はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江33ヶ所1-4

2010-05-08 16:30:01 | 寺社遍路
    4番正法寺へ(骨瓶)

 長谷寺の裏の道に出る。北の方角に逆川が見える。この川は掛川城のお堀も兼ねていた川で、昔は「懸川」と呼んでいたらしい。その名の起こりは地形からきていて、この川が蛇行していて懸崖が多い事から崖川とか欠川と呼ぶようになったらしい。
さらに他にも平将門ら19人を斬殺してその首をこの川で洗って橋に懸けたので「懸川」になったと言う説もある。
「かけ川」は分かった。それでは何故今は逆川と呼ぶようになったのか?
こんな説を見つけました。
「逆川は、逆流による「サカサ川」または「坂」「サカシ(険し)」から生まれた地名」だそうだ。
逆流?まさか海の潮流がここまで遡る事はありえない。それでは少し下流で合流する原野谷川から逆流してきたのだろうか?無いとは言えないが、そんな大雨なら記録に残っているはずだ。
そこで素人の私はこう考えた。
この川は上流も下流も山に向かっているように見えるため、地形を知らない旅人が上流、下流を間違えることが多かったので、逆川と呼ぶようになったのではないだろうか。
こんど掛川城に登城して天守閣から眺めてみよう。

 新幹線と東海道線の誇線橋を渡るとき4棟の奇妙な建物が目に入った。新しい建物だが形が江戸時代のような建物で屋根が切妻造りになっている。何かイベントをやる場所かと見てみるがそんな感じはしない。いやどちらかと言うとアパートのような感じがする。1棟に3軒入るのか、エアコンが3台付いている。なんだろう?宿場に面した所なら、こんな建物も理解できるがこの場所では---- こんど掛川の人に聞いてみよう。

           

 東名のガードを潜った辺りの地名が「高御所(こうごしょ)」になった。4番の寺もこの高御所にある。
御所?なんとも由緒ありげな名前だがガイドブックに
「1238年将軍藤原頼経が上洛の途次掛川に泊った。そのとき宿舎となる「御所」を建てた場所から来ている」と書いてある。
これで納得すればいいのだが、なにせ「はぐれ遍路」と名乗るくらいの偏屈者だから、これでは納得できない。なぜなら御所とは天皇が住む場所で、あろう事か天皇の家臣である将軍の仮宮を間違っても御所とは言わないだろう。では何故高御所なのか----残念ながら分かりませ-ん。

 県道のICからの急な坂道を上ると大きな杉の木に囲まれた寺の屋根が見えてきた。一歩登るごとに屋根が大きくなってくる。1番、2番、3番と小寺が続いたが4番は大寺だった。
本堂正面の入口の上には龍の彫物がある。入口横の左右にも何だろう?鳥?魚?兎も角立派な彫物があった。

           

また観音堂も変わっていて鰐口が無ければ宿坊か合宿所に見えないこともない。何しろ2階の窓には欄干が付いているのだから変っている。そしてその観音堂の隣の建物は古いがどちらかと言えばこっちの方が観音堂に見える。正面の柱の上には彫物もあるし、入口は格子の戸になっている。昔はこっちが観音堂ではなかったのではないだろうか。格子の隙間から中を覗いてみると------覗かなければよかった。整理整頓を知らない人の部屋のように乱雑を極めていた。

           

更に変っていたのは、この建物と同じ屋根の下に幾つかの石仏がある。それは良いのだがその石仏の間や前に袋に入った遺骨箱や、むき出しになった骨瓶が置いてある。蓋をしてない骨瓶もある。
一体これはなんだ! さすがの私も気持ち悪くて骨瓶を覗く勇気はなかった。