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コージーミステリーを読み耽る愉しみ その6 フレーヴィア・ド・ルースシリーズ(アラン・ブラッドリー著)

2023年01月31日 | パルプ小説を愉しむ
このシリーズを読んだのは4年以上前。主人公のフレーヴィアが生意気でいけ好かない小生意気な化学好きな11歳の少女であったことは覚えている。図書館の棚にあった『不思議なキジのサンドウィッチ』はシリーズの第6話。2話からいきなり6話に跳んでしまったのだが仕方がない。

6話の書き出しはいきなり「おまえたちのお母さんが見つかったんだ」で始まる。死んでいたはずのフレーヴィアたち姉妹の母親のハリエットがみつかったとは??読み飛ばした3話から5話の間で何が起こっていたのかと思ったが、読んでいくと母親ハリエットの死体が見つかって地元バックショー荘に戻って来たのだった。ヒマラヤ山中で見つかったハリエットの死体は冷凍状態にあり、そのまま棺桶に入れられて地元バックショー駅に戻ってきた。棺桶に付き添ってきたのは軍服に身を固めた人々。空軍少将だという叔母も袖にストライプが入った軍服を着ており、しかも元首相のチャーチルまで来ている。時は1951年だから元首相だ。これだけの人物がいきなり登場するのだから、湧いてくる当然の疑問としてハリエットとは何者だったのだ?フレーヴィアが屋根裏部屋で偶然見つけた映写機と映画カメラ。カメラには未現像のフィルムが残っていたのだが、化学好きの少女にとってフィルムの現像は簡単な作業。フィルムに記録されていたのは飛行機から降りるお腹が大きなハリエット(中にいるのはフレーヴィア)。父と一緒にピクニックしているハリエット(だれが撮影した?)。カメラがパンした際に屋敷内に立っていた長身のアメリカ軍人と思われる男性。そしてカメラに向かって何かを伝えようと口を動かすハリエット。口の動きが伝える言葉は「キジのサンドウィッチ」。やった、題名に関連するキーワードが謎として提示された。同じ言葉は冒頭の死体が戻ってきた駅で元首相のチャーチルも口にしていたのをフレーヴィアは耳にしている。謎の言葉は何を意味しているのか、そしてハリエットがヒマラヤの氷河の中で死んだ理由は?

フレーヴィアは凍死した死体にアデノシン三リン酸とビタミンB1を注射することで凍死死体を蘇らせることができるという説を思い出して試そうとする。お通夜の夜伽の担当時間に決行する。覆いを開け、棺桶の中にドライアイスを閉じ込めている亜鉛の覆いを苦労して切り取ったところ、母親の顔が出てくる。手を差し入れたところ紙入れが見つかる。抜き出したその瞬間に内務省の役人たちがやって来てフレーヴィアは部屋から追い出されてしまう。せっかくの苦労が無駄になったものの、手に入れた紙入れの中に遺書があることを見つける。自分が読むべきではないと思ったフレーヴィアは父親に渡すタイミングを見計らう。そんなうちに夜が明け葬儀が始まる。紙入れに手がかりが残されていないか探そうとしているうちに、ブンゼンバーナーで炙った紙入れの表面に字が浮かび上がる。Lens Palace。母親が残したダイイングメッセージだと直感するものの意味不明。モヤモヤしたまま葬儀に出る一族だったが、教会のステンドグラスに書かれた文字からLens Palaceがハリエットを殺した犯人の正体に気付く。なんと身内のリーナ・ド・ルース。ばれたと分かり逃げようとするリーナは警察に追われ、教会のガラスに挟まれて出血多量で死んでいく。ハリエットは大戦中に日本軍のスパイをあぶりだす作戦に従事していたところ、スパイ本人のリーナに殺されていたのだった。

事が終わった後で、遺言が執行される。バックショー荘を含むハリエットの財産は末子のフレーヴィアが相続することとなり、フレーヴィアは母親と同じカナダの女子学校に寄宿することとなった。嫌がるフレーヴィアだが、化学実験装置が充実していることを知らされるや行く気満々になってしまうところが化学好きならではの思考回路だ。

第1話では11歳だったフレーヴィアは第6話で12歳。6件の事件が起こっているのが1年ちょっとの間。最初はいけ好かない科学オタクとした思えなかった少女だが、実は思いやりの情にあつい少女でもあったことが分かる作品だった。

