本書の備忘録として。
■ 日本古来の宗教観
日本の神は、人知を超えた恐ろしい存在と考えられ、人々に恩恵を与える一方でその怒りは人々に厄災をもたらすと信じられていた。かつまた、神は外からやってきて人々のところに定住しないと考えられていた。
民俗学の研究によると、そもそも日本の神の中で最も重要な神は死者の霊魂が昇華された祖先神的な性格を持つという。死者の霊魂は最初はアラタマとして危害をおよぼす危険な要素を持っているが、丁寧に祀られると荒々しさが薄れてニギタマ(和魂)に変化していく。それも数十年すると、タマの段階で持っていた個体性や物質性を失い、祖先神と一体化していく。このように日本の神は本来目に見えない存在であり人格的な個性は弱く、そして通常人里離れた山の中や海の彼方に住み、定期的にあるいは不定期的に人里を訪れる存在であった。その際に非物質的で変形を持たない神が一時的に宿る場が必要となり、これが依代(よりしろ)とよばれるもので、樹木や岩などの自然物や鏡・刀剣などが用いられる。人に神が下りてくるばあいは憑座(よりまし)といわれる神がかりとなる。
■ 日本における仏教受容の歴史と意義
聖徳太子の時代から、大化の改新を経て律令へ天皇中心の中央集権国家体制が確立されていくが、その中にあって仏教は一方で国家の手で保護育成され、また国家行事の中に採用されるが、他方ではそれに伴って国家の統制を受けるようになる。仏教が国家に採用された最大の理由は、大陸伝来の新しい宗教文化によって旧来の氏族社会の障害を取り払い、新しい国家体制の確立を図ったものと考えられる。
インド・中国という最高の古代文化の中で磨かれ、思想、教団組織、儀礼など、いずれをとっても高度に確立された仏教は、同時にまた建築や工芸・医薬などの最新の科学技術を伴い、さらには律令政治体制と密接に結びついていた。それゆえ、仏教を受容することはそのまま大陸の最新の文化を受容することに他ならなかった。律令体制の確立という面を主にみると、仏教の国家的な受容はまさにそのイデオロギー的な側面をなしている。もはや仏教の優位は確定的であり、古来の神々は仏に従属することによってのみ自己の存在を守りえたのである。その際に、仏教によって古来の宗教が決して滅ばされなかった点は注目される。古来の宗教を否定するのではなく、それを認めながら、しかも個々の氏族から自由な世界宗教である仏教を優位におくことによって、中央による統一をなしえたのであり、逆に氏族社会に根差した古来の宗教もすすんで仏教の保護を求め、それによって自己の地位を保とうとしたのである。
天平時代、位をすでに孝謙天皇に譲っていた聖武天皇は、東大寺の廬舎那仏を造立する。国家の永遠の繁栄を願って作ったはずの大仏は、過酷な労働の搾取によって人々を疲弊させ人心を離反させる結果となった。
天平仏教は、国家と仏教があまりに深く関わりすぎ、民衆の生活と乖離しすぎた。
■ 仏教思想の本質と変遷
仏教思想の大きな特徴は「縁起」にあると言われる。縁起とはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない。これが無常といわれることである。他に寄らずして自存し永遠に存在するようなものは何もなく、つまり実体がない。この考え方に立つと、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。プラトンのイデア論や、神を完全な存在と考えるキリスト教哲学とは異なる。
紀元前後頃、従来の仏教に飽き足りない人たちによって興された新しい宗教運動のなかで大乗仏教が形成された。「空」の思想や菩薩の利他主義のほか、もともと在家者の活動と深く関わっていたと考えられ、仏陀に対する信の重視など、在家者に対する平易な行を説き、また釈迦仏だけではなくその他の様々な仏や菩薩に対する信仰も大きく発展する。般若経典や法華経、華厳経、無量寿経などはこうした運動の中で形成された。インドにおける大乗仏教は、その後中観派・唯識派などの哲学を発展させ、又のちには密教も形成された。
大乗仏教は、紀元2世紀ごろまでの初期(般若経典や浄土経典、法華経、華厳経などが成立)、4・5世紀に成立して唯識説を説くものや如来蔵・仏性を説く経典が成立した中期、大日経は金剛頂経などが成立した後期に分けられてそれぞれ別々に発展していった結果、膨大で複雑な構成をもつようになった。
一乗主義とは、人はだれでも悟れるとする考え方。大乗仏教では一切衆生を救済しようとする利他の精神こそ根本であると説き、このような大乗の修行を行うものが菩薩である。
「不立文字」を主張する禅が興隆に向かうと、経典そのものが重んじられなくなり、教学は衰退していった。
■ 日本における仏教思想と変遷
