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お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

『十二夜』 (シェイクスピア著)

2023年10月26日 | 読書雑感
ヴァイオラ:おなたのお人柄は分かりました、気位が高すぎます。
  だがたとえあなたが悪魔だとしても、実にお美しい。
  私の主人はあなたを愛しております。あのような愛には
  報いてあげなければなりません、たとえあなたが
  並ぶものなき美人であっても。
オリヴィア: どのように愛してくださるの?
ヴァイオラ: 神をあがめるように恋焦がれ、涙は滝のごとく、
  切ないうめき声は嵐のごとく、ため息は火を吹かんばかり。

(第一幕第五場)


公爵: だからおまえも年下の女を恋人を持べきだ。
  さもないとおまえの愛は長続きしないぞ。
  女とはバラの花、その美しさははかないいのちだ、
  散っていくのも一瞬、咲かないかのうちだ。
ヴァイオラ:それが女です、悲しいことにそれが女です、
  花の盛りと見えるときが、散り行くときとおんなじです。

(第二幕第四場)


セバスチャン: ありがとう、アントーニオ、
  おれにはありがとうと言うほか何の俺もできない、
  ほんとうにありがとう。このようにせっかくの好意が
  ただの言葉でしか報いられない例はよくあること、
  だが、おれの財産がおれの真心のど豊かであれば
  ちゃんとお礼がしたい気持ちはわかってくれ。

(第三幕第三場)

形容詞を使わない大人の文章表現力 (石黒圭著)

2023年10月10日 | 読書雑感
料理を作って親しい友人やお客様に出すとき、食べられればよいとばかりにそのままだすことはなく、器や盛り付けに気を配り、おいしそうに見えるようにする。文章も同じで読み手に伝わらない言葉、伝える力が弱い言葉を修正し、文章に一手間加えること、それがレトリックの本質。

基本的な考え方は「形容詞を避ける」こと。直感的に出てしまう形容詞に一手間を加え、どのように力のある表現に変えていくか。そのための9つの引き出し。

1. 大雑把な表現を排する(直感的表現から分析的な表現へ)
① あいまいさを避ける「限定表現」

 ・「すごい」は、意味が漠然としているため、他の言葉で言い換える。
   ポイントは、「何がすごいのか」「どうすごいのか」、漠然とした「すごさ」を言い換えで表現すること。
   人間の身体はすごい⇒人間の身体は精巧に作られている
   甲子園球場の声援はすごい⇒甲子園球場はスタンドの声援が熱狂的だ
   藤井聡太はすごい⇒藤井聡太は読みの力が群を抜いている
 ・「おもしろい」では伝わる内容が薄い。自分の興味を分析的に捉えて伝える
   日本のアニメは面白い⇒ストーリー性?映像の鮮明さ?主人公のキャラ?登場人物の設定?
 ・両義の形容詞に気をつける
     アルコールは大丈夫です、デパ地下がやばい
② 個別性を持たせる「オノマトペ」
   擬音語、擬態語で状況がイメージしやすくなり、より豊かな表現が可能となる
③ 詳しく述べる「具体描写」
 ・「かわいい」、「すばらしい」、「怖い」は、具体的に、意実に即した言葉に換える
  このネックセル、かわいい!⇒このネックレス、くりぬいたハートの中に輝く真珠がはいっていてエレガントなデザインだ
 ・形容詞を動詞で具体的に描写すると表現が力強くなる
  すばらしいお母さまですね⇒子供の言葉をきちんと受け止められる優しいお母さまですね

2. 自己中心的な発想を排する
④ 明確な基準を示す「数量化」

 ・「多い」「少ない」、「さまざま」、「いろいろ」等は発言者の主観的・相対的な基準に基づいているため、相手に正確に伝わりづらい。
  そのため、客観的な基準を伝え、具体的な表現にする
  この焼き鳥屋は休みが多い⇒この焼き鳥屋は土日にしか営業せず、店が開いている日よりもしまっている日の方が多い
  ホテルを選ぶポイントはさまざまある⇒ホテルを選ぶポイントは、部屋の広さや清潔度、朝食のメニュー、料金など、さまざまなポイントがある
⑤ 事情を加える「背景説明」
  断ったり言い訳をする際には、背景を説明して相手の気持ちへ配慮する
  いま忙しいんでダメです⇒締切間際の仕事を抱えているので、今は手が離せないのです
⑥ 出来事を用いる「感化」
  「幸せ」や「せつない」といった言葉では自分の気持ちが相手に伝わりづらいため、形容詞を動詞に換えて事実や出来事として描写したり、状況を詳しく説明する
  「せつない」事例:病室で、白い布をかぶせられてベッドに横たわる娘にすがりすいて号泣する母親

3. ストレートな発想を排する(直接的表現から間接的表現へ)
⑦ 表現を和らげる「緩和」

 ・否定表現はヒトひねりしたり別の見方を探す
  うわー、不味い!⇒ちょっと私の口に合わないかな / きっと好きな人にはたまらない味なのでしょうね
⑧ 裏から迫る「あまのじゃく」
 ・表現が直接的すぎる形容詞の代わりに、対極的・前向きな見方をしてみる
  つまらない会議だった⇒今日の会議は面白ことは少なかった / 今日の会議は報告事項が多くて新鮮味に欠けた
  厨房がうるさい⇒厨房の声が大きく、テーブルでの会話が不自由だったのは残念でした
          / 厨房をもう少し静かだと、落ち着いて食事ができたのにと感じました

 ・ネガティブな言葉を使って自分の感情をストレートに出さずに、ポジティブな表現な表現に換える
  悔しい⇒残念な気持ちになった / いい勉強になった
 ・肯定的かつ具体的に言い換える
  退屈な人生⇒面白ことは週1回ぐらいしかない / 毎日、同じことの繰り返しだな
⑨ イメージを膨らませる比喩
 「目を閉じていきを吸い込むと、それがやさしい雲のように僕の中にとどまる」(村上春樹独特のひと手間加えた表現)
 大きな土地⇒東京ドーム3つ分の広さ
 ・陳腐な比喩は別表現にする
  死ぬほど暑い⇒焦げ付くほど暑い / めまいがするほど暑い / 命が危険にさらされかねないほど暑い
   「暑い」のは日差しの強さ?気温の高さ?身体への影響?



『戦史』 トゥキディデス著

2023年08月16日 | 読書雑感
大きな判断をはばむ大敵が2つある。すなわち、性急と怒気だ。性急は無思慮に陥りやすく、怒気は無教養の伴侶であり狭隘な判断を招く。また誰であれ、理論をもって行動の先導者たらしめることに頑迷に異論を唱える者は、暗愚か偏見か、そのいずれかのそしりを免れない。なぜ暗愚かと言えば、見通しの定かならぬ未来の帰趨を言葉以外の方法によって説明できると考えるからである。また、なぜ偏見かと言えば、醜怪な説を通さんと欲しながら、己の弁明の術をつくせば、反論者を脅迫し反論に耳を傾けるものを脅迫できると考えるからである。
だが、何よりも始末におえぬ手合いは、反論者は買収されて巧みな説を売っていると相手を頭から非難する人間ども。なぜなら、相手の認識不足を指弾するにとどまれば、論戦に敗れたものも知性に劣りを見せたかと思われるであろうが、己の徳性は傷つけられずに議論の場をを去ることができる。だが、いったん不正なりとの中傷を被った論者は、よし説をと教えても世人の疑惑を免れがたく、もし説が敗れれば知徳ともに劣るものと言われよう。これによって損をするのは我らの国、人は中傷を恐れ、衆議を集めることができなくなるからだ。
(中略)しかしながら、きわめて重大な問題について、しかもかくのごとき条件を覚悟で提案者の立場に立つ我々は、諸君の近視眼的視野よりはるかなる展望のもとに論を進めているのだ、と考えてもらいたい。のみならず、我々は己のなす提案について後刻責任を問われうる立場から、なんの責任も問われない聴衆という立場にある諸君に話しかけねばならないのだ。
(巻三 ディオドトス)

