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マンガ仏教の思想 仏陀、かく語りき

2022年09月20日 | 仏教を愉しむ
●仏教とは
仏陀の教えの実践によって心の安らぎを得て、それによって正しく世界を見られるようになる道筋
●仏陀の教えの神髄
感覚から起こる三毒(貪欲、怒り、無知)と誘惑的な一切の事物を遠ざけ、心を明らめるべく修行に専心すれば、心安らかなる究極の境地、解脱に至る
仏の教えの最終的な目標
苦からの解脱であり実際的な自己救済
目標である苦からの解脱のためには、「三法印」と「四諦」を理解し、「八正道」を実践することで安らかな心の平安を獲得できる
三法印:仏陀が修行の末に到達した3つの真理であり、宇宙を貫く根本法則
 諸行無常:万物はいかなるものも永遠不変ではない。一切は無数の要因がからまりあって生じ、変化消滅している
 諸法無我:宇宙の事物や現象はすべて因縁によって生じたもの。永遠不変の宇宙などないし、宇宙に存在する一切が変化しつづける
 涅槃寂静:宇宙の真理を正しく理解し、正しい実践的修行を通して着実に心理へと向かうなら、苦しみも煩悩もない世界へ到達できる。この世界が涅槃寂静
四諦:
 苦諦:この世は苦しみに満ちている。執着から離れられない者の一生は苦しみだらけ
 集諦:人生の苦しみは心中の煩悩から生まれる
 滅諦:煩悩の根本原因と一切への執着を捨て去ることができれば苦しみも消滅する
 道諦:苦を滅するためには八正道という日常の修行が必要
八正道
 正見 正しい見解
 正思 正しい判断
 生語 正しい言葉
 正業 正しい行為
 正命 正しい生活
 正精進 正しい努力
 正念 正しい意識
 正定 正しい瞑想

●「空」とは
空っぽのことではない。空とは宇宙の本質、宇宙の実相。森羅万象は絶えず繁華する状況どうしの相互作用によって生じている。だから、宇宙には永久不変の実体などというものはない。こうした宇宙の在り方を仏陀は「空」と呼んだ。

●修行とは
外なる快楽の追求こそが苦悩の素。人は五感から受ける外部の刺激から真の満足を得ることはできない。五感の要求に応えたところで、さらなる刺激が欲しくなるだけ。逆にこれを抑制してやれば、心は次第に澄み渡ってくる。
感覚器官の刺激を自制することで己の言動や心の働きを自制できるように心身の一切をコントロールできるようになることが修行の目的。
修行とは悟りの智慧に至る道程であり、己の心を浄化する道程。
修行する際の心得として4つ:
 諸悪莫作 諸所の悪をなすなかれ
 衆善奉行 多くの善を行う
 自浄其意 みずからの心を浄める
 是諸仏教 これ諸仏の教えなり
瞑想する際の心の拡張の仕方(四無量心)
 慈 誰彼区別のない友愛
 悲 他人の悲しみへの同化力
 喜 他人の喜びに嫉妬せず同慶を感じる
 捨 極端な感情の起伏を捨てた平静さ
心を浄化する修行の三つの実践段階
 戒律 心に刺激が入り込まないように感覚器官を見張る
 禅定 想念を一点にとどめ雑念を芽生えさせない
 智慧 命の実相を見、宇宙の放送を理解し、すべてをあるがままに受け入れる

●「知足」の教え
今あるもので我慢するという消極的なものではなく、自分という存在には「すべてがすでに与えられている」「だから足りているのだ」という信じること。何かを外に求めるのではなく、内面的な「よろこび」を仏陀は強調した。
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『日本仏教史』 (末木文美士著)

2020年10月30日 | 仏教を愉しむ
本書の備忘録として。

■ 日本古来の宗教観
日本の神は、人知を超えた恐ろしい存在と考えられ、人々に恩恵を与える一方でその怒りは人々に厄災をもたらすと信じられていた。かつまた、神は外からやってきて人々のところに定住しないと考えられていた。

