お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

『花の影』 平岩弓枝著

2023年02月24日 | 読書雑感
一人の女性の生き様を、桜になぞらえて描く。桜の24時間を八つに分断して、十代から八十代までのその女性の生きた軌跡を描き切った小説、それが『花の影』。夫を捨ててまで一緒に版画画家と暮らした母親と同様に、版画画家の息子と恋に落ちたものの、互いのすれ違いから結婚することなく、男の影を引きずりつつ、影の存在として一生を終えた幸せな女性の物語は、こんな具合に桜になぞらえられている。

十八歳のとき
夜のすみに、僅かに白さが感じられるほどの時刻であった。

二十四歳のとき
午後六時の桜は、ごく薄い靄の中に居た。どこか、もったいぶってみえるのは、用心深さのせいであった。朝の桜は、これからの自分になにが起こってくるのかまるでわかっていない。
やがて陽が靄のふちを通ってオレンジ色に輝きだすと、花は初々しさに満ちた。若い自信と不安が、花の両側にある。それが、この時刻の花の魅力のようであった。

三十五歳の時
午前九時の桜は、細い雨の中で、なにかに耐えているようにみえた。
もっとも、濡れた花の色は一層、うす紅を増し、花片にはお雨をはじき返すほどの弾力があった。
この季節の雨は、花の美しさにしっとしているようなところがあって、きれいに咲いた花の上に限って容赦なく振り続ける。
それでも、花は、毅然とした貌を決してうつむけなかった。

四十歳のとき
正午の桜はこの時期にしては明るすぎるほどの日差しの中で、あでやかに咲いていた。
薄紅色の小さな花は、一本の枝に丸く群がるように咲き誇っているのに、どこか寂びしげにみえるよは、広すぎるほどの空と入り組んだ備前の海を背景にしている所為かもしれなかった。

五十一歳のとき
午後三時の桜は、どこかで自分の運命を甘受しているようなところがあった。
やがて訪れてくる夕暮を待つ間の、ほのかな倦怠の中で放心したように人生をみつめていることが多い。その貌は、常に寂しげだったが、寂しさが身についてしまった落ち着きがある。そして、花は、自分がもう満開のときを過ぎているのに気が付いていた。

六十一歳のとき
夕暮れの桜は、漸く強くなりはじめた風の中にあった。
たそがれに、花は白く、まだ色も香もある風情であったが、桜はそれを恥じるかのように、貌をそむけている。
夜の暗さの近づくのを、花が強風に耐えながら、ひとすら待ち続けているようであった。

七十歳のとき
午後九時の桜は、月光の中にあった。そのせいか、花は昼よりも蒼味を帯びて見える
夜の帳は桜の周囲に会った余計なものを少しずつ闇の中に包み込んでいた。
それは、花にとって、わずらわしさはなくなったものの、なにかした物足りない、寂しげな気分であった違いない。
それでも、桜の老樹は大地にしっかり根を下ろし、梢の花は玲瓏と光り輝いていた。

八十二歳のとき
真夜中の桜は、無数の星を頂いていた。
或る星は、間近く光、或る星ははるか彼方の大空から桜を見守っていた。
星かありを花片に受けて、桜は闇の中でしらじらと気品に満ちている。
そして、花はすでにちるための身支度をはじめていた。
この春に、なにかし残したことがありはしないかと、静かに自分の周辺をみつめながら、やがて来る風を穏やかに待っている気配であった。
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『古典力』 齋藤孝著