諸君は常々話を眼で眺め、事実を耳で聞くと言う悪癖を培ってきた。口達者な連中が、かくかくの事件がやがて生じうると言えば、その通りかと思ってそれに目を奪われる。だが事が起こった後になっても、事実を己の目で見ても信じようとせず、器用な解説者の言葉にたよっ耳から信じようとする。そして、奇矯な論理でだぶらかされやすいことにかけては、諸君は全く得難いカモだ。とにかく一般の常識には従いたがらない。なんでも耳新しい説であればすぐその奴隷になる。だが尋常な通念にはまず軽蔑の念をいだく。しかして誰もかも、雄弁家たらんことを熱望しているば、それも現実には叶わぬ夢とあっては、われがちに名聴衆たらんと狂奔する。雄弁家のむこうを張って、ただ考えるだけなら弁者の公人を拝するものかとばかりに、弁者が鋭い点を突けばその言い終わるを待たず拍手喝采し、言われる前から先に先に冊子を付けようと夢中になるが、提案から生じうる結果を余談することにかけては遅鈍そのものである。(中略)要するに、諸君は一国の存亡を議する人間というよりも、弁論術師を取り巻いている観衆のごとき態度で美辞麗句にたわいもなく心を奪われているのだ。(巻三 クレオン)

注:古代ギリシャの民族
移動の第一波として前20世紀頃、アカイア人がバルカン半島に南下し、のちにミケーネ文明を成立させた。移動の第二波として前12世紀頃ドーリア人が南下し、ミケーネ文明の滅亡とあいまって、ギリシア各地に人々は移動・定住した。定住後のギリシア人は、方言によって、東方方言群(イオニア系・アイオリス系)と、西方方言群(ドーリア系)に分類される



『ギリシャ人の物語』 塩野七生著

2023年08月15日 | 読書雑感
ペリクレスの「説得力」が効力を発揮できた最大の要因は、それを聴くアテネの市民たちに、支店を変えれば事態もこうように見えて来る、と示したところにあった。(中略)自信があれば人間は平静な心で判断を下せるのである。反対に、不安になしその現状に怒りを持つようになると、下す判断も極端に揺れ動くように変わる。いまだ自信にあふれる市民たちを相手にすることはできたペリクレスが、民主制の国アテネで30年もの間「ただ一人」でありえた要因は、別の視点を示し、その有効性を解くだけではなかったと思う。彼の演説の進め方にもあったのではないか。(中略}視点を変えてにしろ現状を明確に見せた上で、ただしこの政策への可否を決めるのは、あくまでもきみたちだ、と明言する。ペリクレスの演説を聴く人は、最期には常に将来への希望を抱いて聴き終わる、という点である。誘い導くという意味の「誘導」という日本語くらい、ペリクレスの論法を表現するにふさわしい言葉もないのではないかと思う。

「アテネでは、貧しさ自体は恥とはみなされない。だが、貧しさから抜け出そうと努力しないことは恥と見なされる」{ペリクレスの演説の一部}

民主制のリーダー:民衆(デモス)に自信を持たせることができる人
衆愚制のリーダー:民衆(デモス)が心の奥底に持っている漠とした将来への不安を煽るのが実の巧みな人
前者は、プラス面に光を当てながらリードしていくタイプだが、後者となるとマイナス面を暴き出すことで不安を煽るタイプのリーダーとなる。


ギリシャ人が後世のわれわれに遺した最高の贈り物は「中庸」の大切さを指南してくれたことにあると思っているが、「中庸」とは簡単に言ってしまえば左右いずれにもかたよらないところに着地点を見出す心構えにすぎない。日本語の「良識」は適切な訳語だと思う。

知識人の存在理由の一つは、すでに存在していた現象の中でも重要と見たことを、原語を使って概念化することにある。ゆえに、論理と現実が両立できるとは限らない、とは、アリストテレスの生まれない前からすでに人間世界の真実であったのだ。

論理的には正しくても人間世界では正しいとは限らない、とは、アリストテレスの言である。

アリストテレスが弟子たちに教えたのも、基本的には次の3つに集約されていただろう。
第一に、先人たちが何を考え、どのように行動したかを学ぶ。これは歴史であり、縦軸の情報になる。
第二は反対に横軸の情報で、言うなれば日々もたらされる情報。学ぶべきことは、これらの情報に対しては偏見なく冷静に受け止める姿勢の確立。
最後は第一と第二に基づいて、自分の頭で考え自分の意志で冷徹に判断した上で実行に持っていく能力の向上。


他者より自分のほうが優れていると思ってはならない、とソクラテスは教えた。しかし、そう思ってこそ、できることもあるのだ。他者より秀でていると自負するからこそ、他者たちをリードしていく気概を持てるのである。組織や国家という名の共同体を率いていく想いを持つのも自負心による。無知を知ることは、重要きわまりない心の持ちようであるのは確かだ。だが、「羊」である思う人ばかりでは誰が羊の群れを率いていくのか。

アルキビアデスの言葉を現代風に解釈すれば、30半ばのリーダーは市民たちに、発想の転換、視点の変更、それゆえの逆転の発想の必要性を説いたのである。つまり、未解決の問題にかかわり続けているよりも、他の問題を解決することによって未解決の問題の解決に持っていく、という考え方であった。

悲劇は人間の気高さを描くが、風刺喜劇では人間の劣悪さが笑いとばされる。

あらゆる理念。概念を創造したギリシャ人だが、「平和」という理念だけは創り出せなかったのだ。ギリシャ人にとっての戦争をしていない状態は束の間の休戦にすぎなかった。
古代の見本のように思われている民主政治を生んだギリシャは、実は内輪どうしの内ゲバを繰り返していたことが真実であったのだ、ということがこの本を読んでよく理解できた。華々しいペルシャ戦役と民主主義誕生という出来事だけに目を奪われずに、歴史を紐解いていくことの重要性が再確認できた。







『失楽園』ジョン・ミルトン著

2023年06月08日 | 読書雑感
「善を為すのも為さないのもわたしの自由であり、必然も偶然も、わたしに手を触れることはできぬ。わたしがわが意志と示すものこそ、運命なのだ」(第七章)

「最初わたしが人間を創造った時、彼に幸福と不死という二つの佳き賜物を与えておいたのだが、その幸福がむなしく失われてしまった。そうなれば、残ったもう一方の賜物である不死も、人間の苦悩をただ永遠ならしめるのに役立つにすぎなくなり。わたしが『死』をあてがってやるまでは、その苦悩は続こう。そうだとすれば『死』は人間の最後の救いの道ということになろう。人間が苛烈な苦難の試練を経、信仰と信仰の業によって浄められてこの世の生を終えたのち、正しきものの復活の機会が来るに及んで眠っているその人間を呼び醒まし、再び新しくなった天と地とともに、第二の生命へと甦らせるもの、それが『死』だ。」(第十一章)

「その死という傷を癒やすことのできる方こそ、お前の救主として来り給う方だ、それもサタンその者を滅ぼすことによってではなく、お前とお前の子孫のうちに働くサタンの業を亡ぼすことによって癒やし給うのだ。そしてこのことは、死の刑罰を条件として課せられた、神の律法への服従という、お前にはできなかった務めを救主がてゃたされることによって、また、お前の罪過と、そしてそれから生ずるお前の子孫の罪過とに当然課せられなければならぬ刑罰としての市の苦難を、自ら負われることによってのみ可能なのだ。(中略)主の市は人間のための、ーそうだ、贈られた永遠の生命に感謝し、その恵みを善き業を伴う信仰によって受け入れるすべての人々のための、死だ。この神々しい行為が、罪に沈淪して生命から永久に見放されたお前の宿命を、お前の当然死ぬべかりし死を、抹消する。この行為がサタンの頭を砕き、その力を粉砕し、その両腕として猛威を揮っていた『罪』と『死』を亡ぼし、この両者のもっていた針を彼の頭に深く差し込む。死は眠りに似ている。死は永遠不朽の生命への静かな移行に他ならない。」(第十二章)