民俗学の研究によると、そもそも日本の神の中で最も重要な神は死者の霊魂が昇華された祖先神的な性格を持つという。死者の霊魂は最初はアラタマとして危害をおよぼす危険な要素を持っているが、丁寧に祀られると荒々しさが薄れてニギタマ(和魂)に変化していく。それも数十年すると、タマの段階で持っていた個体性や物質性を失い、祖先神と一体化していく。このように日本の神は本来目に見えない存在であり人格的な個性は弱く、そして通常人里離れた山の中や海の彼方に住み、定期的にあるいは不定期的に人里を訪れる存在であった。その際に非物質的で変形を持たない神が一時的に宿る場が必要となり、これが依代(よりしろ)とよばれるもので、樹木や岩などの自然物や鏡・刀剣などが用いられる。人に神が下りてくるばあいは憑座(よりまし)といわれる神がかりとなる。

■ 日本における仏教受容の歴史と意義
聖徳太子の時代から、大化の改新を経て律令へ天皇中心の中央集権国家体制が確立されていくが、その中にあって仏教は一方で国家の手で保護育成され、また国家行事の中に採用されるが、他方ではそれに伴って国家の統制を受けるようになる。仏教が国家に採用された最大の理由は、大陸伝来の新しい宗教文化によって旧来の氏族社会の障害を取り払い、新しい国家体制の確立を図ったものと考えられる。

インド・中国という最高の古代文化の中で磨かれ、思想、教団組織、儀礼など、いずれをとっても高度に確立された仏教は、同時にまた建築や工芸・医薬などの最新の科学技術を伴い、さらには律令政治体制と密接に結びついていた。それゆえ、仏教を受容することはそのまま大陸の最新の文化を受容することに他ならなかった。律令体制の確立という面を主にみると、仏教の国家的な受容はまさにそのイデオロギー的な側面をなしている。もはや仏教の優位は確定的であり、古来の神々は仏に従属することによってのみ自己の存在を守りえたのである。その際に、仏教によって古来の宗教が決して滅ばされなかった点は注目される。古来の宗教を否定するのではなく、それを認めながら、しかも個々の氏族から自由な世界宗教である仏教を優位におくことによって、中央による統一をなしえたのであり、逆に氏族社会に根差した古来の宗教もすすんで仏教の保護を求め、それによって自己の地位を保とうとしたのである。

天平時代、位をすでに孝謙天皇に譲っていた聖武天皇は、東大寺の廬舎那仏を造立する。国家の永遠の繁栄を願って作ったはずの大仏は、過酷な労働の搾取によって人々を疲弊させ人心を離反させる結果となった。

天平仏教は、国家と仏教があまりに深く関わりすぎ、民衆の生活と乖離しすぎた。

■ 仏教思想の本質と変遷
仏教思想の大きな特徴は「縁起」にあると言われる。縁起とはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない。これが無常といわれることである。他に寄らずして自存し永遠に存在するようなものは何もなく、つまり実体がない。この考え方に立つと、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。プラトンのイデア論や、神を完全な存在と考えるキリスト教哲学とは異なる。

紀元前後頃、従来の仏教に飽き足りない人たちによって興された新しい宗教運動のなかで大乗仏教が形成された。「空」の思想や菩薩の利他主義のほか、もともと在家者の活動と深く関わっていたと考えられ、仏陀に対する信の重視など、在家者に対する平易な行を説き、また釈迦仏だけではなくその他の様々な仏や菩薩に対する信仰も大きく発展する。般若経典や法華経、華厳経、無量寿経などはこうした運動の中で形成された。インドにおける大乗仏教は、その後中観派・唯識派などの哲学を発展させ、又のちには密教も形成された。