窓というのはほとんど変化せずに存在しながら、つねに変化している外の時代を見ていることができる手近にある化学の奇跡だ!
強調されると思わずそうかも、と思ってしまう。ちょっとした哲学っぽい台詞。

恋愛と戦争と頑固な姉の操作にかけては何をやってもかまわないのだ。
12歳の少女なりにつかんだ仲の悪い姉たちとの付き合い方。それを恋愛と戦争にも応用させてしまうところにフレーヴィアの恐ろしさと賢さが見て取れる。作者の意図と計算が遺憾なく発揮されているなぁ。

光を与えよ(ダレ・ルケム)
多分ラテン語だろう。覚えておけば使えそうだ。

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■『人形遣いと絞首台』
シリーズ2作目となるこの作品でも、フレーヴィアちゃんは相変わらずいけ好かない子供だ。口は悪いし、自分の興味本位で行動するし、姉に対する悪戯が半端ない。それでも、この悪魔的な主人公に愛着を感じてしまうのは、主人公であるからなのであろう。彼女の一挙一足が物語を生み出し、彼女の意見や考えが述べられることでストーリーが進む。性格が悪いと断定されている姉二人から見た物語があったとしたら、フレーヴィアはさぞかしボロクソになっているのだろう。どんなに嫌なやつでも、その人間に密着して、その人間からの意見のみを聞かされると、許せるようになるだけではなく、愛着も感じるんだろう。

映画などで、ダーティーヒーローやヒールと呼ばれる役が愛され役になるのも、同じ心理なのだろう。現実の世で一緒に時間を過ごしたならば、決してそうは思わないことを感じてしまうのだろう。その意味で、欧米映画において、アジア人が一人の人間として描かれないことは、彼らの人種的な偏見に根付くものだろうし、彼らは決して一人の人間としてアジア人を見ようとしていないよね、本題とは違う話だけれど...

それにしても、フレーヴィアちゃんの化学知識は驚愕もので、罪の意識から殺鼠剤を飲んで自殺しようとした殺人犯に鳩の糞から解毒効果のあるNaNO3を抽出して飲ませることで一命をとりとめさせる。こんなことが11歳にできるのか?著者の化学知識も半端ないよね。

    ☆★☆★☆★☆★☆★

そりゃ、シンシアが仕切り上手だということは認めざるを得ないけど、そんなことを言えば、鞭を持ってピラミッドを立てさせた男の人たちだって仕切るのがうまかったわけでしょ。

厳しい一言だね。ピラミッドが奴隷によって立てられたかどうかは議論の余地があるようだが、そんなことはお構いなしに世にはびこっている偏見を利用して自分の嫌いな相手のことを悪く言っている。これが11歳か(もちろん、著者は11歳ではないが)。


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■『パイは小さな秘密を運ぶ』
主人子は、なんと11歳の女の子。11歳といって侮る無かれ、化学が趣味でそん所そこらの大人では太刀打ち出来ないほどに化学の知識を持っており、その上、性格がチョコッとねじまがっている。なにせ、2人いる姉に対して、辛らつな言葉を吐くだけではなく、化学の知識を使って復讐をしっかりと計画的に実行するくらいだから。

フレーヴィア・ド・ルースというのがその女の子の名前。イギリスの田舎に住んでおり、2人だが召使もいる。決して金持ちではないが、しっかりとした名家の有産階級の子供。この11歳が、自宅の庭で起きた殺人事件を解決してしまう。解決するまでに、あっちこっちをフラフラを放浪しつつ、それでもしっかりと推理しながら、誤認逮捕されてしまった父親を救い出すんだから大したものだ。

    ☆★☆★☆★☆★☆★

男性と女性の間は壊れた電話で繋がっていて、どっちかが電話をきったとしても絶対にわからない。でも女の子が相手なら、最初の三秒間でわかる。女の子同士の間には、音も無く目にも見えない信号が絶えず流れている。
これが11歳の女の子が口にする台詞だろうか。人生をしっかりと生き抜いたおばさんが口にしそうな深遠な哲理だね。こんな台詞が吐ける女の子という設定がいいよね。

ドガーは入ってきて、驚いてまわりを見渡した。まるで、気が付いたら古代シュメールの錬金術師の実験室に運ばれていた、と言わんばかりに。
古代シュメールと錬金術の2重の組み合わせが絶妙だね。