『おだやかに:、シンプルに生きる』 枡野俊明著

2023年05月28日 | 読書雑感
1. シンプルにいきるための方法
春来草自生(はるきたらば くさ おのずからしょうず)モノゴトは自ずからやってくる
そんなに長く厳しい冬も、どんなに暑い夏の日でもやがて終わる。人間の計らい事を超えたところに「真理」というものがある。すべての物事は私たちの人智を超えたところにある。悩みや悲しみから無理やり抜け出そうとするのではなく、必ず抜け出せる時が来るのだと信じて、ただ自然の成り行きに任せる。
非思量(ひしりょう)頭でばかりいるからイライラが募る
イライラや怒りの感情にとらわれないように、「もうこれ以上考えるのは止めよう」と自分に言い聞かて、できる限り「考えない」という方向に頭を持っていく。
動中静(どうちゅうのじょう)どんな環境のもとでも心静かにいること
どんな環境にいようが周りの騒がしさに包まれていようが、いつも心を静かな状態に保つことが大切。そのためには静かに丹田呼吸を行って頭の中を空っぽにしてゆっくりと行きを吐き出す。それだけで心の揺れは収まってくる。
水急不月流(みずきゅうにして つきをながさず)普通や常識に流されない
自分が勝手に決めつけた「常識」や「普通」に縛られずに自分自身の心に正直にいきていくことが幸せにつながる。
無功徳(むくどく)結果が出ないからと落ち込む、それは結果を期待するから
「報われる」というのは、自分自身の人生が豊かになると言うこと。人生とは淡々とした小さいな努力によって善きものになっていく。
八風吹不動(はっぷうふけどもどうせず)湧き出る感情に振りまわされないように
心に芽生えてくる感情は素直に受け止めるが捕らわれないように。心に湧き上がってくる喜怒哀楽、それを素直に受け入れつつ、サッと流していく。
体露金風(たいろきんぷう)目に触れるものそのものが悟りの姿
たくさんの葉や実を付けた木も、彼は手て姿を露わにした木も、一本の同じ木。姿かたちは変えてても本質は変わることはない。その本質のなかにこそ、最も大事なものが宿っている。
喫茶喫飯(きっさきっぱん)今時分がやっていること、そのものになりきることが大事
今目の前にあるやるべきことになりきる。目の前のことに心を集中させる。そうることで苦しみや辛さは消える。苦しさや辛さというものは、そのものになりきれないあなたの心が生み出している。
冷暖自知(れいだんじち)何事も自ら経験しなければ分からない
人生の体験の中には、無駄なものは一切ない。人間がもつ五感を駆使して、自らの力で体感することで、自分が確かに生きているという実感を得ることができる。
形直影端(かたちなおければ かげただし)姿勢を正せば自ずと生活も整う
見た目の向こう側には必ずその人の心が透けてみるもの。日々の生活習慣を整えることで、心と体は美しいものとなる。
独座大雄峰(だくざだいゆうほう)いまここに生きていることが有難い
今こうして生きているという有難さに目を向ければ、無為な一日をすごすことはなくなる。
眼横鼻直(かんのうびちょう)ありのままの自分でいることが平常心につながる
社会の波に飲み込まれないためにも自分という一本の基軸をしっかりと見据えておくこと。「今の自分は本来の姿なのか」、「どこまで自分の心に無理をしいているのか」、それを見つけるためにも、日々に自問自答することで自分の心と対話をする。
日々是好日(にちにちこれこうにち)毎日をかけがいのない日となるように生きる
良い一日と悪い一日を決めつけているのは自分自身の思い込みにすぎない。日々に押し寄せてくる感情にばかり左右されないこと。雨の日にこそ、明日の晴を信じて前を向くこと。毎日がかけがいのない一日だから。

2. 人づきあいの心得
挨拶
(あいさつ)人づきあいが下手だと思っている人へ
人間関係を築きたいと思う人がいるのであれば、とにかく毎日「おはようございます」と大きめの声で挨拶をすること。流暢に話さなくても、少しずつの会話の積み重ねで互いの信頼関係は深まっていくもの。
悟無好悪(さとれば こうおなし)色眼鏡をかけたままで人を見ないようにする
すべての色眼鏡を外して、そこに見える風景こそがあなたの本心なのです。
一期一会(いちごいちえ)この一時に生きる
心に浮かんだ思いをないがしろにすることなく、その小さな思いを大事にする。
白雲自在(はくうんじざい)非とも心も白雲のごとく融通無碍
自分自身の芯を持ちながらも、大きな流れに乗ること。これまでとは違った風景が見えるはず。人生は自在に愉しむことが大切。
山花開似錦(さんかいひらいて にしきににたり)移り行くことこそが永遠の真理
すべての物事を「たまたま」と捉えてみる。そしてこの「たまたま」の状況はいずれ移り変わっていくと考える。むやみにもがくことをせず、大きな流れに身を委ねる。命がある限り、必ずや花は咲くもの。
杓底一残水 汲流千億人(しゃくちえのいちざん ながれをくむ せんおくにんひとの目の届かないところでこそ徳を積む
誰かに褒めてもらいたくてやるのではない。何かの損得を考えてやるのでもない。ただ自分の心の中にある善意に従って行動していく。それが人間の徳に繋がっていく。
愛語(あいご)思い遣りのある言葉遣いを心がける
言葉のすれ違いはやがては心のすれ違いになっていく。人と人をつなぐ大切な言葉を蔑ろにしてはいけない。触れ合う人たちに思い遣りの心を持って、相手の気持ちを想い優しい言葉をかける。
感応道交(かんのうどうこう)お互いに信じあう関係
社会生活をしていく上で身にまとっている鎧を脱ぎ捨てて、丸腰になる時間が心を柔らかなものにしてくれる。
自未得度先度他(じみとくどせんどた)まずは自分のことよりも相手のことを考える
すこしでも相手を優先する気持ちを持つことで自分自身の心が穏やかになる。
薫習(くんしゅう)できるだけ尊敬できる人の傍にいること
人間とは常に影響を与えながら生きている。互いに尊敬の念を抱きつつ、互いに善き影響を与え合うことが本来の人間関係。
鼻無心招蝶 蝶無心尋花(はなむしんにしてちょうをまねき ちょうはむしんいしてはなをたずぬ)縁は平等に訪れてくる
縁はすべての人に平等に訪れる。大切なことはその流れてくる縁に気付き、それを自分の手でつかみ取るかどうか。
白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)孤独な時間を持つことがすとれるを和らげてくれる
孤独の中にこそ穏やかな心になる種が宿っている。孤独になって考えてみることで、ものごとを客観的にとらえることができる。

3. 仕事との向き合い方
而今
(にこん)仕事の失敗をひきずらないように
私たちは「今」この瞬間にしか生きることができないから「今」という時間を大切に生きる。「今」自分がやるべきことは何かを考えて行動に移す。
歳月不待人(さいげつ人をまたず)時は人を待たない
残された時間を意識する。そして与えられた今日という日を一生懸命に生きて心が満足するような一日を心掛ける。
曹源一滴水すべては一滴の水から始まる
目に見える急激な成長などない。小さな積み重ねを疎かにしない。
一行三昧(いちぎょうざんまい)一つのものになりきる
「ながら」は無駄を生む。一つ一つのことに集中して取り組んだ方が、確実に物事は早く進む。
柔軟心(にゅうなんしん)とらわれない心を得る
「ねばならない」という考え方が人生を息苦しくする。自分を縛っているのは自分自身の心。
任運自在(にんうんじざい)すべてを流れに任せきる
人生にはめぐりあわせがある。流れに身を任せて生きていく。
人間到処有青山(じんかんいたるところせいあんあり)人間は本来、天職などというものは持っていない
ほとんどの人は自分の力と努力で天職を生み出す。今の仕事を頑張ることで青山は見つかるはず。
少水常流如穿石(しょうすいつねにながれて いしをうがつがごとし)絶え間ない努力は必ず実る
夢とは社会や他人から与えられるものではなく、自ら生み出すもの。夢に向かって歩むことこそが、人生を輝かせてくれる。
放下着(ほうげじゃく)過去のキャリアや成功体験にしがみつくことは仕事を後退させることと同じ
キャリアには終わりはない。常に磨き続けるからこそ、そのキャリアは輝くことができる。磨き続けるためには、決して過去に囚われてはいけない。
銀椀盛雪 明月蔵鷺(ぎんわんにゆきをもり めいげつにつきをかくす)人間に得手不得手があるのは当たり前
人の才能はそれぞれ。
三級浪高魚化龍(さんきゅうなみたこうして うおりゅうとけす)本気でやってみたいと思うことは恐れずにチャレンジすること
本気で取り組んだことには後悔の念は残らない。後悔の念とはあなたが目を逸らしたそこにこそある。
閑古錐(かんこすい)年を重ねたからこそやるべき仕事がある
今の自分の年齢でやるべき仕事、果たすべき役割とは何なのか、それを見つけた人は必ず社会から必要とされる。