大乗仏教は、紀元2世紀ごろまでの初期(般若経典や浄土経典、法華経、華厳経などが成立)、4・5世紀に成立して唯識説を説くものや如来蔵・仏性を説く経典が成立した中期、大日経は金剛頂経などが成立した後期に分けられてそれぞれ別々に発展していった結果、膨大で複雑な構成をもつようになった。

一乗主義とは、人はだれでも悟れるとする考え方。大乗仏教では一切衆生を救済しようとする利他の精神こそ根本であると説き、このような大乗の修行を行うものが菩薩である。

「不立文字」を主張する禅が興隆に向かうと、経典そのものが重んじられなくなり、教学は衰退していった。

■ 日本における仏教思想と変遷
南都六宗とは、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律、三論、法相(ほっそう)、華厳の六宗。倶舎宗と成実宗は、部派仏教)小乗仏教)に由来し、倶舎宗は唯識派の世親の著作『倶舎論』に基づくために唯識派を承けた法相宗の属宗とされた。成実宗は「空」を説くために三論宗の基礎学として学ばれた。インドで大乗経典の思想を体系化して哲学的に完成させたのは龍樹(ナーガールジュナ)で、その思想の中心は「空」であって、一切の言語概念による把握を否定し真理はどのような言語概念でも把握されないと説いた。その思想を承けたのが三論宗。インドでは龍樹以降さらに仏教の哲学化が進み、4・5世紀には唯識派の思想が確立される。この思想が玄奘と弟子の基によって確立されて法相宗の教学になる。

原始仏教以来の根本原理の一つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというもの。言い換えれば、因果性を離れた永遠の存在はありえないということ。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するとの根本的に異なっている。従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。地・水・火・風・空・識の六大で物質・精神を合わせたこの世の総体を指し、この六大が世界の本質・本体に他ならないと考える。密教では物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(ほっしん/本質的な在り方)とされる。我々の自我もその世界の一部であるから、我々ば修行するまでもなくすでに本来的には仏そのものであって、そのことを自覚していく過程が修行である。

空海の密教理論は日本人の宗教観を理論化したともいえる面がある。日本人はこの現象世界の外に絶対神をたてたりイデア的世界を認めたりせず、現象世界をそのまま肯定する傾向が強く、アニミズム的世界観に由来する自然世界を尊重することが多く、汎神論的な六大説は日本人の世界観に極めて良く合致している。密教では、原理論および現象論を踏まえた実践論が三密加持で、三密とは身・口(語)・意(心)のはたらき、加持は我々のはたらきと仏のはたらきが合致すること。身に印契を結び、口に真言を唱え、心が三昧(精神が安定した状態)に住するならば、そこに自我と仏の合一、即身成仏が完成する。

中世に発展した特徴ある思想を本覚(ほんがく)思想と呼ぶ。元々は衆生に内在する悟りの本性を意味するものだったが、現実に悟りを開いているという意味に変わっていく。これにより、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの表れでありそれとは別に求めるべき悟りはない、となる。この考え方を推し進めると、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。我々が目にする一草一木、耳にする鳥や虫の声、すべてが仏でないものはない、ありのまま自然のままを尊ぶ本覚思想は仏教の枠組みを超えて、中世の文学・美術・芸能から神道の思想にまでおよぶ広範囲な影響を及ぼすこととなる。

仏教の立場では、悟りを開いたからといってこの現象世界と別の真理の世界に入るということはない。この現象世界の法則性、即ち縁起の原理を正しく認識することが悟りにほかならない。事実を見る目が煩悩によって曇らされているから、煩悩の曇りを払い正しい認識に向かって修行に努めることが必要とされる。悟りとは、何か別の次元に移るわけではなく、この世界の認識の転換であるから、いわゆる存在論ではなく認識論が問題になっているということもできよう。ところが、大乗仏教では、この世界の全体性が空・真如・諸法実相などとして、それ自体の実体性は否定されながらも体得されるべき対象と考えられるようになってくる。この立場からするあんらば、この現象世界が心理そのものの世界として肯定されることになる。仏の悟りの立場から見るならば、この現象世界は全体として肯定されるもので、そこでは生死と涅槃、煩悩と菩提というような対立は廃棄される。ところが、そのような考え方は仏の悟りの立場でいわれることであり、凡夫の立場でただちに生死や煩悩が肯定されるわけではなく、悟りに至るには幾度も輪廻を繰り返しながら長い困難な酒豪が必要とされる。この凡夫との距離が圧縮されて零となり、まったく修行を必要とせずに凡夫の状態のままで現象世界が全的に肯定されるようになったのが、その後の本覚思想である。

