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『平家物語』 古川日出男訳

2023年01月20日 | 読書雑感
現代語訳にて『平家物語』を全巻、灌頂の巻を含めて読んでみた。そして、以前原文で拾い読みした時と比べて、この古典に対する印象が異なっていることに読みながら気付いた。

■ 場面転換の上手さ
まず、この物語の私なりの面白さは場面転換の上手さだった。京の都の出来事を述べた直後に、「西には」や「さて、東の源氏は」と言ってお話自体の場面を急転換させたり、語る琵琶法師自身のその場の描写や自身の思いから突然源平の物語へ移っていく転換、登場人物の気持ちや言動から状況への移動等々、時には数字に引っ掛けたり(琵琶が三面、東の源氏、西の平氏、そしてその中の京の三つというように)しながら自由自在に場面転換を行っていきつつ物語を進める様は、琵琶法師の弾き語りの伝承の面目躍如といったところか。

■ 物語のテーマ
もちろん、仏教思想、即ち無常という考え方が土台にあった上で、「光と闇」が主たるテーマなのだと感じた。天皇を中心とした平安貴族が光で、それに対して貴族たちに使われて治安や反対勢力を潰していく暴力装置としての武士は闇であったが、清盛の時代に闇の存在だった武士が光となることで力が逆転し、そして全盛の平氏の影に隠れていた源氏が立ち上がって平氏を倒すことで闇から光となると同時に、滅ばされてしまった平氏は光から闇の世界へと落ちていった。清盛の父親、忠盛が殿中で仕掛けられた「闇」討ちを自らの才覚と度胸で切り抜けただったことで平氏盛隆が始まったことがこの物語の冒頭であることが象徴的だ。

■ 源氏の物語ではなく「平家の物語」
六の巻で奸雄の清盛が死に、七の巻から次第に源氏に押されだした平氏は十二の巻で滅亡してしまう。平氏側は清盛はもちろんのことだが、重森、維盛、宗森、友盛、重衡等々、名だたる一族それぞれの生き方が詳細に描写される。一方、棟梁の頼朝を始め、範頼、義経、義仲などの源氏一族も描写はあるものの、平氏ほどではない。特に清盛に対抗する存在であるはずの頼朝は、登場回数が少ないのみならず当たったはずのスポットライトがすぐに他へ移ってしまう。源氏の中で最もスポットリライトを浴びているのは義仲と義経。義仲は真っ直ぐではあるが無教養な田舎者としてキャラクター付けがしっかりとなされ、義経は戦いには抜群に強いが人格的にはいかがなものか、という描き方がなされる。どちらも、清盛の大悪人ぶりに比べると存在が軽い。驕った平氏が仏罰で滅びるという展開ではなるが、滅んでいく平氏の一族に対する優しい。特に戦いに敗れて囚われの身となった一族の人間に対しては同情的な描写がされている。「光と闇」ではあっても「善と悪」ではない。勧善懲悪の物語ではない。光には光なりの善と悪、闇には闇なりの善と悪があり、限りないグラデーションの中に善と悪とがあるだけで、時々刻々と移りかわっていく様は無常。どちらも語るためには、光と闇の両方を経験した平氏を中心とすることは当然の成り行きだったのだろう。だからこそ、勝って天下を取った源氏の物語ではなく、光でも闇であった平氏の物語になったのだろう。

■ 価値観の違い
源氏の兵士たちは勝つことに貪欲だ。相手に組み伏されて馘を取られる寸前に降伏を申し入れて許された源氏の兵士が相手の隙をついて馘を取る、見事に舟の上の扇を射通した那須与一を称賛するのは源氏のみならず平氏の兵士たち、そして与一の見事さに感激した平氏の武将が船の上で舞を舞っているところを平気で射殺してしまう義経。卑怯と今では思われる行為するすることに躊躇のない源氏に対して、負けたら潔く首を出しだす平氏。この両者の価値観は全く違う。この価値観の違いも善と悪とで分けることなく、語る琵琶法師はある時は源氏の肩を持ち、ある時は平氏の側に立つ。木曾の義仲の描写も、田舎元として描かれる時は京の貴族の視点=価値観で描かれ、最期となる戦いの時は侍の視点=価値観で勇ましく描かれる。そこにも善と悪はない。

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