4. 自分を高める智慧
平常心是道
(びょうじょうしん これどう)日常生活そのものが道をなす
目の前にある幸福の種に目を向ける。自分に与えられているすべてのものに感謝する。自分の身の回りにこそ真実は現前している。
莫妄想(まくもうぞう)自分にとって不要なものを見極めること
その欲望があなたの人生にとってどれほどの意味を持つのか、あなた自身を高めてくれるものかどうかを考える。
一日不作 一日不食(いちにちなさざれば いちにちくらわず)今日なすべきことを粛々となしていく、その積み重ねことが人生
自分がなずべきことはこれだと見極め、そこに心を尽くしていく。その積み重ねこそが、あなたの人生となっていく。周りと比べる必要などない。
薫風自南来(くうぷうじなんらい)自由自在の無心のなすこと
人間の心とは本来は自由なもの。不自由さをかんじているのであれば、それは自らが持っている無心を忘れているから。
直心是我師(じきしん これわがし)ありのままの心が道を示す師となる
自分自身の人生を歩むためには、常に自分自身と対話する。我が本心は何かの香を問い続ける。
無念無想(むねんむそう)とらわれから離れ、ただひたすらに生きる
考えることで不安が消え去るのなら考えればいい。そうでないなら、何も考えない方がいい。丹田に意識を集中させてゆっくりとした呼吸を心掛けることで、心を開放する。
生死事大 無常迅速(しょうじじだい むじょうじんそく)忙しいが口癖の人ほど、じつは時間を無駄にしている
一日の中で心に余裕を持てる時間を意識的に作る。そんな生活リズムを作っておけば、いそがしさから解放される。
他不是吾(たこれわれにあらず)自分ができることを他人任せにすることは慎むべき
生きているという実感は自分自身でやるからこそ生まれてくる。
柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)自然はそのまま真実の表れ
自分の力が及ばないことは、それを心で受け止めながら生きていく。そして自然の中に身を置くことで、自分自身も自然の一部であることを感じる。
直心是道場(じきしん これどうじょう)大切なことは環境を整えることではなく、志を持つこと
何かを成し遂げたいという熱意と志があれば、人間は成長することができる。
松樹千年翠(しょうじゅ せんねんのみどり)大事なものはいつも目の前にある
本当に大切なものは、変わりゆくものの中にはない。変わることのない心に目を向けることで、人間としての幸せが見つかる。
巖谷栽松(がんこくにまつをうえる)未来を信じて苗を植える
今の自分のためでなく、未来のためになすべきことをなす。
百花春至為誰開(ひゃっかのはるにいたって たがためにかさく)誰のためでもない、ひたすらの心を持つ
不安や心配とは雑念の中から生まれる。雑念から抜け出し、自分自身がやるべきことだけに目を向ける。自らに与えられた本文に心を寄せる。
大道通長安(だいどうちょうあんにつうず)どの道を歩んでも、人間は必ず幸せに辿り着くことができる
人生の道のりは選択の連続。勇気と自身を持って自分で選択する。人生の歩みを止めなければ、幸福の最終地へたどり着ける。

『ルネサンスとは何であったのか』 塩野七生著

2023年04月25日 | 読書雑感
芸術作品とは、仲介者なしでそれと一対一で向き合い、作者が表現しようとしたことを虚心に受け止めるべきものだと感じたのである。作者との一対一の関係に慣れるには、何よりもできる限り多くの傑作を自分の眼でじかに見ることが重要だ。

土地は持っていないが、頭脳は持っている人々が集まって作ったのが都市国家です。都市とはイコール頭脳集団、と言ってよいくらい。それまでの「ノーヴィレ」(貴族)な血筋の問題であったのが、「血がノーヴィレを決めるのではなく、精神の高貴さが決める」ように変わってくる。所有する土地の広さと何代も昔にまでたどれる血統い代わって、才能の豊かさと気力の強さが、人間の評価の基準になっていったのです。

肌で知っているだけでは、彼個人の智慧にはなっても他者もふくめての共有財産にはならない。科学的に探究しその結果を言語を通して公のものにしてはじめて、実地に経験したことのない人でも共有が可能な智慧になるのです。

原語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、原語を使って表現していく過程で自然に生まれる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。明晰で論理的に話掛けるようになれば、頭脳のほうも明晰に論理的になるのです。つまり、思考と表現は、同一線上にあってしかも相互に働きかける関係にもあるということ。また、流れがこのように変われば、自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の言葉で話し書く魅力に目覚めるのも当然の帰結です。神を通して見、神の意に沿って考え、聖書の言葉で話し書いていた中世を思い起こせば、ルネサンスとは「人間の発見」であったとすルブルクハルトの考察は正しい。

人口の激減とは、やむをえずにしろ人々の関心を効率性に向けざるを得なくする。それ以前は都市に流れ込んでくる人の量を頼りに上昇していたフィレンツエ経済も、ベスト以後は、質を重視し個々の生産性の向上を期すやり方に変わっている。(中略)1348年から49年にかけてのペストの大流行は、経済大国になりつつあったイタリアの都市国家に、経済構造の再構築を強いたのではないかと思うくらいです。

宗教とは信ずることであり、哲学は疑うことです。唯一の原理の探求も、哲学では原理の樹立と破壊を繰り返し行うことによってなされるものであって、いったん打ち立てた原理を神聖不可侵なものとして堅持しつづけることでなるものではない。哲学とはギリシャ哲学につきると言ったのは、ギリシャ時代は多神教の世界だったので、神聖にして不可侵としなければ成り立たない、一神教の規制を受けないで済んだからですよ。

文化の想像とは、いかに優れた資質に恵まれていても、純粋培養ではできないのです。異分子の混入による刺激が、どうしても必要になる。

このルネサンスが現代の我々に遺した遺産を総括するとすれば、まず第一は現代人が肉体の眼でも見ることができる芸術品の数々。遺産の第二は、精神の独立に対する強烈な執着。言い換えれば、自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の言葉ないし手で表現することによって他者に伝える生き方です。遺産の第三は、二元論ではなく一元論的な考え方。(中略)古代ギリシャやローマでは、多神教であった事情から神さえも善と悪の双方をともにもつ存在とされていました。それが人間となればなおのこと、自分の内に善と書くの双方を持っている。となると、悪を抑えて善をより多く発揮させながら生きるにはどうすればよいか、がj」最重要な課題になる。この古代を復興したルネサンスでは、当然ながら人間が中心にならざるをえない。善悪ともを撃ちにかかえる人間が中心になれば悪は他人の粉うことで自分は知ったことではない、などどは言えなくなります。悪もまた我にあり、なんです。」ただしこれは、自己コントロールを求められるおいうことですから、精神も強靭でなければならず、ルネサンスとは精神のエリートたちによる運動であったと言えるかもしれません。

戦後の日本文学には、松本清張、司馬遼太郎、藤沢周平という流れがあります。松本清張は、戦後の下層階級の孤児のような存在を描いてきた。孤児が成り上がっていくプロセスの中での犯罪というのを取り上げた。そのことによって、戦後の混乱した占領期から高度経済成長期に至る時期をうまく捉えた。日本が高度経済成長に乗った段階で、経営者、管理者、指導者がモデルとすべき存在を歴史上に求めて書いたのが司馬遼太郎。そのあと、中間管理職の悲哀を江戸時代に仮託して書いたのが藤沢周平です。

総司令官は一兵卒までが働いてくれないと絶対に戦闘で勝てないので、一兵卒の気持ちまで把握しているものです。食の心配までする。だけど、中間管理職の場合は、自分は上から任命されのあで、上にばかり目がいく。それは当然なんです。だから、下に目が届かないということを非難しても、その避難は人間の本性からして適切ではないと思います。

