとか、それ以来3年鯖断をして願い事をすると願いが叶うようになったと言う。

               

だがその伝説の絵が何故ここにあるのか分からない。この長谷寺は曹洞宗で弘法大師の真言宗ではない。寺の人がいたら聞いてみようと思ったがいなかった。だからと言ってご朱印もしないのに態々声を掛けるのも気が引ける。やはりご朱印くらいはやるべきだったか。また迷ってしまった。

遠江33ヶ所1-2

2010-05-06 17:03:33 | 寺社遍路
 さて2番はと思い起こそうとするが全然記憶が無い。寺の名前も道順も全て記憶の彼方に飛んでしまっている。分かっているのは掛川駅から遠い順に3番、2番、1番にしたので、駅の方角に戻る事だけだった。
インターネットで購入したガイドブックの「光と風と観音様と」を出して寺付近の略図を見るが道の線ばかり書かれていて良く分からない。都市地図の掛川詳細図をみてようやく記憶が戻ってきた。
本来なら1番に向かうとき歩くはずの市役所横やNECの横を戻り、JRの踏み切りやガードを潜って線路の南側に出るコースだった。
更に詳細図を見ると、朝駅前通りを西に向かったが、これは駅前通りではなくJRの線路沿いの道を西に向かうのだった。
出発する時この詳細図を見れば無駄な気苦労をしないですんだのにと反省。

 詳細図で容易に2番常楽寺に到着。

1番結縁寺も詳細図で容易に分かる。東名沿いの太めの道を東に向かい掛川信用金庫の所で東名のガードを潜る。その先に掛川花鳥園があるので、それを通り過ぎれば右側に1番はあるはずだ。
想定通りの道順で花鳥園を過ぎると右側の奥に方形の屋根が見えてきた。
当たり!段々感が戻ってきたようだ。

 予定ではここから33番に行く事になっている。少し迷ったあと33番に向かったのだが何故こんなルートを考えてしまったのか後悔をしはじめた。
本来歩きたかった道順は1番から順番に8番まで行き、次に11番を打って遠江一宮駅で終わり、次回は一宮駅から9番、10番、12,13,14、掛川駅となるのだが、この区間は距離が長すぎて1日では歩けない。だが2日に分けると少なすぎる。そこで1日目を少なくして32.33を追加すれば丁度良くなると単純に追加してしまった。そのため1番の次が33番になってしまったのだ。
これが本来通り33番を打った後1番にお礼参りするコースにすれば申し分なかったのに。

 実は正直に言うと、こんなくだらないコース設定をした最大の理由は私の対抗心にある。その対抗心の相手とは-----
浜北市宮口の鈴木忠兵衛さんだ。この方が宮口を徒歩で出発して6日間で33ヶ所を打ち終わり宮口に帰ったらしい。全工程約200kを6日で歩いた計算だという。
よしそれなら私も全行程歩きで途中を端折らずに6日間で歩いてみよう。距離は駅までの無駄な歩きも発生するから200kにはなるだろう。と。

 だが私の考えは根本的におかしいのだ。鈴木さんは連続した6日間なのに私の場合は途切れ途切れの6日間。これでは最初から比較の対象にならないのに対抗心を燃やしたりして。
しかも鈴木さんが歩いたのは慶応3年、今から140年も前のことなのに対抗心を燃やすとは------
 こんな人間が遍路をして何になるのだ。いやこんな人間だから遍路をするのだ。

 県道38号を南下して子隣の交差点を左折して暫く進むと岩井寺(がんじょうじ)入口の案内があった。

 次の32番今福寺は県道249号を更に南下する。県道と川を挟んだ旧道は車が全然走っていなくて歩きやすい道が暫く続く。この辺りは掛川歩こう会の例会で歩いたのかもしれないが景色に見覚えが無い。今日のように一人で地図を見ながら歩いていると道を憶えるのだが歩こう会のように人の後ろを歩いているだけでは道は憶えられない。しかも掛川歩こう会のモットーは「より早く、より長く」なのだから、わき目をする余裕も無い。
そんな歩きも面白いし、今日のような一人歩きも楽しい。どちらもバランスよく楽しんでいこう。

 32番今福寺の入口で少し迷ったが、電柱の横に支柱の腐った案内板を見つけて迷わずにすんだ。そして32番を打ち終わって次の4番への道は----
どうしても思い出さない。距離は8.7kと書いてあるがどの道を通るのだろう。一番オーソドックスなルートは今来た道を戻り、小笠山入口で県道409を歩く、次に小笠山の近くを走る251号を進んで更に途中から森林果樹公園に向かう道だろう。だがその道なら1番の結縁時にも近い場所に出る。
アー!止めた!止めた! 今日のルートはご破算だ。もう一度1番に戻り2,3,4と順打ちにしよう。少し急げば予定通り6番まで打って袋井駅に着くだろう。

 決心すれば行動は早い、今歩いてきた岩井寺と小笠山入口の間に掛川方面と書かれた標識があった。都市地図でも白い道で載っている。これを北に向かうと1番結縁寺の近くに出れそうだ。
全く良くやるよ。自分でも感心するが、こんな私の行動を他人が見ればどう思うだろうか。きっと惚けが始まったと思うことだろう。さーそうならないようにお参りをしておこう。

          


 その道は県道なのか分からなかったが、新しく県道並みに広いが交通量は38号よりズーット少なく歩きやすかった。周りに茶畑が広がり薄緑になったお茶の新芽がさわやかに感じた。
 県道403号に出た。地図で見るとここを右に曲れば1番に行けるのだが、立体交差になった道は歩行者が入ってよいのか不安になった。歩行者や自転車禁止の標識は見えなかったが右折するのは止めて、その先の細い道を右折。
ジャジャジャン!ありました。あの1番結縁寺のこじんまりした方形の屋根が。

          


駅から1番までは後日歩くことにして、今日はここから2.3.4.5.6と歩くことにする。遍路日誌も2番へ向かうところから開始としよう。ここまで歩いた25kは遠江の準備運動とでも思っておくしかないか。