みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

高瀬露と賢治の詩(〔同心町の夜あけがた〕)

2017-03-20 10:00:00 | 賢治作品について
 さて、賢治は大正15年4月に下根子桜の宮澤家別宅に移り住んだわけだが、その約1年後の昭和2年4月21日付の次のような詩〔同心町の夜あけがた〕がある。
  一〇四二  〔同心町の夜あけがた〕   一九二七、四、二一、
   同心町の夜あけがた
   一列の淡い電燈
   春めいた浅葱いろしたもやのなかから
   ぼんやりけぶる東のそらの
   海泡石のこっちの方を
   馬をひいてわたくしにならび
   町をさしてあるきながら
   程吉はまた横眼でみる
   わたくしのレアカーのなかの
   青い雪菜が原因ならば
   それは一種の嫉視であるが
   乾いて軽く明日は消える
   切りとってきた六本の
   ヒアシンスの穂が原因ならば
   それもなかばは嫉視であって
   わたくしはそれを作らなければそれで済む
   どんな奇怪な考が
   わたくしにあるかをはかりかねて
   さういふふうに見るならば
   それは懼れて見るといふ
   わたくしはもっと明らかに物を云ひ
   あたり前にしばらく行動すれば
   間もなくそれは消えるであらう
   われわれ学校を出て来たもの
   われわれ町に育ったもの
   われわれ月給をとったことのあるもの
   それ全体への疑ひや
   漠然とした反感ならば
   容易にこれは抜き得ない
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である
   見給へ新らしい伯林青を
   じぶんでこてこて塗りあげて
   置きすてられたその屋台店の主人は
   あの胡桃の木の枝をひろげる
   裏の小さな石屋根の下で
   これからねむるのでないか
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>

 そこでこの記述内容に従えば、賢治は当時としては極めて珍しかった高価なリヤカーに「青い雪菜」や「六本のヒアシンス」を載せて同心町(向小路)を北に向かっていたことになる。そして、雪菜やヒアシンスは今朝もまた売れそうにないし、そろそろ「向ふの坂の下り口」が近づいてきたから、そこまで行ったならばいつものようにそこで待っている子供にこのヒアシンスの花を呉れてやろうか、などと賢治は考えていたようだ。
 では、賢治はなぜこの詩の中で次の連
     向ふの坂の下り口で
         ~
     いつもの朝の恒例である

を「字下げ」したのだろうか。
 素朴に考えれば、賢治がこの部分を「字下げ」したということは、ここで詠んでいることは他の部分とは異なる心情を詠んでいたのであろうと考えられる。そこで逆に「字下げ」以外の部分を概観してみると、下根子桜に移り住んでからもう一年が経ったというのに、未だに地元の人たちとはあまり馴染めず、周りから浮き上がっている賢治の疎外感がまず感じ取れる。ということは、この「字下げ」による転調の狙いは、それとは逆のことを賢治はそこに込めたかった、つまり、「向ふの坂の下り口」とは賢治の疎外感を一時(いつとき)忘れさせてくれる所、賢治の心が救われる場所であるということを詠み込みたかったのではなかろうか。

 そしてその「坂の下り口」がそろそろ近づいてきた。ではその場所はどこかというと、同心町(向小路)の北端であり今でもその場所はもちろんあって、確かに下り坂になっている下図のような場所である。

                 <『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会発行)13pより>
 ところで、高瀬露の生家は同心町(向小路)にあったということは従前よく知られていることであるが、それではその家は同心町のどこにあったのだろうか。このことについては、『七尾論叢 第11号』所収の上田哲の論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」の中に、その住所は
    花巻町向小路二十七番地
であるということを著者上田が突き止めてくれていた。しかし、実際それがどこなのかについては公には明らかにされていなかったので、私はその辺りと思われところを尋ね廻ったり、古老に聞いてみたりもした。
 しかしその当時とはその辺りの家並みも様変わりしてしまった上に、もはや「向小路」とか「同心町」という地名は使われなくなって久しいせいだろう、当時のことを詳しく知っている人を私は探し出せなかった。はたまた、花巻市立博物館や同図書館に行って古地図等を探してみたりもしたが、結局場所を特定できずにいた。
 それがある時、大先輩の伊藤博美氏から頂戴した『花巻市文化財調査報告書』(花巻市教育委員会発行)に「大正期の同心屋敷地割」という上掲の地図が載っていたのでこれでやっと確定できた。なぜならば、同図には漢字ではっきり「二七番地」と書かれた場所があったからである。ちなみにそれは、上掲図「第3図 大正期の同心屋敷地割」の中に紫色の斜線を施した(ただし、これらは投稿者の追記)場所がその「二十七番地」、露の生家(父高瀬大五郎の家)のあった場所であった。つまり、
 賢治が〔同心町の夜明け方〕という詩において「向ふの坂の下り口」と詠っていたまさにその「坂の下り口」に高瀬露の生家(父高瀬大五郎の家)があったのであった。

 もちろん、この詩の中の「坂の下り口」はたまたまの一致だったのかもしれないが、もしかすると賢治にはある想いがあってその場所、露の生家があった場所をわざわざ詠ったのかもしれないと、私は推測した。どうやら、「向ふの坂の下り口」とは賢治の疎外感を一時忘れさせてくれる場所、露のことを想って賢治の心が救われる場所であったのではなかろうか、とも。この詩の日付「一九二七、四、二一、」だからこの日は木曜日。したがって、露は鍋倉の下宿にいて寶閑小学校で勤務している日なのだが、そろそろ週末も近いのでまた露は生家に戻って来るので賢治はその日を待ちかねていたのかも知れない。なぜならば、露はこの時期しばしば羅須地人協会に出入りしていたと言われているからである。また、当時の賢治と露とはとても良い関係にあって、賢治は露から讃美歌を教わっていたといういうことを清六は証言している<*1>から、その讃美歌を教わることを楽しみにしていたということなども考えられるからである。

<*1:投稿者註> 森荘已池の著書『宮沢賢治の肖像』の中に「宮沢清六さんから聞いたこと」という一節があり、次のようなエピソードが紹介されている。
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。二階の窓から顔を出した兄へ、「おもしろいお客さんを連れてきた」といいましたら、兄は「ホウ」と、喜んで、私とロシア人は二階に上ってゆきました。
 二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。リムスキー・コルサコフや、チャイコフスキーの曲をかけますと、ロシア人は、
 「おお、国の人――」
と、とても感動しました。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
             <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭49)236pより>
 この清六の証言からは、賢治が下根子桜に住まっていたある日、賢治は露を招き入れて二人だけで二階にいたことがわかる。なぜなら、当時そこに出入りしていて、オルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば露がいるし、それ以外の女性でこれ等のことが当てはまる女性は考えられないからだ。もちろんこの清六の証言に従えば、この当時、賢治と露の関係はオープンであり、しかも親密で良好であったということもわかる。
 さらには、〝ポラーノの広場のうた〔「ポラーノの広場」の歌(四)〕〟に関して、
 この歌の原曲は、明治三十六年初版の『讃美歌』(前出)の第四百四十八番『いづれのときかは』で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本全集第六巻 校異篇』(筑摩書房)225pより>
という記述がある。よって、賢治は露から讃美歌『いづれのときかは』を教わっていたということを清六が証言していたということになる。
 したがってこれらの清六の二つ証言からは、当時の賢治と露とはとても良い関係にあったことが導かれる。

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