『誰が国家を殺すのか  日本人へⅤ』 塩野七生著

2023年04月25日 | 読書雑感
二千年昔のローマ人にできたことが、なぜ今の人間にできないのか。自然科学が先人たちの業績を学びながらその上に新しい考えを付け加えていくのに対し、人文系を自任している人の多くは、過去を捨ててこそ進歩ができる、と信じているからだろう。

中高年になってからのおしゃれは、自分に似合うことよりも風景画の中の点景になる、と思ってはどうでしょう。

宇野クン、自分を追い詰めていたのではいつまでたっても二位ですよ。一位になりたかったら、自分を解き放ってやることです。

レオナルド没後五百年の記念番組でしゃべりまくる識者たちをみて考えた。レオナルド・ダヴィンチは「鏡」ではないかと。彼を解明するというより。この天才を論評する人の品位、というか姿勢、のようを映し出しているのではないかと。論評される側にまわってしまった人の全員が、論評する側を映す「鏡」になるのではないか。

多神教の神々は、信ずる人を助け保護する存在。反対に一神教の神は、信じる人々に、こう生きよ、と教示する存在。

『ユングでわかる日本神話』 林道義著

2023年04月17日 | 読書雑感
神話は単に暗誦され語られていただけではなく、本当に現実にあるかのように演じられていたのです。今日では「儀礼」とか「祭り」という言葉で表されるような行事の中で、神話どおりの演劇がなされました。人々はそれを見たり聞いたりしながら、自分のルーツを確かめていたのです。世界はどのようにして出来上がり、どういう構造になっているのか、人間はそもそもはどのようにして生まれたのか、死んだあとはどこへ行くのか。こういう一番大切なことにすいて教えられ、納得して、「自分を根拠づけて」くれるものが神話であり、その内容を演じたものが儀礼だったのです。(中略)自分たちのルーツへの問いに対する答えはもちろん論理的ではなく、心理的でした。たとえば、「人間は生まれ変わる」という神話は、「何も悪いことをしていないのに、どうして不幸になるのか」という疑問に心理的に答えてくれるものとしては、上手くできた物語でした。

神話の中の一つひとつの話が、何かを表現しているシンボルなのです。個々のイメージだけでなく、物語の筋立てを全体として、そうした意味を含んだシンボルと見ることができるのです。

シンボルが意味しているものを解明するためには、ユング心理学の「元型」という概念が大いに参考になります。「元型」というのは、人間が無意識のうちに共通にもっている普遍的なイメージであり、それを具体的なイメージで表しているのがシンボルです。(中略)日本神話に出てくるシンボルの意味は、単に世界共通の意味を表しているだじぇではなく、その当時の日本人が託した大切な意味が込められているはずです。つまり、シンボルのいみは、一方では世界共通の原型的な意味を突き止めると同時に、他方では民族固有の個性的な意味を明らかにするものでなければなりません。

「元型的シンボルとは無意識の中にある内容を表している」のではなく、意識との活計の中で現れてくる元型こそ重要な意味を持っているのです。すなわち意識の発達やあり方に呼応して、それに見合って現れる元型に注目すべきなのです。

神話の世界でうは、天地が分離することによって世界が始まるのですが、(中略)ユングは、天と地が分かれることはそもそも意識の発祥、意識の誕生を意味していると考えていました。ノイマンは意識が生まれるのは物事の区別を認識した時であると言っています。すなわち意識というのは区別する働きであって、最初に区別されるのは光と闇です。さらに彼は光の出現と天地分離のイメージを自我の誕生と関係づけ、「人間は字がを際立たることによって、すなわち原両親を引き裂き、原竜を切り刻むことによって、はじめて息子として自由になり、光の中へ歩み入り、初めて自我を備えた人格として誕生する」と言っている。

■ 天地分離の型
・原両親の分離
・宇宙卵:卵の殻から天空と大地を作ったという話
・死体化成:原人、母なる怪獣の死体を切り裂いて天と地を作ると言う話

■ 天地分離後の話
・出現型:天と地が分かれたことを前提にして、そこに神が登場する
・海水型:海の中や底からモノを持ってきて大地を作る
・創造型:素材のあるなしに関係なく神が自分の意志によって作る
・出産型:両性による出産により島が生まれる

■ 日本神話の特徴
出現型と海水型と出産型とが入り混じっている。
「イザナギとイザナミがナメノヌボコをさし入れて攪拌する」=意識の世界から無意識の世界に働きかけている
オノゴロシマの誕生=意識の誕生と関係があり、意識のよって立つ基盤という意味

■ 地下世界
意識が誕生すると、無意識の方はそれと対立するものという形でシンブルの中に立ち現れる。意識と無意識の対立を表す一連のシンボルは、明らかにプラスのイメージとマイナスのイメージの組み合わせになっています。たとえば上ー下、光ー闇、明ー暗、善ー悪、幸ー不幸、生ー死、など、
ノイマンは英雄の「竜との戦い」を「動k通夜明解へはいっていくこととしてdが枯れたり、飲み込まれることとして、つもり母との近親相姦として描かれると」という。ある程度発達した意識からみると、冥界とは意識を呑み込んでしまうという意味で恐ろしいところに見える。冥界へ行くと帰れなくなるという恐怖は意識が無意識に負けてしまうという恐怖。

■ 起源神話を心理学的に考える
死の起源、性の起源、文化の起源が同時に語られるという特徴が世界中の神話に見られる。たとえば、イザナミが火の神カグツチを生むことによって死ぬ間際に金属の神さま、粘土の神さま、穀物の神さまなどが生まれる。(中略)蛇に騙されて木の実を食べたために人間は裸であることが恥ずかしいという感情がおきた、つまり性を知った。そしてイブは漆んでお産をする。また人間は土に帰る=死ぬ運命を与えられる、額に汗して濃厚して得られるパンを主食にしなければならなくなる=濃厚という文化

■ 文化起源の三類型
・排泄・産出型:
・対立・窃盗型:火を盗むプロメテウス
・継承型:
いずれの型も、無意識の世界からよい内容をもらってきたり、盗んできたりする。つまり無意識の世界の内容を取り込んで、意識の内容にするという特徴を持つ。意識というのは自分で内容を作り出すということはめったにない。意識は外の世界や無意識の中から材料を持ってきて内容を作る。

■ 神話における破壊、神の罰、争い
これらは破壊衝動、悪の原型を表している。破壊の後に必ず再生とか生まれ変わり、新生が出てくるのも元型的で普遍的。どうにも二進も三進も以下なkなって悪くなって行き詰ってしまったら全部ご破算にしてりせっとしたいという心理。要するに、上手くいかなくなったわるくなった、それらを全部破壊して新しくしたいという心理。




『花の影』 平岩弓枝著

2023年02月24日 | 読書雑感
一人の女性の生き様を、桜になぞらえて描く。桜の24時間を八つに分断して、十代から八十代までのその女性の生きた軌跡を描き切った小説、それが『花の影』。夫を捨ててまで一緒に版画画家と暮らした母親と同様に、版画画家の息子と恋に落ちたものの、互いのすれ違いから結婚することなく、男の影を引きずりつつ、影の存在として一生を終えた幸せな女性の物語は、こんな具合に桜になぞらえられている。

十八歳のとき
夜のすみに、僅かに白さが感じられるほどの時刻であった。

二十四歳のとき
午後六時の桜は、ごく薄い靄の中に居た。どこか、もったいぶってみえるのは、用心深さのせいであった。朝の桜は、これからの自分になにが起こってくるのかまるでわかっていない。
やがて陽が靄のふちを通ってオレンジ色に輝きだすと、花は初々しさに満ちた。若い自信と不安が、花の両側にある。それが、この時刻の花の魅力のようであった。

三十五歳の時
午前九時の桜は、細い雨の中で、なにかに耐えているようにみえた。
もっとも、濡れた花の色は一層、うす紅を増し、花片にはお雨をはじき返すほどの弾力があった。
この季節の雨は、花の美しさにしっとしているようなところがあって、きれいに咲いた花の上に限って容赦なく振り続ける。
それでも、花は、毅然とした貌を決してうつむけなかった。

