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佐藤隆房の「女人」による検証(第三章)

2014-03-15 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
佐藤隆房の「女人」による検証
佐藤隆房著『宮澤賢治』より
鈴木 さて、では今度は佐藤隆房著『宮澤賢治』の中の節「女人」に露のことが述べられているので、この「女人」によって<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証をしてみたい。
 まずはその記述内容だが、以下のようなもだ。
    七八   女 人
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが縁となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利で有難がつて、
この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。
 と、集つてくる男の人達にいひました。
ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。
 と皆もいひ合ひ、
その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に頼めばいゝと思ふ。どうだね。
 と賢治さんも期待を持つてをりました。
 ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生であるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利と言つては變だが、やつぱりさういふ都合の好い會員でした。はじめは單に賢治さんの協力者、といふところで満足してゐたやうですが、そこが女性で、だんだん賢治さんを思慕するやうになりました。一日に二囘も三囘も訪ねて來、逆にの者や會員の者はいろいろと氣を廻はして、來る足が遠くなつて來ました。
 賢治さんも、結婚といふやうなことも考へたこともあるのでせうが、弟子の田中悦治君や藤井皓一君などに、
農村にゐて、土を耕してゐたつて詩も出來る。それには身體のうちに持つて居るエネルギーの、たゞの一滴でも外のことに浪費してはいけない。」といつて聞かせてゐました。そんな譯で、當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顔に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何等の期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞しました。(昭和二年頃)
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月発行)175p~より>
 もちろん、ここに登場する「内田康子」とは高瀬露のこと。また、この本の改訂版を見るとわかるのだが田中悦治とは高橋喜一のこと、ただしこの人物が誰のことを指しているのか、協会員に高橋光一という人物はいたがその人のことかどうかは私にはわからない。そして、藤井皓一とは伊藤忠一のことであるという。
吉田 結構具体的にいろいろと書かれているが、よその県から岩手にやって来た佐藤隆房にそこまでわかったのかな?
鈴木 佐藤隆房は大正6年10月に宮城県古川町の「私立片倉病院外科医長」を辞任して来県し、同年10月25日花巻川口町郊外根子村において「佐藤外科医院」を開業している(『自叙伝 醫は心に存する』(佐藤隆房著)26pより )のだが、この本『宮澤賢治』が冨山房から出版された昭和17年頃となれば佐藤は花巻に住み始めて約25年も経っていたからかなりのことを知っていたであろう。
 そしてなおかつ、佐藤隆房自身が『自叙伝 醫は心に存す』において、
 昭和十五、六年頃はややおとろえたので、宮沢賢治の伝記を執筆しようと考えた。宮沢賢治の伝記は、賢治が他国に滞留したことがない関係で、花巻人が書かなければ書く人がいないと思ったからである。自分は腰痛で動きがとれないので、飛田三郎君というのに頼んで賢治に接触したあらゆる人々から当時の情報をあつめてもらって、この情報を年代によって整理し、これを基にして、飛田君に口述した。毎日毎日口述がつづいた。出来たのは昭和十七年、冨山房から初版として出版された宮沢賢治である。
               <佐藤隆房著『自叙伝 醫は心に存す』111pより>
と述べていることからは、実質的には飛田三郎が取材した事柄も多かったであろう。
吉田 ああ、あの飛田三郎が取材したものもあるのか。それならば納得。