鎌倉新仏教の共通の背景として天台本覚思想がある。

鎌倉仏教が注目される理由として、第一に実践面で易行化、すなわち誰にでも可能な容易な実践法をたて、それによってはじめて民衆のものになった。第二は理論面で、親鸞や道元の思想は宗教哲学として今日でも第一線で問題とされるような高度な内容を持っており、またそこに日本の社会に適応した仏教の日本化が見られる。これに対して、平安仏教は祈祷仏教であって思想内容に乏しいと考える見方がある。

鎌倉時代に新しい称名念仏を提唱した法然は、口に阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を唯一絶対とする。さらに弟子の親鸞は、阿弥陀仏を信じること子を絶対であるとして、重点を行から信へと移した。自力の行によって悟りを得ようとしても不可能であり、阿弥陀仏の他力を頼ってはじめて救済が可能だとした。
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古寺歩きのツボ (井沢元彦著)

2020年08月08日 | 仏教を愉しむ
古寺歩きの3つのポイント:
 仏像
 建物
 庭園

筆者によると、この3つすべてが素晴らしい寺はないのだそうだ。飛鳥・奈良時代のお寺は仏像や建物に力を入れていたが、庭園を造るという発想がなかった。日本で庭園というものが定着したのは禅宗が入った鎌倉時代以降ということになる。禅宗は、水汲みや食事の用意、掃除などの日常の行いはすべて修行の一環であると考え、寺というのは修行の器であると考えるために、建物には凝るが仏像にそれほど重きを置かない。

1. 仏像の見方
仏像の種類
■ 如来 悟りを開いた者がなるもので如来であり、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、びるしゃな如来の5種。
最初は、釈迦如来だけだったが、大乗仏教(紀元前後頃)が始まった際に、厳しい修行などしなくても多くの人々を救ってくださる釈迦以外の悟った方がおられるはずだと考えて阿弥陀如来が生まれた。人間は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)を永遠に輪廻する存在のために苦しむことになるが、大乗仏教では修行による解脱という苦行をせずとも南無阿弥陀仏(「南無」は帰依するという意味)と唱えれば阿弥陀如来が浄土(阿弥陀仏のいる六道とは別の世界)へ引っ張り上げてくれると教える。
薬師如来は病を癒してくれる仏。薬師如来の浄土が瑠璃光浄土。
仏教では、世界は一つではなくパラレルワールドのようにいくつもの世界が同時並行で存在していると考えている。釈迦はこの世界で悟ったお方という存在だが、すべての同時並行するすべての世界に渡って存在する如来の根源のような存在がびるしゃな如来。奈良の唐招提寺の大仏がびるしゃな如来。仏像の背後にある光背(オーラのような輝く光)が数多くの化仏(化身)がついており、その中の一つが釈迦如来とされる。
びるしゃな如来は一種の中間的形態で、完成されたかたちが大日如来となる。

如来の見分け方:
その1(印のかたち:釈迦如来の印は、右手を相手に向けて上げ左手は掌を相手に見せるように下げた印。阿弥陀如来の印は、掌を前に出して相手から見る横向きに重ね合わせたような印(鎌倉の大仏)。薬師如来は掌の上に薬壷を載せている。
その2(脇侍):釈迦如来の両脇には文殊菩薩(剣を持ち獅子に乗る)と普賢菩薩(象に乗る)、薬師如来の両脇には日光菩薩と月光菩薩、阿弥陀如来の両脇には観音菩薩と勢至(せし)菩薩、大日如来には他4つの菩薩がサイコロの五の目のように並ぶ。