四十歳のとき
正午の桜はこの時期にしては明るすぎるほどの日差しの中で、あでやかに咲いていた。
薄紅色の小さな花は、一本の枝に丸く群がるように咲き誇っているのに、どこか寂びしげにみえるよは、広すぎるほどの空と入り組んだ備前の海を背景にしている所為かもしれなかった。

五十一歳のとき
午後三時の桜は、どこかで自分の運命を甘受しているようなところがあった。
やがて訪れてくる夕暮を待つ間の、ほのかな倦怠の中で放心したように人生をみつめていることが多い。その貌は、常に寂しげだったが、寂しさが身についてしまった落ち着きがある。そして、花は、自分がもう満開のときを過ぎているのに気が付いていた。

六十一歳のとき
夕暮れの桜は、漸く強くなりはじめた風の中にあった。
たそがれに、花は白く、まだ色も香もある風情であったが、桜はそれを恥じるかのように、貌をそむけている。
夜の暗さの近づくのを、花が強風に耐えながら、ひとすら待ち続けているようであった。

七十歳のとき
午後九時の桜は、月光の中にあった。そのせいか、花は昼よりも蒼味を帯びて見える
夜の帳は桜の周囲に会った余計なものを少しずつ闇の中に包み込んでいた。
それは、花にとって、わずらわしさはなくなったものの、なにかした物足りない、寂しげな気分であった違いない。
それでも、桜の老樹は大地にしっかり根を下ろし、梢の花は玲瓏と光り輝いていた。

八十二歳のとき
真夜中の桜は、無数の星を頂いていた。
或る星は、間近く光、或る星ははるか彼方の大空から桜を見守っていた。
星かありを花片に受けて、桜は闇の中でしらじらと気品に満ちている。
そして、花はすでにちるための身支度をはじめていた。
この春に、なにかし残したことがありはしないかと、静かに自分の周辺をみつめながら、やがて来る風を穏やかに待っている気配であった。

『古典力』 齋藤孝著

2023年02月24日 | 読書雑感
古典とは:
思想・哲学科学等さまざまな領域で人類の遺産と呼べる著作。精神の核を形成してくれる力、生命力がある。

古典力とは:
名著を自分の古典として日々の生活や思考に生かす力

古典の素養があることは教養があるための必須条件
多用な価値観を理解し受容するには知性が求められる。数々の古典を自分のものとしていくことで、この知性は鍛えられる。

【古典を読むための十か条】
1. 一通りの知識を事前に得る
2. 引用力を磨く

好きな文を選ぶと言う作業は、自分と本(著者)とを関わらせる意識を高める。
なんとしても引用したい文を見つけようと思って読む。そして、なぜその文に惹かれたのか、その文と繋がる自分の経験はあるかと考える。感覚という語群探知機で探し出した魚を、論理という網でしっかりと捕まえる。
3. さかのぼり読み
古典は古典を生み出す。影響を受けた古典を源流を遡るように読み込む。
4. バラバラ断片読み
肩の力を抜いて、ページをめくる。偶然出会った文章に心を止めそこから何かの刺激を受け取る。
5. 我田引水読み
自分の経験に引き寄せて読む。惹きつける課題意識が反復によって心の習慣となって気付きが生まれる。
6. つかり読み
古典の世界にどっぷりとつかり込むためには、スローリーディング、読む時間帯を決めて習慣化する
7. クライマックス読み
その本の最も輝いているところ、その古典の本質や魅力が凝縮されているところを拾い読みする。
8. 演劇的音読
少々大袈裟に演劇的に音読することで、言葉を字面ではなく、身体全体で味わう。
身体で言葉を感知し、響きにかえてゆく過程で深く言葉を味わう。
9. バランス読み
客観的な意味の把握と主観をまじえた解釈の二つを両輪として読み進める。
古典の真理を汲み取る力をマスターする。古典の言葉がヒントとなって、見えていなかった現実のある側面が新たに見えてくる。
自分の現実とすり合わせて古典を読む習慣をつける。古典の普遍的真理と現実の課題との間でバランスをとる。
10. マイ古典の森を作る
自分の人格の一部になったり、社会や物事をいる視点が大きく変わったりしたばあいには、マイ古典の称号を与え年々増やしていく

『ユング心理学と仏教』 河合隼雄著

2023年02月20日 | 読書雑感
■ 関係性ということについて
近代になって急激に発展した自然科学は、テクノロジーと結びついて、人間が多くのものを操作し、自分の望むところを実現することを可能にしました。このため、人間は何でも自分の欲するものは手に入るし、自分の意のままに他を動かすことが出来る、と思い込みすぎたのではないでしょうか。しかし、科学の知の根本にある対象と自己との分離ということをなんにでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わざるを得なくなったと思われます。(中略)フロイトやユングの試みたことは、「関係性」を前提とする知を獲得することであったと言えます。

■ 「自我」というものについて、そして「意識」というものについて
日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は「切断」する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の「自我はできるだけ「切断」せずに「包含」することに耐える強さを持つと言えるでしょう。

ヨーロッパの近代では、ものごとを「分ける」意識の作用を評価しそれを洗練させていったのに対して、仏教ではむしろ逆に、ものごとの区別を取り払う意識を洗練させる方向に努力しました。したがって、人間の独自性を考える際に、西洋における個性というのとは異なる考えが仏教においてはあるべきです。しかし、それはindividualityという単語では表せません。(中略)西洋近代の個性は、まずegoを確立することがその前提となります。大人になる時とは、自分のアイデンティティが確立できたときである、と考えます。そのようにして確立されたegoは、自分の主体的判断と責任によって、その欲求に従いながら個性を伸ばしてゆく、ということになります。(中略)仏教における人間は、華厳の従いますと、あくまで関係のなかに存在しておる、それのみを取り出すときは「自性」はないのです。この考えに従って、ある人が自分の個別性を大切にしようとするならば、その人は「自立」などということを考える前に、他との関係の方に気を配ることになるでしょう。実際は、そのような関係そのものにこそ個別性が見いだせると考えるのです。

近代科学が人間の意識を洗練させていったのと逆の方向に仏教の思惟が発展していったということであった。すべての現象や物事を区別してゆくこと、それが自然科学の方法論であるが、仏教はその逆に、すべてのものごとを区別しない、融合させるような意識の状態を大切にする。

■ 関係性ということについて
例えば、恋人と待ち合わせをしていて、自分の目の前で恋人が交通事故で死ぬ、という悲劇に遭った人がある。その人が心理療法家を訪れてきた時に言うのは、「なぜ、あの人は死んだのか」ということである。これに対する自然科学の説明は極めて容易で「出血多量」などということになろう。しかし、それはこの人にとって納得のいくものではないし、それによって抑うつ症が解消されるものでもない、」。つまり、この人が「なぜ」と問うとき、それは「他ならぬ私の恋人が」という自分とのかかわりのなか問うているのである。人間はそれぞれの個人として、自分にとってそれは何を意味するか、と考えざるを得ない存在である。ところで、近代科学というのは、「自分とのかかわり」ということを放棄することによって成立してきた知識体系である。近代科学は、或る現象を客観的立場に立つものによって観察された結果、生じてきたもので、それゆえにこそ普遍的な知識を持つものである。しかし、恋人を失った人は、そのような普遍的な知識ではなく、個別的で自分にとって意味のある智慧を望んでいる。ここに宗教の役割がある。人間が生まれることや死ぬことについては、科学的研究が進んでいて、生物学的、医学的に説明可能である。しかし、「なぜは生まれてきたのか」「なぜは死なねばならないのか」と、自分とのかかわりにおいて考えるとき、それについては科学は答えない。

■ 機能メカニズムの理解と心のありようの理解の差異
人体のなかの、神経系、内分泌系、免疫系の各システムは、それぞれが独立して機能しつつ、しかもお互いがうまく調和的に働いておりますが、これら三者を統合する中枢は存在しない。免疫学者の多田富雄は、したがって人体というのは「スパーシステム」であると言っています。人間の心もスーパーシステムとして見るべきではないか、といういことです。論理的には矛盾することも、一人の人間の心の中では共存し、むしろその共存に価値がある。人間の心は、意識の異なるレベルでそれぞれの統合性をもちつつ、全体的には中心をもたずにスーパーシステムとしてうまく機能しているのではないか。つまり、心全体としてうまく働いているとき、そこに敢えて中心を求める必要なないと考えるのです。(中略)どうしても「統合」というと、中心となるべき原理や法則などが存在すると、考えがちになるのではないでしょうか。人間が考え出すような中心や原理を超えて、ものごとはうまく働いていると私は思うのです。