<仮説:高瀬露は聖女だった>を裏付けている部分
荒木 結構いろいろなことがあるようだから、箇条書きに書き直してみるとするか。 
( 1) 高瀬露は羅須地人協会のいわば準會であり、たゞ一人の女性であった。
( 2) 露は賢治が寶閑小学校へ講演に行つたのが縁となつて、羅須地人協会に出入りするようになつた。。
( 3) 露は羅須地人協会に来れば掃除や片付けをしてくれるので、賢治は『この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ』と会員たちに言っていた。
( 4) 会員たちも会に潤ひができ、殺風景でなくなったと言い合っていた。
( 5) 賢治は、『その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に頼めばいゝと思ふ。どうだね』とも会員たちに言っていた。
( 6) 露は、農村の先生であるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、都合の好い会員だった。
( 7) 露は初めのころは単に賢治の協力者として満足していたやうですが、だんだん賢治を思慕するやうになった。
( 8) 一日に二囘も三囘も訪ねて来たので、逆にの者や会員の者はいろいろと気を回して足が遠のいていった。
( 9) 賢治も、露との結婚も考へたこともあろうが、賢治はそれまで会員たちに、「農村にゐて、土を耕してゐたつて詩も出來る。それには身體のうちに持つて居るエネルギーの、たゞ一滴でも外のことに浪費してはいけない」と言ってきた手前、当惑してしまった。
(10) 当惑した賢治は、露が訪ねてくると顔に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりした。
(11) しかしそのような行為も効果がなかったので、遂には「今日不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞しました。
大体こんなものかな。
鈴木 さてでは次は、もしこの「女人」の内容が全て事実であったとした場合に、<仮説:高瀬露は聖女だった>が検証に耐え得るか否かを個々に調べてみようじゃないか。
荒木 まず前半の(1)~(6)までは皆露に関しては肯定的な事柄ばかりであり、もちろん<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例などになるものはない。
吉田 中でも、(3)の
 賢治は、『この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ』と会員たちに言っていた。
とか、(5)の
 賢治は、『その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に頼めばいゝと思ふ。どうだね』とも会員たちに言っていた。
等という賢治の発言を知ると微笑ましくなってくる。
荒木 たしかに男ばかりのむさ苦しい中に、若い女性がやって来てあれこれ甲斐甲斐しくやってくれるのだから賢治のこの発言は素直に理解できる。
 もちろん、
   ここまでは<仮説:高瀬露は聖女だった>は検証に耐えている。
と言えるし、特に(3)~(6)に注目すればこの前半部分は<仮説>を裏付けていると言った方が妥当だろう。

<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となるか
鈴木 さて問題となるのは残りの(7)~(11)だ。
 まず(7)についてだが、露の方が賢治を思慕するようになったとは言い切れないし、それこそ事実は全く逆であったということさえも否定しきれない。それは先に挙げた「ロシア人のパン屋が来たとき」のエピソードから明らかだからだ。
吉田 仮に露が思慕するようになったとしても、その責めは「女性を二階に招き入れて二人だけでいた賢治」の方が負わなければならなくなるだろう。あの当時の社会常識に従えばなおさらのことだし、それ故にこそこの件に関して賢治は父から厳しい叱責を受けたわけだから。
鈴木 だから、(7)を以てして<仮説:高瀬露は聖女だった>を棄却するまでのことはない。もしこのことで露が責められるのであれば、それ以上に賢治が責められることにならざるを得ないからだ。ところが、賢治をこのことで叱責したのは父政次郎のみであり、このことで社会的に賢治が誹られているわけでもない。その一方でアンフェアなことに、露の方が誹られているという不条理な現実がある。全く奇妙なことだ。
 なお、露に多少問題があると指摘されるとすれば(8)の後半部分かな。なぜなら、露のせいで会員たちの足が遠のいてしまったとも言えないわけでもないからな。
荒木 でもさ、この(8)の場合の因果関係の構造は
  原因:一日に二囘も三囘も訪ねて来た。
  結果:足が遠のいていった。
ということであり、しかもその
  理由:会員の者はいろいろと気を回して
ということだろ。とすれば、何も足が遠のいた原因は露一人にあるわけではないということになる。また周りも単に気を利かしたつもりだっただけのこと。したがって、(8)も<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例とはならないだろ。
鈴木 なるほど、たしかにそうだな。
吉田 また、そもそもこの原因とされている「一日に二囘も三囘も訪ねて来た」にしたって、たまたま一度ぐらいは仮にあったとしてもはたして実際にそういうことが複数回あったのかは怪しいということを、以前僕たちは既に実証したところだから、(8)そのものがどこまで真実を語っているのかという疑問も実はあるからな。だから荒木の判断は妥当な線だろう。
鈴木 それから(9)についてだが、「たゞ一滴でも外のことに浪費してはいけない」と言ったことこと以外にも、賢治は約半年間ほど下根子桜で一緒に生活していた千葉恭に対して次のようなことを語ったという。
 賢治から“君がほんとうに農民指導者になろうとするならば、次の三つのことを自分に約束出来るか。その一つは酒を飲まないこと、その二つは煙草を喫わないこと、その三つはカカアをもらわないこと”と言われた。私は考えてみた結果、酒を飲まないことも出来るし、カカアをもらわないことも出来るが、どうしても煙草だけはやめられそうもないので、そう答えた。賢治は“煙草をやめられないようでは、酒のことだって、カカアのことだってアテにならない。この話は一切御破算にしましょう”と、一笑に附されてしまつた。
              <『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会、May-55)より>
したがって、このようなことも言っていた手前もあって、賢治はこのことを自分で思い出したり、あるいは会員から指摘されて当惑したということも考えられる。
 なお、もちろんこの(9)は<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証には直接的には何等関係のないこと。賢治自身内部の問題なのだから。 
荒木 それから(10)については、「顔に灰をつけた」といわれていることは知っていたが、「一番汚い着物を着て出たりした」ということは今まで知らなかった。が、いずれにせよ、このことに関しては奇矯な行為をした賢治にこそ問題があるのであり、この(10)が<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例とならないことは明らか。
吉田 そうすると最後に残った(11)だが、
   遂には「今日不在」と書いた木札を吊すなどして
については、露に責任があるのではなくて、それはたとえば「女性を二階に招き入れて二人だけでいた賢治」が自ら蒔いてしまった種であり、
   思はぬ女難に苦勞しました。
はその結果責任だと言われてもしょうがないだろう。しかも、その賢治の結果責任が問われていない実態に鑑みれば一人露のみがこの(11)を以てして〈悪女〉にされるいわれは全くないだろう。