南都六宗とは、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律、三論、法相(ほっそう)、華厳の六宗。倶舎宗と成実宗は、部派仏教)小乗仏教)に由来し、倶舎宗は唯識派の世親の著作『倶舎論』に基づくために唯識派を承けた法相宗の属宗とされた。成実宗は「空」を説くために三論宗の基礎学として学ばれた。インドで大乗経典の思想を体系化して哲学的に完成させたのは龍樹(ナーガールジュナ)で、その思想の中心は「空」であって、一切の言語概念による把握を否定し真理はどのような言語概念でも把握されないと説いた。その思想を承けたのが三論宗。インドでは龍樹以降さらに仏教の哲学化が進み、4・5世紀には唯識派の思想が確立される。この思想が玄奘と弟子の基によって確立されて法相宗の教学になる。
原始仏教以来の根本原理の一つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというもの。言い換えれば、因果性を離れた永遠の存在はありえないということ。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するとの根本的に異なっている。従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。地・水・火・風・空・識の六大で物質・精神を合わせたこの世の総体を指し、この六大が世界の本質・本体に他ならないと考える。密教では物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(ほっしん/本質的な在り方)とされる。我々の自我もその世界の一部であるから、我々ば修行するまでもなくすでに本来的には仏そのものであって、そのことを自覚していく過程が修行である。
空海の密教理論は日本人の宗教観を理論化したともいえる面がある。日本人はこの現象世界の外に絶対神をたてたりイデア的世界を認めたりせず、現象世界をそのまま肯定する傾向が強く、アニミズム的世界観に由来する自然世界を尊重することが多く、汎神論的な六大説は日本人の世界観に極めて良く合致している。密教では、原理論および現象論を踏まえた実践論が三密加持で、三密とは身・口(語)・意(心)のはたらき、加持は我々のはたらきと仏のはたらきが合致すること。身に印契を結び、口に真言を唱え、心が三昧(精神が安定した状態)に住するならば、そこに自我と仏の合一、即身成仏が完成する。
中世に発展した特徴ある思想を本覚(ほんがく)思想と呼ぶ。元々は衆生に内在する悟りの本性を意味するものだったが、現実に悟りを開いているという意味に変わっていく。これにより、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの表れでありそれとは別に求めるべき悟りはない、となる。この考え方を推し進めると、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。我々が目にする一草一木、耳にする鳥や虫の声、すべてが仏でないものはない、ありのまま自然のままを尊ぶ本覚思想は仏教の枠組みを超えて、中世の文学・美術・芸能から神道の思想にまでおよぶ広範囲な影響を及ぼすこととなる。
仏教の立場では、悟りを開いたからといってこの現象世界と別の真理の世界に入るということはない。この現象世界の法則性、即ち縁起の原理を正しく認識することが悟りにほかならない。事実を見る目が煩悩によって曇らされているから、煩悩の曇りを払い正しい認識に向かって修行に努めることが必要とされる。悟りとは、何か別の次元に移るわけではなく、この世界の認識の転換であるから、いわゆる存在論ではなく認識論が問題になっているということもできよう。ところが、大乗仏教では、この世界の全体性が空・真如・諸法実相などとして、それ自体の実体性は否定されながらも体得されるべき対象と考えられるようになってくる。この立場からするあんらば、この現象世界が心理そのものの世界として肯定されることになる。仏の悟りの立場から見るならば、この現象世界は全体として肯定されるもので、そこでは生死と涅槃、煩悩と菩提というような対立は廃棄される。ところが、そのような考え方は仏の悟りの立場でいわれることであり、凡夫の立場でただちに生死や煩悩が肯定されるわけではなく、悟りに至るには幾度も輪廻を繰り返しながら長い困難な酒豪が必要とされる。この凡夫との距離が圧縮されて零となり、まったく修行を必要とせずに凡夫の状態のままで現象世界が全的に肯定されるようになったのが、その後の本覚思想である。
鎌倉新仏教の共通の背景として天台本覚思想がある。
鎌倉仏教が注目される理由として、第一に実践面で易行化、すなわち誰にでも可能な容易な実践法をたて、それによってはじめて民衆のものになった。第二は理論面で、親鸞や道元の思想は宗教哲学として今日でも第一線で問題とされるような高度な内容を持っており、またそこに日本の社会に適応した仏教の日本化が見られる。これに対して、平安仏教は祈祷仏教であって思想内容に乏しいと考える見方がある。
鎌倉時代に新しい称名念仏を提唱した法然は、口に阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を唯一絶対とする。さらに弟子の親鸞は、阿弥陀仏を信じること子を絶対であるとして、重点を行から信へと移した。自力の行によって悟りを得ようとしても不可能であり、阿弥陀仏の他力を頼ってはじめて救済が可能だとした。
