お愉しみはココからだ!!

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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

「そういうあなたを見たくないんですよ」

2006年04月30日 | パルプ小説を愉しむ
『影の叫び』(エゴ・ゴーマン)の主人公ジャック・デゥワイアは私立探偵。それもフィリップ・マーローばりのとびきりハードボイルド派。でもちょっと違うんだな、人物が。弱いものに暴力を振るう奴等には強い腕っ節で対抗し、日々の生活に追われる市井の人々には優しい目を向ける。毎日を精一杯生きている人たちに対して、その人ならでは美点を見つける優しくヒューマンな心の持ち主という文句のないハードボイルド主人公なんだが、やりすぎちゃいましたね、エド・ゴーマンは。あまりにハードボイルドとしての印象を強めた結果、かえって不自然になってしまった。清廉潔白すぎて近づきがたい人間がいるように、この主人公も親近感が持てないお話の中での作り物としての存在になってしまった。ロス・トーマスが描く登場人物たちだと、ワルとは分かっていながら好きになってしまう人間臭さプンプンなのに対して、ジャック・デゥワイアはアンドロイドみたいに完璧な主人公なので、尊敬はできても好きになれないのです。小説の主人公としてはちょっとね、って感じがしてしまうのです。

超一流レストランのオーナーの一人が殺され、その奥方に殺人事件調査を依頼される。この奥方も、もう一人のオーナーも被害者を嫌っていた。2ブロック先にあるホームレス保護施設に勤める女性を訪ねて色々なことを聞き出そうとするのだが、そのシーンでタイトルに書いた台詞が登場する。

これって便利な台詞だと思いました。女性にあれやこれや辛らつなことを言ったり、こちらにとって都合の悪い状況下で相手が興奮したりした場面で、相手の逆上した醜い姿を軽く言及して

「そういうあなたを見たくないんです」

というのは使える手だと思ったのです。興奮して逆上した相手と100%面と向かうのではなく、上手にはぐらかしつつ、「君は本当は素晴らしい女性なのになぜそんなことをするの?」と言いたげな余裕を持った対応。ズルイ手だとは思うものの、いちいち相手をしていられる程の暇人でもなし、適当にあしらっておきたい時ように頭にメモリーしておくことにしました。
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IQが靴のサイズにも満たないような話し方

2006年04月29日 | パルプ小説を愉しむ
シドニー・シェルダン同様の軽薄な女性が描く女性の幸せ追及物語かと思って『偽りのカンバス』(シャリー・コンラン)を読んだが、全く違って読み応えありました。

才能はあるが自分に自信が持てない一人の女性が、二度目の結婚相手に画家としての才能を見出され人気画家になっていく過程で、成功している画家としての自分と本来の自分とのギャップに気付き悩み、そして南仏にある昔馴染みの小村で理想の恋人に出会って再スタートを切る。そんな自分探しの中で、知人宅で見た高額な古絵画を贋作だと言ってしまったがために、贋作追求に取付かれてしまう。挙句に脅迫状が届き、夫の不倫にも気付いて、精神的にぼろぼろになりながらも、世界的な絵画コンクールのための出展作品を仕上げつつ、贋作探しに徘徊し、そして自分探しの旅にも出てしまう。なんて盛りだくさんで欲張りなストーリーなことか。やはり女性による女性のための小説ゆえか。

物語はテンポよい進展で次から次へと話が進んで読み飽きない。そして何よりも愉しかったのは、主人公やその友人の口から出てくる作者の独自の哲学や物の見方。例えば、マドンナのミュージックビデオを称して

巧妙に操られて冷静に宣伝されたマリリンとはちがって、この現代のセックスの女王は自分で自分を巧妙に宣伝している。昔から女性の性を売り物にしてあげた利益は、常に男性が懐に入れてきた。マドンナは利益をしっかり確保している初のセックスの女王といえた。

と言ってみたり、

「ダイヤモンドは若い娘の第一の親友はなくて、男たちの第一の親友なのよ。彼らをわずらわしいことから解放して、自分の女を文句を言わせずにおとなくしさせておくご利益があるから。」

と信頼する叔母に言わせてみたり、物語とは何の関連もない内容なのだが、しっかりと著者の主張が盛り込まれている。尤も後者はどこまで本心なのだか、自立した女性であることを際立たせるためだけのハッタリなのかは不明ですが。

法律に関しても然り。

「たとえ申し立てが政党であることには疑問の余地がないとしても、敗訴になることも珍しくなくて。訴訟を正義を云々するんじゃなくて、苦心惨憺作り上げられた不合理で現実離れしている法律という名の規則との駆け引きですから」

といった小気味の良い啖呵ばりの台詞も飛び出す。こんな台詞がポンポン出てくるような人物が、「自分の意見をしっかりと持っている知性あふれる人物」ということになるんでしょうね、あちらの上流世界では。

一番好きだった台詞は、叔母さんが主人公に対して、どうしたら幸せになれるかを教え諭す台詞:

「何がしたくて何がしたくないのか そうしてそれはなぜなのか、まずはっきりさせることね。その上で必要がないとリストアップしたものを一つ一つ消去していく。人生の秘訣は消去にありってわけよ。」

これは当たっていると思ったね。何でも欲しがるモエちゃんでは物質的な欲求は満たせても、決して幸せにはなれないんだろう。幸福とは心も持ちようなのだから。

気に入った台詞は、

「きみはIQが靴のサイズにも満たないような話し方をする」

というもの。こんな馬鹿なタレントや若い子が今の日本にはいっぱい居るよなと思った。こんな知恵遅れを「かわいい」と言って持ち上げているのが流行だから。思わず膝を叩いてしまった台詞でした。