■ 菩薩 観世音菩薩や弥勒菩薩、地蔵菩薩など、如来となるために修行中の存在。弥勒菩薩は、56億年後に釈迦のように悟りを開き仏となってこの世を救うことが定められている存在だが、それまで待てずに阿弥陀如来の浄土(極楽浄土)に生まれ変わってしまおうという浄土信仰が盛んになった。地蔵菩薩は、悟りを開ける素質があるにも拘わらずこの世の衆生を救うため、弥勒如来が下生するまでのつなぎとして人々を助けるという使命を持っているために頭を剃った僧体をしている。

■ 明王 元々はインドのバラモン教の神々。不動明王(元はシヴァ神)、降三世(ごうざんせ)、軍だ利、大威徳(だいいとく)、金剛夜叉明王が五大明王と言われる存在。

■ 天 帝釈天、弁財天、吉祥天などのように元々はヒンズー教の神様で仏教に帰依して仏教の守護神となった存在。

釈迦の弟子たちが死んだ釈迦をしのぶものが欲しいということでできたものが仏足石と塔。塔は元々、釈迦の骨(舎利)を埋めた場所の印のために作られたもの。その後、ガンダーラ地方(今のパキスタン領)に進出した時、アレキザンダー大王征服によるヘレニズム文化に触れたことで仏像が作られるようになった。ヘレニズム文化の影響で、ギリシャ風の顔立ちとインド風俗も入っているのだそうだ。

2. 建物の見方
塔には元々釈迦の骨(舎利)を納めたものであり、寺院の中心に一つだけあって、その周りを仏像を祀る本堂や教えを垂れる講堂、食事をとる食堂などが取り囲んでいたのが本来の寺院のかたちだったのだが、時代とともに塔はどんどん外へ出て行く。これは塔のもつ意味、釈迦に対する進行が日本においては主流ではなくなったということを示している。

3. 庭園の見方
日本の庭園美は、そのほとんどが禅というものと分かちがたく結びついている。禅宗の世界観では、天地というものが一つの象徴であり、その天地の原理を悟ることを重要視した。それを身につけるために、さまざまな庭園が造られるようになった。

禅では花は使わない。できれば水も使わない。それで枯山水が生まれた。山水とは自然のこと。花があり、木々があり、水が流れ、魚が棲み、鶏がそれを捕らえるというような世界を砂と石という極めて無機質なもので表現する。象徴として感じさせるものが庭園。



◆筆者お奨めの奈良の古寺
東大寺 三月堂の不空けん索観音、戒壇院という塔頭(黒曜石を目に施した四天王像)
興福寺
薬師寺 薬師三尊像、伽藍、東塔西塔
新薬師寺 十二神将
浄瑠璃時
唐招提寺
<斑鳩>
法起時
法輪寺


◆筆者お奨めの近江の古寺
羽賀寺  十一面観音
明通寺 本堂と三重塔
神宮寺
国分寺
多田寺
萬徳寺


これらの他に、こんな小知識も得られた。
江戸時代になって、お寺は国民を管理する一種の市役所の戸籍課のような役割を持たされる。これにより、人口や人間の動き、それこそ氾濫の動きのようなものを予知しやすかったわけです。ところが、仏教の側からみたらこれはとんでもない堕落でした。なぜなら、これまでの自由競争にくらべ、何もしなくても信者が確保されるため、例えば信者を獲得するために、一生懸命勉強したり布教したりする必要が一切なくなってしまったからです。しかもお寺の中でも本寺。末寺制度というのが出来て、末寺は本寺の命令に絶対服従ということになったわけです。

『われわれ凡人が家を捨てると家出になってしまいますが、釈迦のように修行のために外へ出ることを特に「出家」と言います』なんているお茶目なコメントもありました。
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