■ 日本古来の宗教観
日本の神は、人知を超えた恐ろしい存在と考えられ、人々に恩恵を与える一方でその怒りは人々に厄災をもたらすと信じられていた。かつまた、神は外からやってきて人々のところに定住しないと考えられていた。
民俗学の研究によると、そもそも日本の神の中で最も重要な神は死者の霊魂が昇華された祖先神的な性格を持つという。死者の霊魂は最初はアラタマとして危害をおよぼす危険な要素を持っているが、丁寧に祀られると荒々しさが薄れてニギタマ(和魂)に変化していく。それも数十年すると、タマの段階で持っていた個体性や物質性を失い、祖先神と一体化していく。このように日本の神は本来目に見えない存在であり人格的な個性は弱く、そして通常人里離れた山の中や海の彼方に住み、定期的にあるいは不定期的に人里を訪れる存在であった。その際に非物質的で変形を持たない神が一時的に宿る場が必要となり、これが依代(よりしろ)とよばれるもので、樹木や岩などの自然物や鏡・刀剣などが用いられる。人に神が下りてくるばあいは憑座(よりまし)といわれる神がかりとなる。
■ 日本における仏教受容の歴史と意義
聖徳太子の時代から、大化の改新を経て律令へ天皇中心の中央集権国家体制が確立されていくが、その中にあって仏教は一方で国家の手で保護育成され、また国家行事の中に採用されるが、他方ではそれに伴って国家の統制を受けるようになる。仏教が国家に採用された最大の理由は、大陸伝来の新しい宗教文化によって旧来の氏族社会の障害を取り払い、新しい国家体制の確立を図ったものと考えられる。
インド・中国という最高の古代文化の中で磨かれ、思想、教団組織、儀礼など、いずれをとっても高度に確立された仏教は、同時にまた建築や工芸・医薬などの最新の科学技術を伴い、さらには律令政治体制と密接に結びついていた。それゆえ、仏教を受容することはそのまま大陸の最新の文化を受容することに他ならなかった。律令体制の確立という面を主にみると、仏教の国家的な受容はまさにそのイデオロギー的な側面をなしている。もはや仏教の優位は確定的であり、古来の神々は仏に従属することによってのみ自己の存在を守りえたのである。その際に、仏教によって古来の宗教が決して滅ばされなかった点は注目される。古来の宗教を否定するのではなく、それを認めながら、しかも個々の氏族から自由な世界宗教である仏教を優位におくことによって、中央による統一をなしえたのであり、逆に氏族社会に根差した古来の宗教もすすんで仏教の保護を求め、それによって自己の地位を保とうとしたのである。
天平時代、位をすでに孝謙天皇に譲っていた聖武天皇は、東大寺の廬舎那仏を造立する。国家の永遠の繁栄を願って作ったはずの大仏は、過酷な労働の搾取によって人々を疲弊させ人心を離反させる結果となった。
天平仏教は、国家と仏教があまりに深く関わりすぎ、民衆の生活と乖離しすぎた。
■ 仏教思想の本質と変遷
仏教思想の大きな特徴は「縁起」にあると言われる。縁起とはあらゆる現象世界の事物は種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転極まりない。これが無常といわれることである。他に寄らずして自存し永遠に存在するようなものは何もなく、つまり実体がない。この考え方に立つと、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。プラトンのイデア論や、神を完全な存在と考えるキリスト教哲学とは異なる。
紀元前後頃、従来の仏教に飽き足りない人たちによって興された新しい宗教運動のなかで大乗仏教が形成された。「空」の思想や菩薩の利他主義のほか、もともと在家者の活動と深く関わっていたと考えられ、仏陀に対する信の重視など、在家者に対する平易な行を説き、また釈迦仏だけではなくその他の様々な仏や菩薩に対する信仰も大きく発展する。般若経典や法華経、華厳経、無量寿経などはこうした運動の中で形成された。インドにおける大乗仏教は、その後中観派・唯識派などの哲学を発展させ、又のちには密教も形成された。
大乗仏教は、紀元2世紀ごろまでの初期(般若経典や浄土経典、法華経、華厳経などが成立)、4・5世紀に成立して唯識説を説くものや如来蔵・仏性を説く経典が成立した中期、大日経は金剛頂経などが成立した後期に分けられてそれぞれ別々に発展していった結果、膨大で複雑な構成をもつようになった。
一乗主義とは、人はだれでも悟れるとする考え方。大乗仏教では一切衆生を救済しようとする利他の精神こそ根本であると説き、このような大乗の修行を行うものが菩薩である。
「不立文字」を主張する禅が興隆に向かうと、経典そのものが重んじられなくなり、教学は衰退していった。
■ 日本における仏教思想と変遷