2023年02月24日 | 読書雑感
古典とは:
思想・哲学科学等さまざまな領域で人類の遺産と呼べる著作。精神の核を形成してくれる力、生命力がある。

古典力とは:
名著を自分の古典として日々の生活や思考に生かす力

古典の素養があることは教養があるための必須条件
多用な価値観を理解し受容するには知性が求められる。数々の古典を自分のものとしていくことで、この知性は鍛えられる。

【古典を読むための十か条】
1. 一通りの知識を事前に得る
2. 引用力を磨く

好きな文を選ぶと言う作業は、自分と本(著者)とを関わらせる意識を高める。
なんとしても引用したい文を見つけようと思って読む。そして、なぜその文に惹かれたのか、その文と繋がる自分の経験はあるかと考える。感覚という語群探知機で探し出した魚を、論理という網でしっかりと捕まえる。
3. さかのぼり読み
古典は古典を生み出す。影響を受けた古典を源流を遡るように読み込む。
4. バラバラ断片読み
肩の力を抜いて、ページをめくる。偶然出会った文章に心を止めそこから何かの刺激を受け取る。
5. 我田引水読み
自分の経験に引き寄せて読む。惹きつける課題意識が反復によって心の習慣となって気付きが生まれる。
6. つかり読み
古典の世界にどっぷりとつかり込むためには、スローリーディング、読む時間帯を決めて習慣化する
7. クライマックス読み
その本の最も輝いているところ、その古典の本質や魅力が凝縮されているところを拾い読みする。
8. 演劇的音読
少々大袈裟に演劇的に音読することで、言葉を字面ではなく、身体全体で味わう。
身体で言葉を感知し、響きにかえてゆく過程で深く言葉を味わう。
9. バランス読み
客観的な意味の把握と主観をまじえた解釈の二つを両輪として読み進める。
古典の真理を汲み取る力をマスターする。古典の言葉がヒントとなって、見えていなかった現実のある側面が新たに見えてくる。
自分の現実とすり合わせて古典を読む習慣をつける。古典の普遍的真理と現実の課題との間でバランスをとる。
10. マイ古典の森を作る
自分の人格の一部になったり、社会や物事をいる視点が大きく変わったりしたばあいには、マイ古典の称号を与え年々増やしていく
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『ユング心理学と仏教』 河合隼雄著

2023年02月20日 | 読書雑感
■ 関係性ということについて
近代になって急激に発展した自然科学は、テクノロジーと結びついて、人間が多くのものを操作し、自分の望むところを実現することを可能にしました。このため、人間は何でも自分の欲するものは手に入るし、自分の意のままに他を動かすことが出来る、と思い込みすぎたのではないでしょうか。しかし、科学の知の根本にある対象と自己との分離ということをなんにでも適用しようとしすぎて、「関係性の喪失」という病を背負わざるを得なくなったと思われます。(中略)フロイトやユングの試みたことは、「関係性」を前提とする知を獲得することであったと言えます。

■ 「自我」というものについて、そして「意識」というものについて
日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は「切断」する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の「自我はできるだけ「切断」せずに「包含」することに耐える強さを持つと言えるでしょう。

ヨーロッパの近代では、ものごとを「分ける」意識の作用を評価しそれを洗練させていったのに対して、仏教ではむしろ逆に、ものごとの区別を取り払う意識を洗練させる方向に努力しました。したがって、人間の独自性を考える際に、西洋における個性というのとは異なる考えが仏教においてはあるべきです。しかし、それはindividualityという単語では表せません。(中略)西洋近代の個性は、まずegoを確立することがその前提となります。大人になる時とは、自分のアイデンティティが確立できたときである、と考えます。そのようにして確立されたegoは、自分の主体的判断と責任によって、その欲求に従いながら個性を伸ばしてゆく、ということになります。(中略)仏教における人間は、華厳の従いますと、あくまで関係のなかに存在しておる、それのみを取り出すときは「自性」はないのです。この考えに従って、ある人が自分の個別性を大切にしようとするならば、その人は「自立」などということを考える前に、他との関係の方に気を配ることになるでしょう。実際は、そのような関係そのものにこそ個別性が見いだせると考えるのです。

近代科学が人間の意識を洗練させていったのと逆の方向に仏教の思惟が発展していったということであった。すべての現象や物事を区別してゆくこと、それが自然科学の方法論であるが、仏教はその逆に、すべてのものごとを区別しない、融合させるような意識の状態を大切にする。

■ 関係性ということについて
例えば、恋人と待ち合わせをしていて、自分の目の前で恋人が交通事故で死ぬ、という悲劇に遭った人がある。その人が心理療法家を訪れてきた時に言うのは、「なぜ、あの人は死んだのか」ということである。これに対する自然科学の説明は極めて容易で「出血多量」などということになろう。しかし、それはこの人にとって納得のいくものではないし、それによって抑うつ症が解消されるものでもない、」。つまり、この人が「なぜ」と問うとき、それは「他ならぬ私の恋人が」という自分とのかかわりのなか問うているのである。人間はそれぞれの個人として、自分にとってそれは何を意味するか、と考えざるを得ない存在である。ところで、近代科学というのは、「自分とのかかわり」ということを放棄することによって成立してきた知識体系である。近代科学は、或る現象を客観的立場に立つものによって観察された結果、生じてきたもので、それゆえにこそ普遍的な知識を持つものである。しかし、恋人を失った人は、そのような普遍的な知識ではなく、個別的で自分にとって意味のある智慧を望んでいる。ここに宗教の役割がある。人間が生まれることや死ぬことについては、科学的研究が進んでいて、生物学的、医学的に説明可能である。しかし、「なぜは生まれてきたのか」「なぜは死なねばならないのか」と、自分とのかかわりにおいて考えるとき、それについては科学は答えない。

