はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江33観音巡り2-4

2010-05-18 16:30:26 | 寺社遍路
遠江33ヶ所観音霊場巡り2-4回目        2010/05/12


   0.3k   4.5k    3.0k   10.1k   9.1k   5.8k
袋井-慈眼寺-観正寺-観音寺-清滝寺-蓮華寺-原田駅
   4     58     42    2:24   1:50   1:02 

 歩行距離     32.8k
 総時間      9時間12分
 歩行時間     7時間
 平均歩行時速   4.7k

  --------------------------------------------------

   10番 蓮華寺へ(歴史資料館)

 お堂の中には何枚かの説明板が取り付けてあった。だがどれを読んでも「清滝寺」の文字は出てこない。そう言えば11番の遍照寺も昔の名前の観音寺は出ていなかった気がする。古い観音巡りなので無住になった観音堂を移設してして、元の名前が消滅してしまうのだろう。
だがここの清滝寺は移設したようでもないのに名前が出てこないのはどうしてだろう?

          

 お堂に掲げられた説明板「敷地 岩室遺跡について」によると
「このお堂の辺りはビクニ(比丘尼)と呼ばれていた所で、磐田の国分寺の古文書には「是より北方三里に尼寺あり」と記されている。当時の岩室山は遠江の守護所として政治、宗教、文化の中心地であった。その後1546年比叡山と岩室山は本末の論議で争い比叡山から来襲した僧徒により岩室山は焼き討ちされた」となっている。
一方隣に掲げられた「岩室遺跡」には
「真言宗祖弘法大師開山の地にして七堂伽藍をはじめ数多の坊舎があった。然るに戦国のおり織田信長の攻むる所となり、堂宇伽藍悉く兵火に罹り延焼数日敷地村全部を焼尽された」と書かれている。
弘法大師が開山したなら真言宗だが、比叡山となると空海の宗敵最澄の天台宗だ。更に此処が焼かれたのは片や織田信長で片や天台宗の僧徒となっている。
どちらが正しいのか? ウーン謎だ。

 お堂の中を覗きこむと更におかしな事に葵の御紋の付いた「東照大権現 台徳院殿 崇源院殿」と書かれた位牌が置いてある。東照大権現は言わずと知れた徳川家康。台徳院殿は家康の三男で二代将軍家忠。そして崇源院は家忠の正室で浅井長政とお市方の娘である。
そんな位牌が何故此処にあるのだ。考えられるのは徳川家康が浜松城に居たとき家忠が生まれた事が関連しているのだろうか? でも何のためにここにあるのか?
比較的新しく見える位牌の横には安っぽい(失礼)仏像の横に置かれていた。そのせいか位牌も何故か私にはインチキぽく見えてしまった。

          

 お堂の前に何か異様な飾りがある。土産物屋の入口のような気もするが、こんな辺鄙な場所に店などあるはずがない。近づくと何と便所の入口だった。此処が獅ヶ鼻(獅子ではない)公園なので獅子の顔を描いたのだろうが----

          

 便所を過ぎるとすぐ民家が現れ、その先で道が分岐している。右に行けば県道で左に行けばゴルフ場の脇を通る近道だろうと判断して左の道を下っていった。途中に第2東名の下を潜るのだが、ここの支柱の高さが低く感じる。中部で見た第2東名は長い支柱で地震の心配もしたが、この位の高さならそんな心配も無いだろう。
第2東名は天浜線の園田付近でも潜ったが、そこは上りも下りも道路の巾が広くなっていた。若しかするとICかSAでも出来るのだろうか。

          

 道脇に鞘堂があった。石仏があるかと思い覗き込むが戸が閉まっていた。鍵が掛かっていなかったので開けてみると中には丸い石が置いてあるだけだった。
入口の案内板には「草ヶ谷の常夜灯について」と説明が載っていた。それによるとこの道は秋葉街道のルートで常夜灯は秋葉山に通じる道筋各所に置かれ、道者はこれを目印に通行した。と書いてある。さらに、草ヶ谷常夜灯は安政初年大工によって建てられた。となっている。不思議なことに石工のことが書かれていない。
常夜灯といえば駿河一国でも時々見たが、どれも石で出来た灯篭だとばかり思っていた。しかしどうやら違うらしい。この辺りでは石灯籠だけでなく、この様な鞘堂らしきものも常夜灯と呼んでいた様だ。
因みに得意なウィキペディアで調べてみると
「常夜灯、常夜燈(じょうやとう)とは一晩中つけておく明かりのこと。転じて街道沿いなどに設置されている建造物のことも指すようになった」とある。間違いない灯を燈すだけが常夜灯でなく目印の建造物も常夜灯なのだ。一つ憶えた。
  
               

 森町の市街に入ると案内板が整備されていて、次の蓮華寺は萩寺と書かれていた。ここ森町は萩や紫陽花、桔梗の花をメインにした寺があるが10番蓮華寺は蓮華の花ならず萩の寺として知られている。今はまだ萩の季節ではないが境内に入り萩だなと思ったのは本堂から観音堂の前の部分でしかなかった。花の時季には他でもでも咲くのだろうか?一度花の時季に来てみよう。

          

 観音堂の横に「木喰仏拝観料300円」と書いてある。エーこの寺に木喰仏があるのか、と思い早速受付に行くと。「本日の拝観は終了しました」と札がぶら下がっている。まだ午後2時なのにもう終了? 辺りを回ってみるが人気はない。どうやら終了したのではなく今日は休みのようだ。駿河一国の観光寺、番外の東光寺の定休日を思い出した。

 しかしこの寺の雰囲気は良い。階段入口のこけ脅かしの門はいただけないが、涼しげな山門、絵馬を飾った観音堂、萩の植わった境内、裏山に登ると雑草に囲まれた古仏などいずれも風情がある。萩と木喰仏を見に必ず再訪しよう。

           

 寺を出たら「森町歴史民族資料館」-無料-の看板が目に入った。今日は蓮華寺が最後なので、後は原田駅に行くだけ。時間も2時台なので寄ってみることに。

中には古い民具などが所狭しと置かれていた。この様な資料館にはよく漂っている黴のような臭いも余りしなかったので2階の資料室にも入ってみた。するとボランティアの人だろうか老人の方が横に来て説明をしてくれた。気さくな人で説明も結構面白く気楽に質問も出来たので思ったより長居をしてしまった。
話の中で記憶に残っているのは森町の地名は森なのか森町なのか聞いたところ
「昔は森町村と言っていたので森町町が本当だろうが、町が二つ続くので森町にした」との事だ。
他に森町に関係する事で、ここの殿様の土屋何某の江戸での屋敷は忠臣蔵の吉良上野介の屋敷の隣だった。赤穂浪士の討ち入りの時は高張提灯を掲げて浪士を助けた。と話してくれた。その話なら聞いた事がある。だが私の記憶では提灯を掲げた隣の屋敷は本多邸だったと記憶している。
資料室の壁には高張提灯の紋や当時の江戸の地図なども張ってあって確かに土屋家は吉良邸の隣だ。だがよく見ると吉良邸の隣には本多家もあった。
最後にもう一つ。最近家の新築工事で見つかった壷の中に古銭が7万枚以上入っていたという。その古銭の一部と壷が展示してあったが7万枚も入っていた古銭は一体現在の価格で幾ら位したのだろうか。羨ましくなってしまった。

          

 資料館を出て森町の中を歩く。今日のゴールは森町駅より二つ掛川寄りの原田駅で、そこまで歩かなければならない。予定ではあと5k以上もある。気を取り直して歩かなければ。