南都六宗とは、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律、三論、法相(ほっそう)、華厳の六宗。倶舎宗と成実宗は、部派仏教)小乗仏教)に由来し、倶舎宗は唯識派の世親の著作『倶舎論』に基づくために唯識派を承けた法相宗の属宗とされた。成実宗は「空」を説くために三論宗の基礎学として学ばれた。インドで大乗経典の思想を体系化して哲学的に完成させたのは龍樹(ナーガールジュナ)で、その思想の中心は「空」であって、一切の言語概念による把握を否定し真理はどのような言語概念でも把握されないと説いた。その思想を承けたのが三論宗。インドでは龍樹以降さらに仏教の哲学化が進み、4・5世紀には唯識派の思想が確立される。この思想が玄奘と弟子の基によって確立されて法相宗の教学になる。
原始仏教以来の根本原理の一つに無我の原理がある。一切の存在は自我のような固定的な実体性をもたないというもの。言い換えれば、因果性を離れた永遠の存在はありえないということ。ところが、密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するとの根本的に異なっている。従来の仏教の無我・空のもつ現世否定性が消えて、密教においては顕著な現実肯定性が支配するようになっている。地・水・火・風・空・識の六大で物質・精神を合わせたこの世の総体を指し、この六大が世界の本質・本体に他ならないと考える。密教では物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(ほっしん/本質的な在り方)とされる。我々の自我もその世界の一部であるから、我々ば修行するまでもなくすでに本来的には仏そのものであって、そのことを自覚していく過程が修行である。
空海の密教理論は日本人の宗教観を理論化したともいえる面がある。日本人はこの現象世界の外に絶対神をたてたりイデア的世界を認めたりせず、現象世界をそのまま肯定する傾向が強く、アニミズム的世界観に由来する自然世界を尊重することが多く、汎神論的な六大説は日本人の世界観に極めて良く合致している。密教では、原理論および現象論を踏まえた実践論が三密加持で、三密とは身・口(語)・意(心)のはたらき、加持は我々のはたらきと仏のはたらきが合致すること。身に印契を結び、口に真言を唱え、心が三昧(精神が安定した状態)に住するならば、そこに自我と仏の合一、即身成仏が完成する。
中世に発展した特徴ある思想を本覚(ほんがく)思想と呼ぶ。元々は衆生に内在する悟りの本性を意味するものだったが、現実に悟りを開いているという意味に変わっていく。これにより、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの表れでありそれとは別に求めるべき悟りはない、となる。この考え方を推し進めると、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。我々が目にする一草一木、耳にする鳥や虫の声、すべてが仏でないものはない、ありのまま自然のままを尊ぶ本覚思想は仏教の枠組みを超えて、中世の文学・美術・芸能から神道の思想にまでおよぶ広範囲な影響を及ぼすこととなる。
仏教の立場では、悟りを開いたからといってこの現象世界と別の真理の世界に入るということはない。この現象世界の法則性、即ち縁起の原理を正しく認識することが悟りにほかならない。事実を見る目が煩悩によって曇らされているから、煩悩の曇りを払い正しい認識に向かって修行に努めることが必要とされる。悟りとは、何か別の次元に移るわけではなく、この世界の認識の転換であるから、いわゆる存在論ではなく認識論が問題になっているということもできよう。ところが、大乗仏教では、この世界の全体性が空・真如・諸法実相などとして、それ自体の実体性は否定されながらも体得されるべき対象と考えられるようになってくる。この立場からするあんらば、この現象世界が心理そのものの世界として肯定されることになる。仏の悟りの立場から見るならば、この現象世界は全体として肯定されるもので、そこでは生死と涅槃、煩悩と菩提というような対立は廃棄される。ところが、そのような考え方は仏の悟りの立場でいわれることであり、凡夫の立場でただちに生死や煩悩が肯定されるわけではなく、悟りに至るには幾度も輪廻を繰り返しながら長い困難な酒豪が必要とされる。この凡夫との距離が圧縮されて零となり、まったく修行を必要とせずに凡夫の状態のままで現象世界が全的に肯定されるようになったのが、その後の本覚思想である。
鎌倉新仏教の共通の背景として天台本覚思想がある。
鎌倉仏教が注目される理由として、第一に実践面で易行化、すなわち誰にでも可能な容易な実践法をたて、それによってはじめて民衆のものになった。第二は理論面で、親鸞や道元の思想は宗教哲学として今日でも第一線で問題とされるような高度な内容を持っており、またそこに日本の社会に適応した仏教の日本化が見られる。これに対して、平安仏教は祈祷仏教であって思想内容に乏しいと考える見方がある。
鎌倉時代に新しい称名念仏を提唱した法然は、口に阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏を唯一絶対とする。さらに弟子の親鸞は、阿弥陀仏を信じること子を絶対であるとして、重点を行から信へと移した。自力の行によって悟りを得ようとしても不可能であり、阿弥陀仏の他力を頼ってはじめて救済が可能だとした。