■ 機能メカニズムの理解と心のありようの理解の差異
人体のなかの、神経系、内分泌系、免疫系の各システムは、それぞれが独立して機能しつつ、しかもお互いがうまく調和的に働いておりますが、これら三者を統合する中枢は存在しない。免疫学者の多田富雄は、したがって人体というのは「スパーシステム」であると言っています。人間の心もスーパーシステムとして見るべきではないか、といういことです。論理的には矛盾することも、一人の人間の心の中では共存し、むしろその共存に価値がある。人間の心は、意識の異なるレベルでそれぞれの統合性をもちつつ、全体的には中心をもたずにスーパーシステムとしてうまく機能しているのではないか。つまり、心全体としてうまく働いているとき、そこに敢えて中心を求める必要なないと考えるのです。(中略)どうしても「統合」というと、中心となるべき原理や法則などが存在すると、考えがちになるのではないでしょうか。人間が考え出すような中心や原理を超えて、ものごとはうまく働いていると私は思うのです。

    **********************

つまりは、こういうことと理解した。
近代西洋科学:理解しようとする対象を必要最小限にまで分解し、そこで起こっていることの原理やルールを発見しようとしてきた。大から小へ、直線的に進んでいく理解方法。
一方仏教においては、区別することはせずに、全体性を捉えようとする。例えて言えば、地球規模に視点を引いて見てみるならば、肌の色をどこに国に属しているか、などは問題にならない。あくまでも人の心のありよう、持ちようについて考えた。
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女探偵ケイシー(ケイティ・マンガー著)

2023年02月20日 | パルプ小説を愉しむ
第二作『時間ぎれ』では、死刑執行を目前に控えた女囚の無実を証明して欲しいという10人の親族女性集団からの依頼と懇願、無言の圧力に耐えかねてケイシーは調査を引き受ける。でかくて強くて抜け目ない女探偵であっても、心はやさしいのがケイシーの良いところ。夫であった警察官を射殺した現場で犯行に使われた銃を握りしめて気絶していたところを発見され逮捕され、裁判にかけられて死刑宣告されたゲイルは、あと一か月ほどで刑の執行がなされるのだと言う。確かに時間ぎれ寸前だ。親族の女性たちはゲイルの無実を信じて疑わないが、当の本人は刑務所の中で無気力なままで日々を過ごしている。事件当夜の記憶がなく、自分がやったのかどうかすら分からないという。あちらこちらをつついているうちに、死刑判決を出した元判事から話がしたいと言ってくる。あれは間違いだった、証拠をみつけたという言葉を残して夕方に自宅に来てくれとケイシーに言う。自宅に向かったケイシーは、ジャクージで手首を切って死んでいる元判事を発見。タイミングがあまりにも良すぎる。そして左右の手首の両方にくっきりと切り傷が残せるものだろうかと疑う。殺された元夫の警察官の相棒として3人が浮上し、そのうちの1人は謎の失踪を起こしている。もう一人の家に行ったが誰もいない。庭の裏地のゴミ捨て場でボロキレのような黒と緑のシャツの切れ端を見つける。失踪していた元相棒が最後の日に来ていたシャツであることを妻から写真で見せられたケイシーはゴミ捨て場を掘り返す。あったのは、その家の持ち主の元警官の死体。しかも、盗まれたケイシーの銃も一緒に発見される。誰が嵌めたのか。残っている元相棒は1人だけ。その男は警察内部を監察する役割に出世していた。恋人の警官、ビル・バトラーはその男を疑わない。一人で挑んでいくケイシーを追いかけて口封じを図る監査官。汚職警官であったこの男は、協力を拒んだ元の相棒だちを殺して逃げ延びてきていた。森に逃げ込んだケイシーを追いかける犯人。銃撃戦の末に尻を撃たれたものの、相手の膝がしらを吹き飛ばしたケイシーの見事な勝利で事件は無事に解決。でかい、強い、抜け目ないは伊達ではなかった。

女性たちは、たった一目であたしの髪、態度、年齢、体重、現在および将来のこの世における価値を値踏みし、合算しようとしていた。それは、オビ=ワン・ケノービーの振り回すどんなレーザーにも負けないくらい強力だった。
ケイシーに調査を無理強いさせた親族の女性軍団の目力の強さがこう形容されている。洒落ているのと、ちょっと無理してユーモアを詰め込んだ感もある。