そして気付かされたのは話の冒頭部分にあったこの文章。

ジャーナリストの第二の天性ともいうべき人と気持ちを分かち合う能力におおいに恵まれている。

洒落た台詞を口にできるだけではなくて、「人と気持ちを分かち合う能力」ですか。勉強になりました。
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"DEAN & DELUCA" のリコッタチーズケーキ

2006年04月03日 | スウィーツを愉しむ


ただの「チーズケーキ」ではなく、チーズの種類が誇らしげにネーミングに入っているので、豊満なチーズ味を想像して舌舐めずりしながら購入しました。

普通のチーズケーキよりもはっきりとした味だったが、想像していたようなシツコいくらいのチーズチーズした味ではなかったのが意外。想像を膨らましていた分期待はずれだったが、それでも美味しいケーキではありました。
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幸せになるためのイタリア語講座

2006年04月02日 | Cinemaを愉しむ
久しぶりにヨーロッパ映画を観ると不思議な感じがする。フランス映画はともかくとしてデンマーク映画ともなると映画の作法に違和感がある。筋の進行具合がスローで、かつスムースではない。登場人物の身の周りを描くのだが、それぞれに直接的な関連が少ないために、ひとつの映画でありながらバラバラで不統一感がする。

デンマークのの小さな町で8人の男女がイタリア語を習う。それぞれが別の人生と仕事を持つ者たちが、なぜかイタリア語講座に集う。講座は彼らの社交場であり、日常生活を忘れるための象徴な場。ある者は人に薦められて、ある者は自分の生活に変化を求めてクラスに参加する。彼らには彼らの生活があるが、それぞれが講座内外ですれ違う。

2人の女性は、葬儀で自分たちが姉妹であることを知り、妹は牧師に仄かな恋情を持つ。不器用なホテルマンは親友のレストランで働くイタリア女性に好かれ自分も好ましく思っているのだが、相手を誘う勇気が出ない。これらのお話一つずつは決してそれだけで見栄えのするシーンでも見所ある場面でもない。これらが渾然一体となって物語りが進むのだが、恋愛もののハリウッド映画とは違って大団円に向かって行く大きなうねりとも異なる。細々した脈絡のない出来事から人々の毎日が出来上がっているように、ただただ出来事としてつながっていく。

あくまでも主役は全員であり、彼らの恋心と心のふれあいがメイン。スタープレーヤーはいないが、全員で攻めて守る昔のオランダサッカーチームのようで、まとまった全体として物語が成立する。事件とも無縁であり、淡々と物語が進むのだが、それでもなぜかほのぼのとした気持ちとなる。

常日頃見慣れた映画の作法から離れて、漢方薬みたいに、ゆったり、ほんわか、じんわりと幸福感に浸れる映画でした。
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カカオの恵み 85%

2006年04月01日 | スウィーツを愉しむ
カカオ分が多いチョコが美味しいのかと思って、カカオ分85%と商品名に並んで表示されている国産チョコを買ってみました。カカオ85%の味は苦味がとても強く、口に含んでいる間も飲み込んだ後にも強い苦味が残ります。リッチと形容するよりも、しつこいと呼べるほどにくどい苦味で、普通のチョコレートからイメージされる味とはほど遠い。大人にもそう感じるくらいですから、もちろん9歳の長女には不評でした。

カカオ分の高さが味と正比例する訳ではないことがよく分かりました。


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「べつに言いがかりをつけるつもりはない。ひとこと所見を述べただけと考えてくれ」

2006年04月01日 | パルプ小説を愉しむ
『夜がまた来る』(エド・ゴーマン)の主人公ジャック・ウォルシュは私立探偵らしくない。なにせ64歳と高齢な上に、住んでいるアパートの管理人もしている。家賃を半額にしてもらう代わりとして。

とは言え、老人には老人の武器がある、とぼくれるという武器が。小泉第一次内閣の財務相だった塩爺も最初の記者会見で使って一躍人気者になった強力な武器です。相手に対してキツイことを言いながら、

「べつに言いがかりをつけるつもりはない。ひとこと所見を述べただけと考えてくれ」

などと言ってチャッカリとその場を納めてしまう。相手が爺さんだと攻める相手もついつい敬老精神のせいか、ついつい攻め口が弱くなって許してしまうもんか。

年寄りとは言え、このジャック・ウォルシュ爺さんは隅に置けない。向かいに住む32歳の女性と恋仲だし、この女は自分の赤ん坊の父親をジャックだと言っている。警官時代に逮捕した男の妻からの依頼で、男の無罪を証明する仕事を頼まれる。当然断るが、その夜に依頼者宅の裏庭で一人の女が殺された。家族の過去を穿り返すこととなる。当然昔の事件も再調査することになる。

老人らしい雰囲気を出そうと「わし」と自分を呼ぶ。派手な立ち回りは一切無し。地味なキャラクターで物語も地味メ。読みながらも頭に浮かんだイメージは、ヘミングウェイの遺作『海流の中の島々』のトーマス・ハドソンの生活。半引退した身をビミニの海辺の民家に置き、島の生活の一部となりながら自由に好きな絵を書いている。高台のある自宅からおりたビーチで朝ひと泳ぎし、届けられたばかりの朝刊をゆっくりと読みながらの朝食。島の時間はゆったりとしている。こんな引退生活に惹かれているから、ジャックの探偵生活は私にはちょっと今イチだったな。
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