「女人」は<仮説:高瀬露は聖女だった>を裏付けている
荒木 ということは、残った(7)~(11)のいずれの場合も、それぞれを以てして<仮説:高瀬露は聖女だった>を棄却する必要はないということになった。
 したがって、前半グループの(1)~(6)は<仮説:高瀬露は聖女だった>を裏付けているし、残った後半グループの(7)~(11)のいずれを以てしてもこの仮説を棄却させることはできないことがわかったから、(1)~(11)は総体としては<仮説:高瀬露は聖女だった>を裏付けているということになる。
吉田 つまり、佐藤隆房の「女人」は<仮説:高瀬露は聖女だった>を裏付けているというわけだ。
荒木 少なくともここまでの段階では、俺たちの立てた<仮説:高瀬露は聖女だった>は妥当であったということになるわけだ。露が〈悪女〉でなかったことはもちろんのことだが、やはり俺の思ったとおり露は〈聖女〉だったという実感が湧いてきたぞ。おお、嬉しいな。
鈴木 なお、この「女人」のエピソードの最後の添え書き“(昭和二年頃)”は、高瀬露の証言
 賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
                       <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81pより>
を「時期」的な観点から裏付けるているとうことにも私は注目している。
 それから、最後に〝女難〟という表現はあるものの、MやGの理不尽とも思えるような〈悪女〉扱いに比べると、佐藤隆房の「女人」における露に関する記述内容は穏当だというところが私の印象だが、二人はどう感じた?
荒木 たしかにそとおりで、佐藤隆房はここでは常識的な表現をしているし、露に対しても好意的な表現も多い。
吉田 その一方で、賢治が
 この頃は美しい会員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ
とか
 そのうち、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に頼めばいゝと思ふ。どうだね
ともし言ったとすれば、賢治は都合のいいように露を利用したという誹りを受けかねないことをあの佐藤隆房がさらりと書いている訳だから、佐藤は露を〈悪女〉扱いしていないことを知ることができる。
鈴木 そこで思ったのだが、露が極端な〈悪女〉にでっち上げられていったのは少なくともこの頃以降、つまり佐藤隆房の『宮澤賢治』の初版が発行された昭和17年以降であることの可能性が高いということであり、しかもそれは恣意的に為されていったのかもしれないということだ。
吉田 それはもはやほぼ明らかだろう。なにしろ、この「女人」の中の高瀬露は現通説のような「露伝説」の露ではなくて、せいぜい昭和16年8月号『新女苑』に所収されている藤原嘉藤治の「宮澤賢治と女性」<*1>の中に登場するような露だからだ。それは、藤原嘉藤治はその中で『いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐた』とやはり二人のことを冷やかし気味に見ていたことからも窺える。
荒木 そうか、そうなんだ。昭和16、17年頃は今ほどの理不尽な扱い方を世間はしていなかったようだな。〈悪女〉扱いなどされていなかったんだ。
 また一方、賢治は『この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ』とも言っていたということだから、案外これは賢治の正直な気持ちであって、実は賢治は露に対して相当いい印象を少なくともある時期まではやはり持っていたということがこの発言からも言えそうだな。