もうやり合う気?5分でいいから、優しくしてもらえないかな?
会えば言い争いになってしまうケイシーと恋人のビルの会話。「5分でいいから」に実感がこもっている。

彼女はノーベル平和賞にノミネートされるべきだと思いますね。
親切で気の利くメイドのことを雇い主に告げて褒めることば。

「お仕事は室内装飾でしたね」
「世界を変える役には立ちそうにない職業ですよね」

殺された元判事のフィアンセとの会話。自分の職業を上品に卑下する台詞だ。

     ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

でかい、強い、抜け目ない、と3つ立て続けに形容詞が並んだ裏表紙の説明に惹かれて、『女探偵の条件』を借りてみた。これは決してコージーミステリではない。ハードボイルドっぽさもあるれっきとしたミステリー。主人公のケイシーは、でかくて強くて抜け目ないが、イケメン男に弱い。そのため、ダメ男の夫のせいで麻薬取引に加わり前科持ちとなったために探偵免許が取れない。しかたなく、探偵免許を持つ保釈保証人ビジネスを営む160キロのデブ男、ボビー・Dの下で働いている。このボビー・Dはいつもオフィスの椅子に座って何かを食べている。四六時中だ。口は悪く、食い意地は汚いが、ケイシーとの関係は悪くない。という縁で、ケイシーはノースカロライナ州の上院議員選挙に立候補している女性候補者メアリー・D・マスターズにボディガードとして雇われた。が、そのメアリーの車の中に死体が発見される、しかも、自宅の前で。殺されたのは、土地開発成金の街の有力者。政治家と裏で繋がっていると噂されているフィクサー。誰が、ソーントン・ミッチェルを殺して、メアリーに罪をなすりつけようとしたのかを探るように依頼されたケイシー。

コージーミステリーではないから、服を買ったりお茶会を開いたり、パーティに参加したりといった余計なものはなし。直線的に捜査にまい進する物語展開はスピーディだ。そして、女探偵のタフさを表わすためか、このケイシーも相当に口が悪い。

ボビーはうれしげに笑って、次のドーナツに食らいつき、さもすまそうにむしゃむしゃやっている。この男に比べたら、ヘンリー八世などお作法の先生にみたいなものだ。
雇い主のボビーもこんな感じで表現するし、

十月のその日は、カロライナでしかみられない、うららかで美しい景色を見せていた。空は青く晴れわたり、漫画に出てきそうな白い雲が、涼しいそよ風に乗って軽やかに流れていく。空気はさわやかに香り、まるであたしの肺にだけのためにきれいな海の上空の空気と入れ替わったようだった。
とうららかな天気に対しても皮肉を含ませずにはいられない。タフぶっているためには必要な台詞というわけか。これはケイシーのせいではなく、作者のせいだね。

「彼女にも心があることは認める。それが寛容かどうかについては、明言を避けておく」
ボディ・ガードとして雇ってくれているメアリーの心についても辛口だ。でも決して嫌ってはいない。男社会に挑戦し続けている同性に対しての理解と共感を持っていることは読み取れる。

ケイシーの地道な調査に結果、事件当夜の目撃者が見つかり、そこから犯人は男と女の二人連れと分かる。男はへんてこな訛りがあり、女は尊大で背が小さい。これにピンときたケイシーは警察より早く犯人を特定できた。対立候補のイケメン男の母親と政治顧問が、強請ってきたをソーントン・ミッチェルを返り討ちにした上で、対立候補にメアリーの足を引っ張るために死体を自宅の車の中に押し込んだのだった。問題は母親が関与している事実をどうするか。ケイシーを警察と協力して、体にマイクを付けた囮となって母親と対決する。ショットガンを突き付けられながらも怯むことのないケイシーだったが、窮地を救ったのは息子の対立候補だった。結局は、この男の潔さを選挙民は支持して当選。メアリーは落選したのだったが、落選後に二人は結婚するという番狂わせ的な出来事が起きてしまうのだった。

