アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

送辞と答辞

2007年02月16日 18時59分17秒 | Weblog
 現在、学校では卒業式に向けて、準備が静かに進められているはずだ。
 ぼくは今年3年部なので、答辞が気になる。担当者が生徒が書いたものを見せてくれる。はきはきして、物怖じしない、積極的な生徒が今年の答辞の名誉。よく書いている。しかし、と、考える。
 黒澤明の自伝で、黒澤が卒業式で答辞(そういう名称だったかは自信がない)を読むことになり、彼の兄がありきたりではダメだと言い、それを書くが結局は懐に忍ばせたありきたりを読んだというような記述がある。
 学校はおそらく進化に対応できない恐竜みたいなもので、この期に及んでもまだ「形」を考えている。ぼくの理想は三年生が「卒業式運営委員会」みたいなもので、自分達の卒業式を企画することだ。卒業式の主役は卒業生なんだから、こういう形で卒業したいという「わがまま」を受け容れていいと思うのだ。
 さて、答辞だが、饒舌。喋りすぎる。みんな知っていること、わかっていることを並べる必要はない。答辞は卒業生が思いを共有すればいい。ならば、思い出を引き出すための刺激剤の役目もある。ABCDEを話したければ、思い切って、BとDを抜いてしまう。思い出を共有するから、思い出すためには間もいる。沈黙もまた雄弁な場合も少なくない。
 幸いなことに担当者は形にこだわらない。言葉の訂正、使い方はきちんとするというスタンス。ぼくは肉声を聴きたい。梅の花が云々なんて始まりではなく、さよなら高校生活で始まってもいいと思うのだ。
 難しい。
 ぼくは一つの舞台と考えている。だから、卒業生だけでなく、教員としても感動したいと思う。頑張れ。このブログ、読んでるんだろう?