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つまりは、こういうことと理解した。
近代西洋科学:理解しようとする対象を必要最小限にまで分解し、そこで起こっていることの原理やルールを発見しようとしてきた。大から小へ、直線的に進んでいく理解方法。
一方仏教においては、区別することはせずに、全体性を捉えようとする。例えて言えば、地球規模に視点を引いて見てみるならば、肌の色をどこに国に属しているか、などは問題にならない。あくまでも人の心のありよう、持ちようについて考えた。

『平家物語』 古川日出男訳

2023年01月20日 | 読書雑感
現代語訳にて『平家物語』を全巻、灌頂の巻を含めて読んでみた。そして、以前原文で拾い読みした時と比べて、この古典に対する印象が異なっていることに読みながら気付いた。

■ 場面転換の上手さ
まず、この物語の私なりの面白さは場面転換の上手さだった。京の都の出来事を述べた直後に、「西には」や「さて、東の源氏は」と言ってお話自体の場面を急転換させたり、語る琵琶法師自身のその場の描写や自身の思いから突然源平の物語へ移っていく転換、登場人物の気持ちや言動から状況への移動等々、時には数字に引っ掛けたり(琵琶が三面、東の源氏、西の平氏、そしてその中の京の三つというように)しながら自由自在に場面転換を行っていきつつ物語を進める様は、琵琶法師の弾き語りの伝承の面目躍如といったところか。

■ 物語のテーマ
もちろん、仏教思想、即ち無常という考え方が土台にあった上で、「光と闇」が主たるテーマなのだと感じた。天皇を中心とした平安貴族が光で、それに対して貴族たちに使われて治安や反対勢力を潰していく暴力装置としての武士は闇であったが、清盛の時代に闇の存在だった武士が光となることで力が逆転し、そして全盛の平氏の影に隠れていた源氏が立ち上がって平氏を倒すことで闇から光となると同時に、滅ばされてしまった平氏は光から闇の世界へと落ちていった。清盛の父親、忠盛が殿中で仕掛けられた「闇」討ちを自らの才覚と度胸で切り抜けただったことで平氏盛隆が始まったことがこの物語の冒頭であることが象徴的だ。

■ 源氏の物語ではなく「平家の物語」
六の巻で奸雄の清盛が死に、七の巻から次第に源氏に押されだした平氏は十二の巻で滅亡してしまう。平氏側は清盛はもちろんのことだが、重森、維盛、宗森、友盛、重衡等々、名だたる一族それぞれの生き方が詳細に描写される。一方、棟梁の頼朝を始め、範頼、義経、義仲などの源氏一族も描写はあるものの、平氏ほどではない。特に清盛に対抗する存在であるはずの頼朝は、登場回数が少ないのみならず当たったはずのスポットライトがすぐに他へ移ってしまう。源氏の中で最もスポットリライトを浴びているのは義仲と義経。義仲は真っ直ぐではあるが無教養な田舎者としてキャラクター付けがしっかりとなされ、義経は戦いには抜群に強いが人格的にはいかがなものか、という描き方がなされる。どちらも、清盛の大悪人ぶりに比べると存在が軽い。驕った平氏が仏罰で滅びるという展開ではなるが、滅んでいく平氏の一族に対する優しい。特に戦いに敗れて囚われの身となった一族の人間に対しては同情的な描写がされている。「光と闇」ではあっても「善と悪」ではない。勧善懲悪の物語ではない。光には光なりの善と悪、闇には闇なりの善と悪があり、限りないグラデーションの中に善と悪とがあるだけで、時々刻々と移りかわっていく様は無常。どちらも語るためには、光と闇の両方を経験した平氏を中心とすることは当然の成り行きだったのだろう。だからこそ、勝って天下を取った源氏の物語ではなく、光でも闇であった平氏の物語になったのだろう。

■ 価値観の違い
源氏の兵士たちは勝つことに貪欲だ。相手に組み伏されて馘を取られる寸前に降伏を申し入れて許された源氏の兵士が相手の隙をついて馘を取る、見事に舟の上の扇を射通した那須与一を称賛するのは源氏のみならず平氏の兵士たち、そして与一の見事さに感激した平氏の武将が船の上で舞を舞っているところを平気で射殺してしまう義経。卑怯と今では思われる行為するすることに躊躇のない源氏に対して、負けたら潔く首を出しだす平氏。この両者の価値観は全く違う。この価値観の違いも善と悪とで分けることなく、語る琵琶法師はある時は源氏の肩を持ち、ある時は平氏の側に立つ。木曾の義仲の描写も、田舎元として描かれる時は京の貴族の視点=価値観で描かれ、最期となる戦いの時は侍の視点=価値観で勇ましく描かれる。そこにも善と悪はない。

『武器になる哲学』 (山口周著)