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コージーミステリーを読むふける愉しみ 番外編

2023年02月07日 | パルプ小説を愉しむ
■ 『逃げ出したプリンセス』 ヘスター・ブラウン
一般ピープルの女性・ミーツ・王子様という女子好みのシンデレラ物語なのだが、おじさんにも楽しく読める物語だった、しかも非常に愉しく。イギリスのヨークシャー出身で今はロンドンでガーデナーとして働いているエイミー・ワイルド。他人の庭を耕しタネを植え付け野草庭園を造営することは得意だし大好きなのだが、異性との交流が苦手。ルームメイトのジョー・ド・ヴィアがパーティをひらいてエイミーのお相手探しに躍起となるのだが、本人は口下手なのと極度の引込み思案とで冷蔵庫の前に陣取ってパーティをやり過ごそうとするばかり。今日も何度目かのマッチメイキングパーティがジョーたちの部屋で繰り広げられるのだが、そこへ招待されていないはずのイメメンが取り巻き金髪美女3人を引き連れて乱入。ロルフと名乗ったイケメンはバルコニーから落ちそうになった時にエイミーが大事に育てていた植物の鉢を幾つか落としてしまう。ロルフが嵐のように登場して去っていった後に、気付くともう一人のイケメンがエミリーに近づいてくる。ロルフがやったことを謝罪するとともに、落ちていった植物を弁償してくれるという。加えて、階下へ一緒に下りて落とした鉢の後始末もやってくれた。翌日、その男、レオからお詫びとして代わりの鉢植え植物が届けられる。エイミーがクライアントのために育てていて、ロルフによって台無しにされてしまったマジック・シードという特別な植物だったのだが、レオは難なく代替物を見つけて届けてくれる。この出会いがきっかけで二人はデートするようになる。高級レストランだけではなく、超リッチ層しか家を所有できない地域にある庭園での食事。嫌でもレオの正体が気になる。実は、レオとロルフは兄弟で、二人はニローノ公国というイタリア沖にある国の王子様たちだった。御祖父さんが今の元首で、レオとロルフは傍系の継承者という血筋。気取ったところがなく、人付き合いが苦手なはずのエイミーすら気楽な雰囲気にさせてくれる魔法のような社交術。レオはごくごく普通なエイミーを魅力的だと想い、エイミーに求婚する。ここまでは典型的なシンデレラストーリーだが、児童文学ではなく大人向けの読み物としてここから先に試練がエイミーたちに降りかかる。平民のエイミーはニローノ公国プリンスの相手としてふさわしい存在になることを強要される。健康的体形はモデル型体形を目指してダイエット(しかも2週に一度の体重測定と食べるものは毎日宅配で届けられる)、ダンスのレッスン、イタリア語のレッスン、などなど。仕切るのはレオの姉のソフィア。子供のころから知能指数が異常に高かく国際弁護士として活躍するソフィアは、女性であるゆえに皇位継承権を持てないことに大きな不満で不当な女性差別だと感じている。その怒りの矛先がエイミーに向いてくる。陰険な嫌がらせ、予定をわざと知らせない、サイズ違いのドレスを写真撮影時に用意する。二人の間をとりなそうと努力するレオ。そんな中、国家元首のレオたちの御祖父さんが逝去する。死の直前に次の王位継承者をレオとロルフの父に定めて。皇太子という地位になってしまったレオは、今まで以上にニロ-ナ公国のために公的な立場で活動することが求められるようになったレオには制約が増える。もちろん結婚相手に対する制約も。がんじがらめになって自分のライフワークである園芸の時間もままならないエイミーだが、寝る間を惜しむように二つを両立させようとする。だが、すべてを金で解決するような王族たちの姿勢とやり方に反発を感じるようになるエイミー。生まれも育ちも極端に異なる二人は互いに歩み寄ろうとするのだが、歩み寄るにもあまりに大きな溝が。溝を大きくしてしまったのは二人を追うパパラッチと俗悪ジャーナリスト。エイミーの姉、ケリーがしでかした昔の事件が尾を引く一家。母親は事件以来、外に出ることに恐怖を覚え家で趣味のケーキ作りに没頭。作ったケーキは捨てるわけにはいかないので食べる。当然体重が増える。肥満体となった母親の姿が面白おかしく、というより侮蔑的に大衆紙に掲載されたことで、エイミーは家族を取るか愛するレオを取るかの選択に迫られ、レオの父親の戴冠式を前にニローナ公国から逃げ去ってしまう。いずれケリーの存在が暴かれ、家族が必死に忘れようとしていた昔の事件が暴かれて、家族がもっと辛い目に会うくらいなら自分の幸福を捨てることを決心する。そんな時に手を差し伸べてくれたのがルームメイトのジョー。エミリーから真実を受け開けられたジョーは、昔の写真から自分のクライアントがケリーであることに気付く。ケリーを一家に会わせる段取りをつけ、昔のことを心から詫びるケリーを受け入れる一家。逃げ出したプリンセスを追い求めるパパラッチ対策として、ケリー自らが公式インタビューの応じて過去の出来事と家族への愛情と謝罪の気持ちを吐露するというジョーが生み出した先手必勝パターンが功を生む。一方、ニローナ公国でも新しい元首が王位継承権の在り方を見直し、女性にも継承権を認めることとなった。これでレオの継承権は第三位となり皇太子ではなくなる。ロンドンの銀行家としての生活が可能となったレオは再びエイミーに結婚して欲しいと伝えて、エイミーが受け入れる。めでたしめでたし。

と、こんなべたなシンデレラストーリーなのだが、手の届かない超リッチな超上流階級の雰囲気満載であるほかに、文章と描写の素晴らしさがおじさんである私を惹きつけた。物語のプロローグからして引き込まれしまうこと間違いない導入部だった。

