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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

日韓映画対決『白夜行』

2013年10月27日 | Cinemaを愉しむ
日本制作と韓国制作の映画「白夜行」を連続で見終えて考えさせられたことがあった。映画としての出来とは別の次元でのビジネスの面、それも今クールジャパンという名の下で急務となっている日本制作コンテンツの海外展開という観点で。





好き好きはあろうが、映画のクオリティという面では私は日本版の方に軍配を上げる。不幸な宿命を負った男女2名の物語として、未解決事件を追う元刑事としての性の描き方として、心無い大人が幼い子供の心に残す無残な傷跡が生む悲劇として、そして何よりもミステリー作品であることを意識させることなく画面に引きずり込んでくれる上質なミステリー作品として。

しかし、事業としての海外展開を考えた場合には韓国版の方が一般受けするだろうと思った理由は幾つかある。

一つ目が主演女優の差。堀北真希とソン・イエジンを比べると、堀北真希の方が文句なしに美形だ。個人の趣味にもよるだろうが私はそう思う。でも幼すぎるのだ。演技の巧拙ではなく、幼く見えるヒロインを起用したことでこの作品は損をしている。このことは、主としてF1狙いでここ10年以上作品が作られてきたテレビ番組と映画に言える欠点と私は思う。主演が若いことで、大人が観ると作品が『学芸会』のように見えてしまうのだ。

思い起こせば、私が日本ドラマよりも韓国ドラマを選んだ切っ掛けとなったのも日韓それぞれが制作したテレビドラマ「ホテリア」だった。この時も、主演の2人の若さと幼さゆえに日本のドラマが『学芸会』に見えてしまったことに愕然としたものだった。

二つ目がエンタメ性。日本版の暗さが気になる。人間の救いようのない業というか性を上手く描いている分だけ日本版は暗い。映画祭などでは受けるであろうが、一般層に訴えるにはエンタメ性が欠けている。韓国版が上手だと思ったのは音楽の使い方と主演男女の間の屈折した愛情の形。『白鳥の湖』をオープニングとエンディングのみならず映画の中でも使っている。事件を追う刑事は、2人を「背中がくっついた双生児」と呼んだが、これを白と黒の白鳥に置きなおして映画のテーマとして掘り起こし、その象徴としてチャイコフスキーの名作を印象的に使っている。これは音楽が分かる人には簡単に通じる暗号であり、このネット社会では音楽に詳しくない人たちにも簡単に伝わる結果、薀蓄として一緒に観にいったデート相手と語れるちょっとしたネタになる。興行面でのプラス要因だ。

主演男女の間に愛情があることには、日本版も韓国版にも差がない。でも、それを目に見える形にしているのが韓国版で、「冬のソナタ」以来日本の女性の心を鷲掴みしている韓国コンテンツならでの観客(女性層)を意識した作品作りが上手であることに一種の伝統芸を感じる。日本版では主演男女が子供の頃に「これからは会わないようにしよう」と言ってから会うことがないのに、韓国版では2人が何度もすれ違っている。すれ違いでしかないのだが、2人の間では「会っている」と満足感を感じていることが観客に十分に分かる。その象徴が、2人が隣り合ったブランコに乗っているのを、ちょっと離れた場所においたポラロイドカメラでタイマー撮影させるシーンだ。ポラロイドカメラから吐き出された写真が次第に像をなし、2人が背中をくっつけるようにしてブランコに乗っているかのように見える。こんな形でしか会えない2人だが、それでも2人の笑顔は幸福感に満ち溢れている。しかもこれがエンディングだ。悲劇のラブストーリーとして要素をしっかりと目に見えるように入れ込んでいる。こんな演出は日本版にあった記憶がない。つまりはラブストーリーの仕立てにはなっていないのだ。

主演の男女2人の間には、誰もが入り込めない強い愛の絆があることは、この作品の核の一つだ。韓国版はラブストーリーの面を表に出したのに対して、日本版は物語の下敷きとしてのみ描いている。

ミステリー作品としての質を追求する姿勢は、もの作りニッポンを支える職人業を彷彿とさせる。クオリティーは天下一品。でも分かる人にしかわからない。技はあるけどブランドになっていない。だから一般消費者には伝わらず、事業として拡大しない。「良いものを作ればいいのだ」という職人気質は否定するつもりはないが、これに事業として考える視野とビジョン、ノウハウされあれば日本はもっと強くなるのだろう。