全体的にとても異質で、冥王星で起きている出来事のようだった。
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『平家物語』 古川日出男訳

2023年01月20日 | 読書雑感
現代語訳にて『平家物語』を全巻、灌頂の巻を含めて読んでみた。そして、以前原文で拾い読みした時と比べて、この古典に対する印象が異なっていることに読みながら気付いた。

■ 場面転換の上手さ
まず、この物語の私なりの面白さは場面転換の上手さだった。京の都の出来事を述べた直後に、「西には」や「さて、東の源氏は」と言ってお話自体の場面を急転換させたり、語る琵琶法師自身のその場の描写や自身の思いから突然源平の物語へ移っていく転換、登場人物の気持ちや言動から状況への移動等々、時には数字に引っ掛けたり(琵琶が三面、東の源氏、西の平氏、そしてその中の京の三つというように)しながら自由自在に場面転換を行っていきつつ物語を進める様は、琵琶法師の弾き語りの伝承の面目躍如といったところか。

■ 物語のテーマ
もちろん、仏教思想、即ち無常という考え方が土台にあった上で、「光と闇」が主たるテーマなのだと感じた。天皇を中心とした平安貴族が光で、それに対して貴族たちに使われて治安や反対勢力を潰していく暴力装置としての武士は闇であったが、清盛の時代に闇の存在だった武士が光となることで力が逆転し、そして全盛の平氏の影に隠れていた源氏が立ち上がって平氏を倒すことで闇から光となると同時に、滅ばされてしまった平氏は光から闇の世界へと落ちていった。清盛の父親、忠盛が殿中で仕掛けられた「闇」討ちを自らの才覚と度胸で切り抜けただったことで平氏盛隆が始まったことがこの物語の冒頭であることが象徴的だ。

■ 源氏の物語ではなく「平家の物語」
六の巻で奸雄の清盛が死に、七の巻から次第に源氏に押されだした平氏は十二の巻で滅亡してしまう。平氏側は清盛はもちろんのことだが、重森、維盛、宗森、友盛、重衡等々、名だたる一族それぞれの生き方が詳細に描写される。一方、棟梁の頼朝を始め、範頼、義経、義仲などの源氏一族も描写はあるものの、平氏ほどではない。特に清盛に対抗する存在であるはずの頼朝は、登場回数が少ないのみならず当たったはずのスポットライトがすぐに他へ移ってしまう。源氏の中で最もスポットリライトを浴びているのは義仲と義経。義仲は真っ直ぐではあるが無教養な田舎者としてキャラクター付けがしっかりとなされ、義経は戦いには抜群に強いが人格的にはいかがなものか、という描き方がなされる。どちらも、清盛の大悪人ぶりに比べると存在が軽い。驕った平氏が仏罰で滅びるという展開ではなるが、滅んでいく平氏の一族に対する優しい。特に戦いに敗れて囚われの身となった一族の人間に対しては同情的な描写がされている。「光と闇」ではあっても「善と悪」ではない。勧善懲悪の物語ではない。光には光なりの善と悪、闇には闇なりの善と悪があり、限りないグラデーションの中に善と悪とがあるだけで、時々刻々と移りかわっていく様は無常。どちらも語るためには、光と闇の両方を経験した平氏を中心とすることは当然の成り行きだったのだろう。だからこそ、勝って天下を取った源氏の物語ではなく、光でも闇であった平氏の物語になったのだろう。

■ 価値観の違い
源氏の兵士たちは勝つことに貪欲だ。相手に組み伏されて馘を取られる寸前に降伏を申し入れて許された源氏の兵士が相手の隙をついて馘を取る、見事に舟の上の扇を射通した那須与一を称賛するのは源氏のみならず平氏の兵士たち、そして与一の見事さに感激した平氏の武将が船の上で舞を舞っているところを平気で射殺してしまう義経。卑怯と今では思われる行為するすることに躊躇のない源氏に対して、負けたら潔く首を出しだす平氏。この両者の価値観は全く違う。この価値観の違いも善と悪とで分けることなく、語る琵琶法師はある時は源氏の肩を持ち、ある時は平氏の側に立つ。木曾の義仲の描写も、田舎元として描かれる時は京の貴族の視点=価値観で描かれ、最期となる戦いの時は侍の視点=価値観で勇ましく描かれる。そこにも善と悪はない。
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