ガラスの靴とロイヤルウエディングの物語を主食に育った女の子たちがたいていそうであるように、わたしもかつて、プリンセスは生まれながらにプリンセスなのであって、あとからなるものではないと思っていた
この最初の文章で引き込まれたね。古典の名著にも負けないほど読者を鷲掴みにする素晴らしい冒頭だと思った。物語を「主食に育った」なんて言う抜群の言語センス。そしてこう続く。

一見、有力候補にはほど遠かったシンデレラだって、人々が万一その謙虚で慈悲深い人柄と輝くばかりの美しさに気付かなかった場合のために、国でいちばん華奢な足という歴然たる証をあたえられていたではないか。
誰もが知っているシンデレラを例に出し、これから始まるシンデレラストーリーを予感させつつも自分の考えを補強する文章が続く。そしてプロローグの締めがこちら。

女の子はプリンスにガラスの靴を履かせてもらっても自動的にプリンセスに返信するわけではないというシビアな現実が待っていた。プリンセスの真価は”めでたしめでたし”のあとに決まる。
普通の少女・ミーツ・プリンスという単純なお話ではないと伝えている。たった2ページのプロローグで私は魔法にかけられたようにこの物語を読み進むこととなったのだ。

「天気やら狩りやらクリスマスにもらったものなんかについて他愛もない話をしながら、お互いが興味を持てる話題が浮上するのを待てばいいの」
ルームメイトのジョーがエミリーに教え諭す。実はこのジョー、貴族の娘であることがお話の進展とともに分かる。上流階級のアクセントと相手のノーと言わせないという力強さを持った女性がエミリーのために一肌も二肌も脱ごうというのだ。

それぞれ別の時代のブリットニー・スピアーズが三人、ボノ一人。
もしマフィアがイングランド代表としてクリケットをやったら、こんな感じだろう。
どちらもジョーがエミリーのために開いたパーティにやってきた客の描写。ブリットニー・スピアーズだったり、ビヨンセを狂ったように踊ったり、若々しいエネルギーが爆発している様がこの時代のヒット歌手の列挙で目に浮かぶ。

父がわたしの小さな手を取り、トマトの種を土の中に押し込むのを手伝ってくれたときから、私は種の魔法にかかったままだ。(中略)ところが、それに暖かい土の毛布をかけ、水をやり、肥料を与えると、まるで魔法のように、種の中で何かが目覚める。そしてそれは、いつ成長を始めるべきで、どちらに光があって、どこまで背を伸ばせばよいかをちゃんと知っている。そこに、花粉をつけた羽で花畑から果樹園へ、果樹園から花畑へと舞い飛ぶ蜜蜂たちの驚くべき自然のマジックが加われた、どればおとぎ話など必要とするだろう。
一方のエミリーは平凡を絵にかいたような出身の女性だが、ふんだんに愛情をかけられて育ったことと感受性豊かな人物であることが「それとなく」紹介されている。

なぜか彼の姿だけなぜか妙に際立っている。まるで、ほかの人たちより少し余計にピントが合っているかのように。
レオに最初に目を止めた時のエミリーの姿がこれ。

ああ、そのアクセントはヨークシャーなのか。御免、あまり詳しくなくて。独特だね。音楽的だな
自己紹介が終わった時にレオがエミリーに言う。訛りが音楽的と形容するとはなんと魅力的な男だろうか。見た目だけではなく知性も十分に兼ね備えていることがここで分かる。

「今日耳にしたことのなかで、いちばん興味深い話だな。しかも断トツで」
庭園に植えてある植物について熱く語るエミリーが、自分の話している内容があまりにオタクっぽいことに気付いて黙った時にレオが言った台詞。エミリーの気まずい沈黙を助けるだけでなく、相手を持ち上げる表現として是非使ってみたい。

仕事の話をするきみはすごくいい表情だなと思って。きみにとってガーデニングという仕事は、単に完璧な芝生をつくることだけじゃないというのがよくわかるよ。
ロイヤルファミリーの一員として、相手をそらさない雑談の手ほどきを受けていたと告白したレオだが、こんなとろけるような台詞が口から出てきたのはその結果なのか、それとも本心なのか...次の同じ。

「この庭に命を吹き込んでくれて、本当にありがとう」
「庭はもともと、生きていたわ。わたしはこの部分を植え替えただけ」
「違うよ。きみは何か別のものをもたらしてくれた。魂を与えてくれた。きみが選んだバラたち、その香り、名前、歴史ー。それはただ単に植物を土に植える古都とは違う。君はこの庭に、この先何年も何十年も続いていく物語を作ったんだ。」