2022年12月06日 | 読書雑感
人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50
1. ロゴス・パトス・パトス アリストテレス 論理だけでは人は動かない
2. 予定説 ジョン・カルヴァン 努力すれば報われる、などと神様は言っていない
3. タブラ・ラサ ジョン・ロック 「生まれつき」などない、経験次第で人はどのようにでもなる
4.ルサンチマン フリードリッヒ・ニーチェ あなたの「やっかみ」は私のビジネスチャンス
5. ペルソナ カール・グスタフ・ユング 私たちは「仮面」を被って生きている
6. 自由からの逃亡 エーリック・フロム 自由とは耐え難い孤独と痛烈な責任を伴うもの
7. 報酬 バラス・スキナー 人は不確実なものほどハマリやすい
8. アンガージュマン ジャン・ポール・サルトル 人生を「芸術作品」のように創造せよ
9. 悪の陳腐さ ハンナ・アーレント 悪事は思考停止した「凡人」によってなされる
10. 自己実現人間 エイブラハム・マズロー 自己実現を成し遂げた人は実は人脈が広くない
11. 認知的不協和 レオン・フェスティンガー 人は自分の行動を合理化するために意識を変化させる生き物 人間は「合理的な生き物」なのではなく、後から「合理化する生き物」
12. 権威への服従 スタンレー・ミルグラム 人が集団で何かをやるときには個人の良心は働きにくくなる
※「アイヒマン実験」は、人が集団で何かをやるときにこそ、その集団の持つ良心や自制心が働きにくくなることを示唆している
13. フロー ミハイ・チクセントミハイ 人が能力を最大限に発揮し、充足感を覚えるのはどんな時か?
14. 予告された報酬 エドワード・デシ 「予告された」報酬は創造的な問題解決能力を著しく毀損する
15. マキャベリズム ニッコロ・マキャベリ 非道徳的な行為も許される、ただし、よりよい統治のためなら
16. 悪魔の代弁者 ジョン・スチュアート・ミル あえて「難癖をつける人」の重要性
17. ゲマインシャフトとゲゼルシャフト フェルディナンド・テンニース かつての日本企業は村落共同体だった
18. 解凍=混乱=再凍結 クルト・レビン 変革は「慣れ親しんだ過去を終わらせる」ことで始まる
19. カリスマ マックス・ヴェーバー 支配を正当化する3つの要素「歴史的正当性」「カリスマ性」「合法性」
20. 他社の顔 エマニュエル・レヴィナス 「わかりあえない人」こそが学びや気付きを与えてくれる
21. マタイ効果 ロバート・キング・マートン 「おおよそ、持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない人はもっているものまでも取り上げられるであろう」
22 ナッシュ近郊 ジョン・ナッシュ いいやつだけど売られたケンカは買うという最強の戦略
23. 権力格差 ヘーフト・ホフステード 上司は自分に対する反対意見を積極的に探せ
※組織の意思決定のクオリティを高めるには、だれかの行動や判断に対して、他の誰かが「それはおかしい」と思った際に遠慮なくそれを口に出して指摘することが必要
24. 反脆弱性 ナシーム・ニコラス・タレブ 「工務店の大工さん」と「大手ゼネコンの総合職」はどちらが生き延びられる?
※現代企業は業務のモジュール化が進んでおり、手続きのプロトコルた非常に洗練されているので機械に代替させやすい。大組織に勤めてその中でずっと過ごすということになると、その人の人的資産(スキルや知識)や社会資本(人脈や評判、信用)のほとんどが企業内に蓄積されることになる。そのため、そお会社を離れてしまうと人的真は社会資本は大きく目減りしてしまう
25. 疎外 カール・マルクス 人間が作り出したシステムによって人間が振り回される
※企業活動における倫理的な側面での規律は、企業経営に携わる人々の倫理観や道徳観によっている。この部分についての手当をかんがえることなく、ルールを与え、その順守状況を外側から監視することに膨大なエネルギーをも問題は解決しない
26. リバイアサン トマス・ホッブス 「独裁による秩序」か?「自由ある無秩序」か?
※社会を構成する人々の自由と安全を保証する唯一の方法は、故人個人の自由と安全を剥奪できる権力を有する巨大な権威(=リバイアサン)置き、これに社会を統制させること
27. 一般意志 ジャン・ジャック・ルソー グーグルは民主主義の装置となりえるか?
※グーグルが依拠している民主主義(と彼らが呼ぶもの)は一部のごく限られた人にしか関与できないアルゴリズムとシステムによって運営さており本質的なパラドクスを含んでいる
28. 神の見えざる手 アダム・スミス 「最適な解」よりも「満足できる解」を求めよ
29. 自然淘汰 チャールズ・ダーウィン 適応力の差は突然変異によって偶発的に生み出される
※自然淘汰という仕組みは、サイコロを振るようにして起きた様々な形質の突然変異のうち「たまたま」より有利な形質をもった個体が遺伝によってその形質を次世代に残し、より不利な形質をもった個体は淘汰されていくという、膨大な時間を必要とする過程
30. アノミー エミール・デュルケム 「働き方改革」の先にある恐ろしい未来
31 贈与 マルセル・モース 「能力を提供して給与をもらう」ではない関係性を作ろう
※会社という「タテ型構造のコミュニティ」が自分にとってもはや安全なコミュニティではないということを認識したうえで、自律的に自分が所属するコミュニティを作っていくのだという意識を持つこと
32. 第二の性 シモーヌ・ボヴァワール 性差別はとても根深く、地の中、骨の中に溶け込んでいる
33. パラノとスキゾ ジル・ドゥルーズ 「どうもヤバそうだ」と思ったらさっさと逃げろ
※パラノイア=偏執型を指し、自分のアイデンティティに固執して整合的な特質の獲得を目指す。スキゾフレニア=分裂型を指し、固定的なアイデンティティに縛られることなく「自分の美意識や直感の赴くままに自由に運動する
34. 格差 セルジュ・モスコヴィッシ 差別や格差は「同質性」が高いからこそ生まれる
※社会や組織が公正で公平であるのであれば、その中で下層に位置づけられる人には逃げ道がない。人事制度や社会制度に不備があるから下層にいるのではなくまさしく自分の才能や努力や容姿といった点で人い劣っているからに他ならない。その時に多数の人々は一体どのようにして自己の存在を肯定的にとらえることができるだろうか。
35. パノプティコン ミシュエル・フーコ 「監視の圧力」を組織でどう飼いならすか
※近代国家においては、法律や規律などの外部の制度にとってではなく訓練によって形成された、いわゆる「道徳や倫理」によって支配する形をとるようになった。私たちは自律的に「それがよいことだから、道徳だから」という自分の内面の理由付けによって行動を起こしているようにかんじていますが、フーコーはそれこをが「新しい支配お形態」と警告している
36. 差異的消費 ジャン・ボードリヤール 自己実現は「他者との差異」という形で規定される
※古典的なマーケティングの枠組みでは、消費の目的は ①機能的便益の獲得 ②情緒的便益の獲得 ③自己実現的便益の獲得の3つ。
私たちが持つ「欲求」は個人的・内発的なものとしては説明できず、むしろ他者との関係性、つまり「社会的」なものだとボードリヤールは言う。ある種お選択をした自分が、そのような選択をしなかった他者とは異なるのだということを示すための差異的消費。
37. 公正世界仮設 メルビン・ラーナー 「見えない努力もいずれは報われる」の大嘘
38. 無知の知 ソクラテス 学びは「もう知っているから」と思った瞬間に停滞する
※「U理論」におけるコミュニケーションお4つのレベル
レベル1:自分の枠内の視点で考える
レベル2:支店が自分と周辺の境界にある
レベル3:自分の外に視点がある
レベル4:自由な視点
39. イデア プラトン 理想にとらわれている現実を軽視していないか?
40. イドラ フランシス・ベーコン 
「誤解」にはパターンがある
※誤りを導く4つのイドラ
・種族のイドラ(自然性質によるイドラ)錯覚のこと
・洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)
・市場のイドラ(電文によるイドラ)
・劇場によるイドラ(権威によるイドラ)
41. コギト ルネ・デカルト 一度チャラにして「疑えないこと」から再スタートしてみよう
※コギト・エルゴ・スム=存在の確かなものだどないがこのにすべてを疑っている私の精神があることだけは疑えない。そこは」sデカルトの出発点だが、そこからどんな真理にいたったかは心もとない。
中世ヨーロッパ(8世紀から13世紀)は、宗教が思想を支配し、心理を追求するのは人の仕事ではなく神によって司られており、それを民衆に示すのは神と対話できる聖職者だけである、という知的退行という状態であった。
42. 弁証法 ゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル 進化とは「過去の発展的回帰」である
43. シニフィアンとシニフィエ フェルディナンド・ソシュール 言葉の豊かさは思考の豊かさに直結する
※言葉によって思考するのであれば、言葉が依拠している枠組みに思考も依拠してしまう、本当の意味で自由に思考することができない。私たちの思考は私たちが依拠している何らかの構造によって大きな影響を不可避的に受けてしまう=構造主義哲学の基本的な立場
44. エポケー エドムンド・フッサール 「客観的事実」をいったん保留する
45. 反証可能性 カール・ボバー 「科学的であること」=「正しい」ではない
46. ブリコラージュ クロード・レヴィ=ストロース 何かの役に立つのかよくわからないけど、なんかある気がする
※ゼロックス社のパロアルト研究所は、マウスやGUI、オブジェクト思考プログラミング言語等の先駆的なアイデアを開発したものの、何一つ商業化できずに窮地に追い込まれれしまった。
47. パラダイムシフト トーマス・クーン 世の中はいきなり「ガラリ」とは変わらない
48. 脱構築 ジャック・デリダ 「二項対立」も縛られていないか?
49. 未来予測 アラン・ケイ 未来を予測する最善の方法はそれを「発明」することだ
※未来の世界の景色は今この瞬間から未来までの間に行われる人々の営みによって決定されるのであるから、本当に考えなければならないのは「未来はどうなる?」ではなく「未来をどうしたい?」とい問い。
50. ソアティック・マーカー アントニオ・ダマシオ 人は脳だけでなく身体でも考えている

竹取物語

2022年10月04日 | 読書雑感
源氏物語、枕草子、太平記、徒然草、平家物語、伊勢物語など、ここ2年の間に日本の古典を読んできた。これらの中で最も古いと思われる竹取物語にまで範囲が広がってきた今、古典の文章に慣れてきたようで多少の解説文を参考にしつつも原文で物語をかなり読めるところまできている。竹取物語は面白い。かぐや姫から課された無理難題を解こうとして5人の求婚者がそれぞれのやり方で対処する過程が、波乱万丈でスペクタクルで千年の時を超えて生き残ってきた理由がよくわかる。

それにしても、かぐや姫が月の世界からこの地球に来たのは、犯した罪ゆえの期限付き追放処分であったとは知らなかった。迎えに来た月の王はこう言ったのだった。
かぐや姫は罪をつくり給へりければ、かくいやしきおのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限りはてぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、あたはぬ事也。