最後は「見てくれ」。船越栄一郎が不細工な男だとは決して思わない。でも、刑事としての性を演じきっている分、見てくれが下がる。「事件に取り付かれた刑事はこんな感じだろう」と十二分に思わせてくれる分だけ損をしている。主演男女が幼い分を脇役が名演技でカバーせざるを得ないのだろうが、これも職人技に入り込みすぎているだけに、海外展開に問題が残る。なぜなら、イメージ戦略として失敗しているからだ。「クールジャパン」を演出するなら格好良くなければダメだ。憧れを生じさせなければソフトパワーにならない。日本が狙っているソフトパワー戦略は、

 日本に対する憧れ⇒日本製品の購入&日本への観光客の呼び込み

であり、憧れを生み出すのは人間の性を演じきることではなく格好良さでなければいけない。韓国版は、刑事役以外は「見てくれ」の良い俳優で揃えている。映画単体としてのクオリティでは負けていない日本は、コンテンツを戦略的に使って国力を上げていこうという闘いにおいて根っこが定まっていないのだ。『相撲に勝って勝負に負け』ているんだと言えば分かってもらえるのだろうか。

こんなことを映画を見終わった時に考えてしまった。




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カミングアウトする前のジョージ・マイケルみたいだ

2013年10月26日 | パルプ小説を愉しむ
ケン・ブルーエンの「ロンドン・ブールヴァード」の主人公ミッチェルは、なかなかのインテリだ。ムショでしっかりと読書した成果で、娑婆に出てからもしっかりと読書を続けている。だからこんな内輪ネタ的な台詞が言える。

ミッキー・スピレーンは登場人物にいつもウィスキーを飲ませてるが、それはコニャックという単語を綴れなかったからだ

出所後もやばいことに片足を突っ込みながらも、面倒から助けた女性から仕事を紹介される。彼女のおばである往年の舞台スターの世話係を。この60過ぎの元大スターのツバメみたいな立場になりながら、やばい仕事のおかげで次々と事件に見舞われる。でも、出会う事件は変な方向に進み、東欧あたりの秘密機関メンバーであった元大スターの執事兼元夫(自称)が仕掛けた罠に落ちていく。

ピカレスク的魅力を持ったミッチェルが一人称で語る物語は単純明快で、雰囲気が暗くなることなく一気に物語に引き釣りこんでくれる。

犯罪者でありながらインテリなミッチェルの台詞。

おれたちに明かりは要らない。きみの目がどんな部屋も明るくしてくれる。
 -歯が浮く台詞だ。でも使ってみたい。

ブライオニーはぴかぴかのバッグレディみたいな格好で現れた。ブランドもののゴミ袋みたいなものを着ている。
 -どこがよいのかちっとも分からないだけではなく、悪趣味的なものはこの世にありふれているよね。「ブランドもののゴミ袋」と呼ぶことにしよう

禁酒会ではよくHPという言葉を使う。ハイアー・パワーのことだ。ストリートでもHPという言葉を使うが...こちらはホームレスパーソンのことだ。両者に共通するのは酒だ。アルコール依存者は生きるためにそれを断たなきゃならない。ホームレスは生きるためにそれに依存する。
 -この言い回しは利用できそうだ。おなじ頭文字や略語を対にして、それっぽい注釈をつけれやれば、気の利いたユーモアにもなるし、嫌味にもなる。

その場かぎりの些細なことだと思っていたものが、思いがけないできごとを連鎖的に引き起こしていくことがある。自分が選択しているのだと思い込んでいても、予め運命づけられた結末のピースをはめているにすぎないことが。
 -こんな警句的な台詞を言えることがインテリの証だし、物語をハイパワーを与えてくれる。





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ミケランジェロ展

2013年10月19日 | My Diary
国立西洋美術館で開催されている「システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡」を見てきた。はっきり言って幻滅。


展示品の多くは、ミケランジェロが書いた手紙や彼に宛てて出された手紙、そして礼拝堂の壁画を描くための事前の習作。習作って準備稿みたいなものじゃない。それを「ほら、みろ!」てな具合に大事そうに展示しているのは客を馬鹿にしているのか?!金返せ!と言ってやりたいくらいだった。

一番見ごたえがあったんがTBS制作の4K映像。これの前が一番の人だかりだったのは当然だろう。他がしょぼいのだから。
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「翼を探しているんだ。君は俺の守護天使にちがいない。」

2013年10月06日 | パルプ小説を愉しむ
グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの長編小説「シャンタラム」の中の台詞。武装強盗の罪で服役していたオーストラリアの刑務所を脱獄した男が、逃亡先のインド、ボンベイの街かとで知り合ったスイス人美女に対して言う台詞。