彼は相手の自己評価を一瞬にして高めることのできる人だ
エミリーがレオを評する一言。これにすべてが集約されている。雑談するにもただ単に口から言葉を発するだけではなく、相手をリスペクトし更に「自己評価を一瞬にして高める」ところまで昇華できていることが真の上流の証なのだろう。こうなりたい。

「結構よ。あなたの後頭部には特に興味ないもの」
自分のしたことへの謝罪として「ひれ伏して謝りたい」というロルフに対して。さらりと言ってのける。

わたしの場合、そこに”彼の両親に会う”という要素と”城に滞在する”という要素が加わり、さらにそのすべてに”ロイヤルファミリー”という係数をかけることになる。
恋人の両親に会うという儀式を前にした女性心理を、要素に分けて数式にして表示するという斬新さ。これもいつか使ってみたい。「加わり」「掛けて」「係数は...」。引いたり割ったりする場合も考えておこう。

 登場人物の魅力度 ★★★★
 ストーリー度   ★★★
 設定の魅力度   ★★★★
 台詞の魅力度   ★★★★

■ 『ビルバオの鏡』 シャーロット・マクラウド
『にぎやかな眠り』の著者であるシャーロット・マクラウドが書いた別のシリーズものの第4作。このシリーズでは、セーラ・ケリングというボストンの名家出身の女性が、歳はなれた夫に死に別れた後に、自分の足で立って自立しながら自活の道を歩む中、第二の生涯の一緒に過ごせる男性と出会いつつも遭遇する事件をどう乗り切るかが描かれている。

はっきり言って退屈。つまらない描写が多く、事件の謎解きなどホンの申し訳程度の筋立てしかない。犯人も必然性がなく、誰であっても成り立つ物語でしかない。コージーミステリーとはそんなもんだ、と言われればそうかもしれないが、それであればせめて謎解きのプロセスでいろんか面白く興味深い出来事が書かれていて欲しい。このシリーズは主人公のセーラが自立していく過程が物語のメインのようだが、それも読んでいて応援したくなるようなものではない。何せ、セーラ自身のものの言い方が厳しく、応援したいと思えるような女性でなないから。それに、一族の人間の鼻持ちならないこと。彼らの中の人間が犯罪を平気で犯していたという設定なので、悪く描くのは当然としても、気分が悪くなるような人たちの集団であり、一族全員を抹殺しても世界平和のために許されそうな存在でしかない。どこかに読みどころを作って欲しかった、というのが偽らざる感想です。このシリーズはもう読まないな。
 登場人物の魅力度 ★★
 ストーリー度   ★★
 設定の魅力度   ★★
 台詞の魅力度   ★


■ 『エリザベス王女の家庭教師』 スーザン・イ-リア・マクニール
アメリカ育ちのイギリス人女性が、第二次世界大戦中の英国に戻り、チャーチル首相の秘書から始めてMI5にリクルートされ、ナチスが計画しているエリザベス王女誘拐計画を阻止するために家庭教師としてウィンザー城に派遣されることになった。この本はシリーズ2作目で、1作目でチャーチル首相の秘書として見事な活躍をした後の話として、物語が展開していく。ナチスのスパイとして城に潜入しているのは誰なのかを探りながら、お城でのロイヤルファミリーとの生活や主人公マギーの恋愛感情、家庭事情、そしてアメリカ育ちの女性らしい(と英国では考えられるのだろう)行動と思考が見事にナチスの大胆な計画を挫折に追い込む。

王女が誘拐されなかったことは歴史上の事実として知れ渡っている、つまりは読者には結末が分かっているというハンディキャップがありながらも物語を紡いでいくというのは大変なことなのだろうと思う。最後は主人公が勝つ、というのが分かりながら、その過程をいかに愉しませるかが、普通のミステリー以上にこの種の設定の物語に課せられた課題なのだろうが(『ジャッカルの日』なんかも同じだよね)、まあまあ上手くやっている。というのも、最後まで愉しく読めたのだから。特に、マギーの連絡役として途中から登場するネヴィンスという男に対するマギーの嫌悪感やそれを煽るネヴィンスの言動なんか、マギーの顔つきが分かるほどにしっかりと描写されている。

