『雨あがる』は巨匠黒澤明が映画化を暖めていた企画で、ラストシーンのみを撮影したところで事故死した後、弟子とも言える小泉堯史監督が引き継いで完成させた映画。脚本はもちろん黒澤明。
『博士の愛した数式』もそうだったが、小泉監督の得意は名も無き市井の人々の清く正しい小さな幸せを取上げて、善良なるものこそ幸せであると言わんばかりのスモールワールドを描くこと。観終わった時に、大したことのない自分の人生もそれなりに素晴らしいことがあるのかな、正直に生きていればそれないに幸せなのかなという、ポワっとした何とない幸福感を感じさせはするのだが、この手のひらの上でのママゴトのような幸福感がなんとも平和ボケしている極楽トンボのように感じてしまった。縮こまろう縮こまろうとする意識とでも言ったらよいのだろうか、それが鼻につくのですね。映画を観た後で幸福感に浸れるものの。
欲を出すまい、大それたことをすることもない、毎日を必死に生きようという意図だけでは人間が善良であるということにはなるまい。「どんな悪事であっても行為がなされた理由は善意だったのである。」これは塩野七生が『ローマ人の物語』の中で喝破した言葉。私にはこちらの方がシックリくるのです。人間生きていくからには社会に対する何がしかの責任がある。それを果たすことこそがこのご時世に必要なことではないかと思う。ただただ、欲を出さず大それたことを望まないというだけでは社会は良くならないだろう。
『博士の愛した数式』もそうだったが、小泉監督の得意は名も無き市井の人々の清く正しい小さな幸せを取上げて、善良なるものこそ幸せであると言わんばかりのスモールワールドを描くこと。観終わった時に、大したことのない自分の人生もそれなりに素晴らしいことがあるのかな、正直に生きていればそれないに幸せなのかなという、ポワっとした何とない幸福感を感じさせはするのだが、この手のひらの上でのママゴトのような幸福感がなんとも平和ボケしている極楽トンボのように感じてしまった。縮こまろう縮こまろうとする意識とでも言ったらよいのだろうか、それが鼻につくのですね。映画を観た後で幸福感に浸れるものの。
欲を出すまい、大それたことをすることもない、毎日を必死に生きようという意図だけでは人間が善良であるということにはなるまい。「どんな悪事であっても行為がなされた理由は善意だったのである。」これは塩野七生が『ローマ人の物語』の中で喝破した言葉。私にはこちらの方がシックリくるのです。人間生きていくからには社会に対する何がしかの責任がある。それを果たすことこそがこのご時世に必要なことではないかと思う。ただただ、欲を出さず大それたことを望まないというだけでは社会は良くならないだろう。