この「シャンタラム」はとても変わった小説で、脱獄囚が逃亡先のインドで心の友を見つけ、彼らと一緒にスラムで無免許の医者として人々を助け尊敬される一方、マフィアの一員として犯罪行為に手を染め、挙句のはてにソ連に侵略されていたアフガニスタンに戦いに行く、その一方で話の冒頭で出会ったスイス人のカーラという女性に恋心を抱きながら、裏切られ、その恋から逞しく成長していくという、とても欲張りな内容の小説。上・中・下に渡り各巻が約700ページある長い物語だが、不思議な力で絡め取られ、まるで中毒になったかのように引き寄せられた。

この小説に絡め取られるであろう事は、読み始めの1ページで分かった。映画やTVドラマにあるような、主人公とその周りでストーリーが進行しているのだが音が無音で何も聞こえないシーンを彷彿させる書き出しは、世界中の時間が止まった中で自分だけが人生という時間を刻んでいるような不思議な感覚を生んでいる。自分をヒーローとは思わずに自虐的に捉えている主人公に知性と理性を見出し共感し、これは凄いぞ!読む価値がある小説に出会ったという予感がビンビンに感じられた。

『愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、いま自分が知っていることを学んだ』 という不気味かつ深遠な書き出しで始まり、『私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の中に誠実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させた詩人だ』 という自分の紹介の仕方も、これから始まる波乱万丈の人生の物語を、不可思議で魅力的にさせる魔力を持っていた。3つの繰り返し、3種類の異なる言い換えや形容が、あちらこちらで文章に説得力を与えるとともに魅力を加えている。

ストーリーも破天荒だが、主人公のリンが父として心から慕うインドマフィアのボス、カーデルとの哲学論争に似た会話と、リンの心の中に住み続けるカーラという女性の謎とリンの心の成長がこの物語を短なる冒険小説という小さな枠に止まらせずに、先々へと読み続けさせる力を持っているのだと思う。

タイトルの台詞はキザで歯が浮くようなものだが、善とはなにか、生命の始まりはどんなものだったかといった内容のカーデルとリンの会話は哲学思考そのもの。なんでマフィアのボスと脱獄した武装強盗がこんな高尚は会話ができるのだろうかと不思議に思うのだが、そんな懐疑的な考えを吹き飛ばすくらいの内容の濃さと文章力とでグイグイと惹き込まれて行く。

リンのヨーロッパ人仲間たちがいつも集うバーでの会話に、
『フランス人は世界で一番洗練されている』 というフランスからの流れ者の発言に対して、
『あんたの国の町やぶどう園がシェイクスピアを生み出すようなことがあったら同意してあげる』 と返す。これがウィットなんでしょうね。そんなことあるか!とか、フランス人の欠点を論って反論するのではなく、こんな風な相手に反撃できたら英語での会話が面白いのだろうね。(でも、日本でこれをやると嫌味な男にまっちまうのだろうが...)

これを受けたフランス男も大したもので、
『ぼくが君たちのシェイクスピアに敬意をはらってないなんて思わないでくれ。僕は英語が大好きだ。あまりに多くの英語がフランス語に由来しているからね』 と負けていない。論点がガチンコにぶつからずに微妙にずれながらも、会話自体はガチンコでぶつかって昇華していく。

『政治家というのは、そこに川がなくても橋を作ると約束するような連中のことだ』
 -言い得て妙だ。政治家とは世界のどこでも同じ種族なのだろう。

『錆付いた大型船と優美な木造船のコントラストは、世界における近現代の冒険のテーマが、海上生活というロマン願望から、暴利をむさぼる商人の味気ない効率重視の儲け主義へと移り変わった歴史を如実に物語っていた』
 -ロマンから儲け主義へ!という台詞は自分の就いている仕事にも使えそうだ。

『運命にはいつもふたつの選択肢がある-選ぶべき運命と、実際に選ぶことになる運命のふたつだ。』
 -渋い、渋すぎる。

チャンドラーが描くフィリップ・マーローが吐く台詞のようだが、「シャンタラム」のリンはマーローが持つヒーロー願望など欠片もなく、自分に対して後ろめたさを常に隠し持っている。スラムに住む貧しくとも心豊かで正直な人々に憧れつつ犯罪の手助けをする自己贖罪に満ち満ちた人物という設定も、物語を神秘的なものにしている。
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