お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

TOKYO STATION 塩キャラメルロール

2014年02月28日 | スウィーツを愉しむ
毎日の通勤途上にありお店 arinco が気になっていたので買ってみました。
買ったのは「塩キャラメルロール」。


上品な甘さに加えて周りのキャラメルのほろ苦さとそこはかとない塩っぱさが独特の味を醸し出しているちょっと他に例を見ない味ですが、スイーツとしてはどうかな?

スイーツは甘くあって欲しい、という私の希望からすると残念ながらバツでした。
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「愛、アムール」

2014年02月09日 | Cinemaを愉しむ
フランス人て、なんで楽しいはずの映画をつまらなくしてしてしまうのだろう。お金と時間を使って愉しもうとしているのに、その気分をぶっ壊してしまう才能は世界イチだね。それが「芸術」とありがたがっているのだろうが、そんなものは芸術だとは思えないよ。「老い」や「介護」、「痴呆」なんてそもそも醜いものなんだから、それをツマラナーク撮って「芸術的に見せる」ことに価値があるなんて思えない。

撮りようによっては、介護に疲れた老いた夫が今まで愛を持って献身的に介護してきた妻を殺すシーンから始めて、愛しているにも拘わらずそうせざるを得なくなった心理状況の変化を、時間を逆回しにして描くことだってできたはず。少なくとも、その方がドラマ性があり、観る方も納得がいく。元々醜いものをそのまま見せること自体に芸がないよね、と思っちゃう。殺すしかないほどの深い愛を描きたかったのなら、もっと工夫してほしいもんだ、ミヒャエル・ハイネ監督よ。

でも、このフランス映画『愛、アムール』は、突然妻を襲った痴呆から、右半身不随、そしてほとんど寝たきり状態になっていくさまを、淡々と順番に、何の起伏もなく描いていくだけ。宣伝コピーは、「静謐なまでの映像の美しさ」なんて嘘ばっか。確かにバックに流れる音楽は全くないが、それが「静謐」なの?何も言うべきことがないから「映像の美しさ」なんて言葉の誤魔化しに走ったとしか思えないよね、この映画は。

一番醜いなぁと思ったのは、あのジャン=ルイ・トランティニアンが、『男と女』や『暗殺者の森』でクールな大人の魅力イッパイだったトランティニアンが、かくも老醜をさらしていること、これが映画の中身以上に、老いというテーマを見事に表していたのはキャスティングの妙か。

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「恋という言葉のすべての意味を理解した」

2014年02月02日 | パルプ小説を愉しむ
万城目学が描く世界は漫画チックだ。活字で書かれているために一応は小説というジャンルに含まれることは間違いないのだが、読んだ活字が目から入って脳内で処理される時には完全にマンガに変換される。目は活字を追っているにも拘わらず、脳ではマンガが投影されているという、不思議な世界で体験する浮遊体験にも似た奇妙な感覚を覚えながらの読書となったのは驚いた。

『ホルモー六景』は6つの独立した物語から成り立っているが、すべてが「ホルモー」という競技に関係しているお話が続く。特別な能力を有している人々が10人一グループとなり、20センチほどの大きさの鬼を引き連れて行う戦争ごっこ、というのが「ホルモー」なのだが、この小説は「ホルモー」自体の描写ではなく、それを行う人々の生活や感情の機微を映し出している。しかもマンガチックに。

題材が題材だけに現実離れした物語なのだが、第2話は主人公「俺」の高校自体の思い出話で、「もっちゃん」という親友を描いている。「もっちゃん」が電車の中で他校に通う女性に一目ぼれした挙句に告白することを決意し、「俺」の部屋で徹夜でラブレターを作る。「俺」も付き合わされるが、もっちゃんほど深刻ではない「俺」は、吹き出しが入った漫画仕立てにして早々に寝てしまう。翌朝もっちゃんは間違えて自分が作ったラブレターではなく「俺」が作ったものを持っていってしまった結果、相手に気味悪がられて振られてしまう。レモンがお話の進行途中のそこかしこに出てくるのはどんな伏線なんだろうと思っていると、相手に振られたもっちゃんは文学部に転籍して小説を書くようになる。梶井基次郎がもっちゃんだった。レモンは「檸檬」に昇華し、これまでにあちらこちらに出てくるレモンは梶井基次郎が世に出したたった一冊の本「檸檬」に繋がっていく。「俺」は、「檸檬」を手に取り早世した親友に思いを馳せながら、あの時もっちゃんがラブレターを間違えなければこの秀作は世に出ていただろうかと一人思う。

若き時を思い出しながら感傷的な気分に浸るという、映画『スタンド・バイ・ミー』にも似た感覚を覚えつつも、物語は「もっちゃん」が「俺」にくれた懐中時計を通して「ホルモー」に繋がっていく。京都支社に移った「俺」は、昔なじみの店にたまたま来た学生に懐中時計を渡し、その時計は「ホルモー」の時間を測るためのものになっていくが、その時計に印された「基」という字の意味は分からないまま学生たちは代々時計を受け継いでいく。世の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず...

「恋という言葉のすべての意味を理解した」という台詞は、もちろんもっちゃんが言ったもの。この台詞のインパクトと、梶井基次郎に繋げる技、そして時計は代々受け継がれ歴史は動いていくが人は時計の物語には無頓着という平家物語にも似た無常観。う~ん、参った。漫画チックだと軽く見ていたところに一本取られてしまっって完敗。

このオムニバス映画にも似た仕立ての小説を読んでいる最中に観た映画が『クラウド・アトラス』であったことも影響しているのかもしれない。時空を隔てて幾つものストーリーが一見脈絡なく進行していくこの映画がこの小説と私の中で同調していった。遠きよき日を思い出す心地よさと一抹の哀しさ、物語がどう進行していくのかというハラハラドキドキ感、小説と映画の両方の狙いにまんまと嵌ってしまった週末でした。




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