■『もう年はとれない』 ダニエル・フリードマン
主人公は80をとっくにを過ぎたジジイ。そう、ジジイと呼ぶのが相応しいくらいにふてぶてしく、しぶとく、そして嫌味な皮肉を始終周りに撒き散らしている。なにせ、イスラエルから訪れた男に対して「ユダヤちん○こ」と面と向かって呼び捨てるくらい。こんなジジイがもし知り合いにいたら、絶対に関係を絶ってしまう、それくらいの嫌味なジジイ。そんなジジイであっても、長年連れ添った妻には嫌味のトーンが下がる。孫に対してもだ。つまり、この世に存在する自分の家族以外の人間に対しても容赦がないということ。
当の本人もユダヤ系で、それが故に戦争時にナチスドイツの捕虜になってユダヤ人収容所で悲惨な体験をする。その時の収容所所長が生きており、しかもアメリカで暮らしているという話を打ち明けられる。今の自分にとっては関わりのない話と取り合わなかったが、周りはそうは思わず、否応なしにナチ戦犯狩りに巻き込まれてしまう。昔取った杵柄というやつ、刑事であった経験が活かして、隠れていた元戦犯を探し出してしまうのだが、相手も寄る年波には勝てずにヨボヨボで、痴呆症になって老人ホームという収容所のようなところで垂れ流しながら生きる屍のありさま。
戦争当時の復讐はそこで終わり、ここから本筋へと一直線。自分を元戦犯探しに駆り出すために自分の周りで人を殺していた相手と対決することになる。状況証拠は自分の孫に不利。警察は孫を殺人犯と考え出しているから、ジジイも本気にならざるをえない。
そのような状況でも、関わりを持った他人に対して痛烈な皮肉を浴びせまくる。

- 彼女を見ると、バイオリンコンチェルトやルネサンスの絵画を形容するときによく使われる華麗な形容詞が思い浮かぶ。
- つねに外敵に直面している?おれは88歳だ。サンドイッチを作ってくれる人間が手を洗うのを忘れたら、それこそが外敵だよ。
- あなたが大声で黙らせられない、脅しても追い出せない、殴って従わせるわけにはいかない確かな現実があるんだ。わたしはこの話をするのを先延ばしにしてきた。

 登場人物の魅力度 ★★★
 ストーリー度   ★★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★


■『海辺の幽霊ゲストハウス』 E・J・コッパーマン著
9歳の娘を持つシングルマザーが、これからの生活手段を確保するために海辺でゲストハウスを始めようとして購入した屋敷に男女の幽霊が住んでいた。そして幽霊たちは、自分たちが殺されたのだと言い、主人公に殺人者が探す手伝いをするように強要した。言うことを聞かないと、ゲストハウスを始める準備ができない。いやいやながら事件背景を探り出す主人公に脅迫メールが届くようになり、今度は自分が危険な立場に追い込まれていく中、あちこち突いていくと犯人が浮かび上がってくる。
軽快なストーリー展開と、幽霊という存在の奇抜さとしっかりものの娘と対照的にダメ母親のコンビが醸しだすの陽気で軽快な物語展開が、続編を愉しみにさせてくれる。

- 六、七週間眠ってしまいたいという願望が痛みに取って代わられると、意識がはっきりしはじめた。心の中でひとりで投票した結果、また痛み出した頭の傷には触れないことにした。
- わたしがテクノロジーに対して持っている親近感といったら、かもしかが工具のドライバーに対して持っているそれといい勝負なのだ。

 登場人物の魅力度 ★★
 ストーリー度   ★★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★


■『死人主催晩餐会』 ジェリリン・ファーマー
映画の都ハリウッドでケータリングビジネスを営む女性が殺人事件に巻き込まれるというアメリカ小説ではごくごく普通に見られるケータリング事業という設定にも拘わらず、物語の流れをハラハラドキドリしながら興味津々に追えるストーリー展開に仕立て上げたのは著者の力量か。

- デザートが運ばれてくると、これほどまでに芸術的な鋭い感覚で表現された七千カロリーをみたことはないとウェスリーは言った。
 登場人物の魅力度 ★★
 ストーリー度   ★★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★


■『闇のアンティーク』 サルヴァトーレ・ウォーカー
- きみとなら理性と利害に基づく打算的な結婚ができるのに残念だよ。
- 宣伝だよ、宣伝。すべてがショービジネス化してきたこの世界ではね、芸術の祭司たちはいまや、神殿の奥におとなしく引きこもっていたりしない。彼らは国際骨董市をはしごして回る高級旅芸人になったんだ。知ったかぶりと正真正銘の無知と出世欲のにおいをぷんぷんさせ、決して満たされることのない金銭欲を剥き出しにしながら、地球規模の巡業を続けている。
- 連中にとって、我々はときの神々と交信するシャーマンで、成金にとってこれほど恐ろしいものはない。アポロンさながらの得がたい肉体を繊細なマイセンの磁器のように持ちまわることにかけてはあの男の右に出るものはない。薀蓄をちりばめた優雅な会話で聴衆を魅了する。

 登場人物の魅力度 ★★★
 ストーリー度   ★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★★
コメント
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