宮澤賢治に関してのある傾向
吉田 ところで、佐藤隆房は「女人」の中で『思はぬ女難に苦勞しました』と賢治を冷やかし気味に書いているのだが、その裏で実は佐藤のこの「女人」は賢治にまつわるある一つの傾向を示唆していると思うのだ。
荒木 なんだよ、その「示唆している」こととは?
吉田 それは佐藤がいみじくも「便利と言つては變だが、やつぱりさういふ都合の好い會員でした」と述べていることから特にそう思ったのだが、
 賢治は最初のうちは露のことを都合よく利用していたが、理由は不明だが、ある時点から露のことが煩わしくなって拒絶しようとして苦労した。
ということを示唆しているような気がしてならないんだ。
鈴木 実はその図式というのは、千葉恭や松田甚次郎の場合にも当てはまるんだ。
 ちなみに、千葉恭の場合については賢治と一緒に暮らしていた下根子桜時代に、
  ・毎日々々賢治からその日食うだけの米を町に買いにやらされたり<*2>
  ・白鳥省吾の下根子桜訪問をどたキャンするために、賢治に代わってその使いをさせられたり<*3>
  ・賢治から上京費用捻出のために雪の降る中橇に蓄音機を載せて買ってくれるところを探し回ったり<*4>

等いろいろと賢治のために尽くしていたはずなのにその人物像は宮澤賢治研究上では明らかにされていなかった。そこで先に私は『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』を著したわけだが、その拙著をある著名な賢治研究家に謹呈したならば、その方は千葉恭のことを
   これまでほとんど無視されていた千葉恭氏
と仰っていた。
 また、松田甚次郎の場合には、それまでは限定的には知られていた宮澤賢治のことを全国的に知らしめた第一の功労者と言ってもいい<*5>程の人物にもかかわらず、昨今は意識的に軽視されているとも思われる扱い方を受けている。
荒木 そうなんだ。どうやら宮澤賢治の周辺には、お世話になった人物を利用するだけ利用した後に軽視したり、無視したり、あげくに露の場合のように恩を仇で返されたとも受け取られかねないような扱い方をされているような人が少なからずいるということか…。
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<*1:投稿者註> 『新女苑』(昭和16年8月号)に所収されている藤原嘉藤治著「宮澤賢治と女性」における露関連の記述は以下のとおり。
 大正十五年の春、農学校の教師を辞し、自炊生活をし乍ら農民指導をしてゐた頃である。彼のよき理解者、援助者になるつもりの自讃女性が飛び込んで来たことがある。これには宮澤賢治も「あゝ友だちよ、空の雲がたべきれないやうに、きみの好意もたべきれない」といつた風な工合で、ほとほと困つたことがある。僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐたが、女の方でしびれを切らし、他に良縁を求めて結婚してしまつてけりがついた。
<*2:投稿者註> 千葉恭著「羅須地人協会時代の賢治」(『イーハトーヴォ復刊5号』、宮澤賢治の會)より。
<*3:投稿者註> 千葉恭著「宮澤賢治先生を追つて(三)」(『四次元』7号、宮澤賢治友の会』)より。
<*4:投稿者註> 千葉恭著「宮澤賢治先生を追つて(四)」(『四次元』9号、宮澤賢治友の会』)より。
<*5:投稿者註> 既に昭和10年に文圃堂から『宮澤賢治全集』全三巻が出版されてはいたものの、その発行部数はそれほどではなかった。ところがその後の昭和14年に松田甚次郎編で出版された『宮澤賢治名作選』は売れに売れ、同書によって賢治は全国的に知られるようになった。
 ちなみに、小倉豊文によれば
 本書は文圃堂版全集についで、それに未収であつた作品を比較的多く収録してある點で當時として最も珍重されたと共に、全作品の主要なものを適當に選擇編集されてゐる點で、永久的價値ありといふべく、作品から賢治世界の全貌の大體を摑むに最適な入門書であり、その聖者的實践生活に於ける唯一の弟子の目のたしかさと、その裏に於ける作者の令弟静六氏の多大なる陰の結晶といふべき名篇である。
 本書は出版後間もなく數版を重ね、敗戦後は紙装三冊に分冊されて刊行されている。
              <『農民藝述 7号』(村井勉編、農民藝術社)43pより>
ということである。

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